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山形六日町教会

2021年1月17日

聖書:サムエル記上16章12~13節 ローマの信徒への手紙8章24~26節
「聖霊の執り成し」波多野保夫牧師

説教シリーズ「祈るときには」の26回目となりました。クリスマス、新年と続きましたので1か月ほど空いてしまいました。振り返りから始めましょう。
調べてみますと第1回は2019年9月15日「願う前から」と言う説教題でマタイによる福音書6章7節以下からみ言葉を聞きました。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 だから、こう祈りなさい。」この様に主はおっしゃり、弟子たちに「主の祈り」を教えられたのです。
2回目以降の説教題を拾ってみますと「どんなことでも」「山を動かし谷を埋める祈り」「御心を聴く」「神の沈黙」「一人になって」「静けき祈りの時」この様に続けました。
50年以上前の話になりますが、20世紀の代表的なピアニストの一人とされるアルトゥール・ルービンシュタインが演奏会の後、ホールの客席で女性記者のインタビューを受けたそうです。演奏の話が一区切りしたところで彼女に質問しました。「ところで今日一番熱心に演奏を聞いていたのは誰だと思う?」 彼女は暫らく考えた後で「今日来ていた評論家のAさんだと思います。明日の新聞に批評記事を載せるはずですから。」「確かにAさんは前から5番目の席で一生懸命聞いていたね。だけど一番熱心に聞いていたのは実は私なんだよ。」
この話を思い出すたびに、説教を一番よく聞いているのが私でありたいと思うのですが、なかなかそう行かない現実があります。
説教者、これはCSの礼拝でも全く同じなのですが、聖霊の導きを祈りながら準備します。そして語った御言葉を皆さんは聖霊に導かれて聞きます。この時、説教者はみ言葉を語る者であると同時にみ言葉を聞く者なのです。
ですから、私は25回この説教シリーズ「祈るときには」を聞いて来ました。当然一回も休まずにですね。25回の中で印象に残っていることが2つあります。たった2つなのかと言われそうですが、この位が私のみ言葉を聞く力なのかも知れません。
その一つが、「何を祈っても良い。祈りの自主規制は必要ない。」ということです。「でも、イエス様は『神と自分と隣人を愛しなさい』とおっしゃいました。それに反することを祈っても良いのですか?」大変良い質問です。良いんです。
今、聖書のリレー通読は詩編を終えようとしていますが「あれー、こんな事祈って良いの?」と思う詩に出会います。例えば63編ダビデの詩です。63:10 わたしの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ 陰府の深みに追いやられますように。11 剣にかかり、山犬の餌食となりますように。ダビデは「私の敵を殺してください」と祈っています。まあ、この様な祈りをしないで済むようにありたいと思いますが、要点は自分の敵を滅ぼすことを神様に委ねている点です。実際彼は執拗に追いかけてくるサウル王を洞窟の中で殺すチャンスがあった(サムエル上24:4-)にも関わらず手を下しませんでした。裁きを神に委ねたのです。「祈りの自主規制」は必要ありませんが、敵に手を下すことは神様に委ねるのです。「あのイヤナ波多野が神様にもっと近づきますように。」この祈りを勧めています。
もう一つは「祈りは聞かれる」です。何度も繰り返しお話ししています。私たちの祈りを聞き神様は答えを下さいます。「お前の恵みは十分だ」「今はその時ではない」「ヤット祈ったね。かなえてあげよう」「分かった、しかし祈ったよりももっと良いものをあげよう」この4つです。
様々な方法を用いて答えてくださいます。耳と心を澄ませて神様のお答えを聞くのです。

皆さんの中にも携帯電話やスマートフォンをお持ちの方が多いのではないかと思います。30歳以下ではスマートフォン普及率が90%を超えているそうです。無線のコミュニケーション手段を総務省の統計では移動体通信と呼びますが、いつ頃・誰が発明し、なんと呼ばれるのかご存知でしょうか? ヒントです。性能的に特徴があって、使っていればどこでも使えますし、バッテリーが無くなることも有りません。しかし、使わないと通じなくなってしまいます。そうです。発明者は「神様」、名前は「祈り」。発明場所は「エデンの園」でしょうか? この素晴らしいスマホですが、残念ながら混線することが有ります。悪魔がやっかんで妨害電波を送るのでしょう。
そんな時、正しく聞き取る方法をお話ししました。聖書のみ言葉に即しているのか? ただし、これはチョット注意が必要です。悪魔が主イエスを試みた際、旧約聖書のことばを引用して「お前が神の子なら、神殿の屋根から飛び降りてみろ。『天使たちが支えてくれる』と聖書に書いてある」この様に誘惑したのです。ですから肝心なのは聞こえて来た答えが聖書全体が語る「神様と、自分と、隣人を愛する」ことにふさわしいか否かです。まだ迷いがあったならば、信仰の友や長老さんや牧師に相談して一緒に祈ってください。今度こそ神様の答えがハッキリと聞こえるはずです。 説教シリーズ「祈るときには」の25回目までで、私が聞き取った2つのことをお話ししました。

さて本日与えられた聖書、ローマの信徒への手紙8章24節です。パウロは「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」と語りますが、彼は当時の世界の中心都市ローマにある教会、教会と言っても会堂があるわけではなく、何軒かの信者の家に集まって礼拝を守っていたのですが、その教会を訪ねるに当たって、主イエスを信じる信仰の本質を語る手紙を送りました。クリスチャンは信仰によって神様から正しい者と見なしていただける。
なぜなら私たちにまとわりつく「罪」の問題は主の十字架と復活によって既に解決されており、私たちはどんな困難の中、苦しみの中にあっても希望を持つことが出来るのだ。パウロはこの様に語ります。
見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私にとって目に見えるもの、お金や出世やオメガの腕時計などが気にならないかと言えば、そんなことは無いのですが「3つの願い」と言う童話が思い起こされます。喧嘩ばかりしている老夫婦に願い事が3つ叶えられる約束が与えられました。おばあさんが「ソーセージが食べたい」と思わず言うとソーセージが現れ「何でそんな馬鹿なことに大切な願いを使ったんだ、お前の鼻にでもくっついてしまえ!」とおじいさんが言えばその通りに。3つ目の願いでおばあさんの鼻を元に戻してもらい、以後二人は仲良く暮らしたそうです。
8章25節 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 
私たちが望むもの、忍耐して待ち望むもの。人それぞれに違うでしょう。食料不足の時にはそれがソーセージかも知れません。自分の望みの為に一生懸命勉強し、一生懸命働くこともあるでしょう。素晴らしいことですが、問題はその望みがかなえられた先で何をするかです。ソーセージで元気になって隣びとを助ける。しっかり勉強し、しっかり働き神様の栄光を表す。神様は喜ばれるでしょう。しかし、人生には挫折もあります。努力にもかかわらず望みが叶わなかったとしたら、神様は願ったのとは別の場所での活躍を期待なさっているのです。
それではパウロが言う「忍耐して待ち望む目に見えないもの」とは何でしょうか? この疑問を持ちながら26節に進みましょう。 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 大いなる喜びに包まれた時、「なんと言って感謝したらよいのか分かりません。」と祈るかも知れません。感謝献金かも知れません。とにかく何らかの感謝を表すことは出来るでしょう。
しかし、大きな苦しみ、困難、嘆きの時に、祈るべき言葉が見つからない。祈れない。何か言葉にすると嘘になってしまう。人生にはそんな時があり得ます。主イエスはペトロの裏切りに先立って「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)この様に祈られました。十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)この様に祈られました。
そしてパウロは言うのです。“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 私たちが祈りの言葉を失うような時にあっても聖霊が私たちの為に祈ってくださるのだとパウロは言うのです。「聖霊による言葉に表せないうめき」とあります。
ここで「異言」について触れておきたいと思います。辞書によれば「聖霊を受けて宗教的恍惚状態に入った人が語る、一般の人には理解しがたい言葉。この現象は、初代教会でしばしば見られた。」とあります。改革長老教会の伝統の中で接することはほとんどないでしょうが、ペンテコステ派の教会では今も重んじられているそうです。
パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ14章で、礼拝における預言と異言について述べていますので、後ほどぜひ読んでいただきたいと思います。ここで言う預言とは聖書を解き明かす「説教」の言葉であり、皆に分かる祈りの言葉もそうでしょう。14章1節以下です。14:1 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。2 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。3 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。4 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。パウロは教会では、他の人には理解できない異言ではなく、預言と言う理性の言葉で語りまた祈りなさいと言います。しかし、パウロは異言をやめろとは言っていません。言葉では表せない、あるいはどの様に祈ればよいのかわからない程の苦しみや嘆きの中にあり、一人で神様に向かって祈るような時には、理性的に整理された言葉は必要ないのです。
ローマの信徒への手紙8章26節に戻れば “霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。私たちと共にいてくださる聖霊、私たちの心の中に住んでくださる聖霊がうめきをもって執り成してくださるのです。理性の言葉での祈りの場合もあれば異言の場合もあるのです。
では、そんな深い苦しみや嘆きの時、あるいは反対に大いなる喜びの時、なぜ神様とのコミュニケーション、すなわち祈りが必要なのでしょうか?もちろん日々の祈りも大切です。 神様はすべてをご存知の方ですから、私たちの心の底の底までご存知です。なのになぜわざわざ祈ることが必要なのでしょうか? 理性で祈る場合です。思っていること、考えていることを言葉にまとめると、漠然としていたものごとが神様の前でハッキリするのです。私が今日犯したどの罪を赦していただくのか。どの出来事のどんな点を感謝するのか。何をどの様に叶えていただきたいのか。思いを言葉にすることでハッキリと認識するのです。もちろん神様は祈る前からすべての罪、感謝の気持ち、必要なものをご存知です。その上で私たちの理性でハッキリと見つめることを求められるのです。これが理性で祈る際に重要な点です。なぜなら、そのことによって神様のお答えをハッキリと聞くことができるようになるからです。 言葉が見つけられないような時は異言で祈る。「聖霊を受けて宗教的恍惚状態に入った人が語る、一般の人には理解しがたい言葉。」と言う辞書の説明は十分ではありません。他人には分からない神様とのコミュニケーションに「沈黙」が抜けています。静かに目を閉じて涙に暮れるなら、どう祈るべきかを知らない私に代わって、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるのです。三位一体の神様の愛を強く感じることが出来るに違いありません。

さて、25節でパウロが述べます「忍耐して待ち望む目に見えないもの」とは何なのか? この疑問を残して来ました。神学的には私たちが待ち望むのは「終末」。すなわち、主イエス・キリストが再び地上に来られ、裁きをなさる時、すべての悪を滅ぼされる時でしょう。神の国、神の支配が地上に行き渡る「喜びの時」です。しかし、こんな疑問を持たれるかも知れません。「終末ですか。現代は悪魔が支配している様にさえ思えるのに、そんないつ来るかわからない終末に希望を託すのですか?」 大丈夫です。終末に希望を託すのです。主イエスの愛は終末に至るまで私たちに変わることなく注がれ続けます。さらに、神の国は既に地上の一部分に来ており、私たちは神の国のひな型を見ることが出来るのです。そうです、主イエスの死と復活の出来事を知る教会の存在です。その教会に集いみ言葉に養われる私たちには神様とのコミュニケーション方法が与えられています。それが「祈り」です。自分の言葉で理性的に祈ることは、私たちの思いを整理し、神様のお答えを聞く準備を整えてくれます。
最初にマタイによる福音書6章8節をお読みしました。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 だから、こう祈りなさい。」 主の祈りは、祈りの言葉が見つからない、整えることが出来ない時にも、私たちが心を向けるべき方法を教えてくださった祈りです。日々心を込めて祈ることで、私たちを謙虚な者にしてくれます。さらに、本当に祈りの言葉が見つからない、自分の思いすらもまとまらない。そんな苦しい時のいのり。沈黙であったり、つぶやきであったり、唸り声かもしれません。一言「神様!」と言う言葉が心をよぎるだけかも知れません。いいんです。パウロは言います。 “霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。これほどまでに神様は私たちを愛してくださっています。どんな時にあってもです。祈りましょう。