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山形六日町教会

2021年1月3日

聖書:詩編30編5~6節 ヨハネによる福音書16章31~33節
「主は既に世に勝っている」波多野保夫牧師

新しく迎えました2021年最初の主日礼拝となりました。この年もご一緒に、主を賛美し、み言葉に聴き、祈り、献げる、豊かな礼拝をまもって参りたいと思います。 先ほど司式の山口長老に読んでいただいた旧約聖書詩編のみ言葉、実は12月27日の2020年最後の礼拝でもお読みしました。黒雲の立ち込める年越しとなりましたが、2020年と2021年を繫(つな)ぐに相応しいみ言葉だと思います。もう一度お読みします。 詩篇30編5節6節。主の慈しみに生きる人々よ 主に賛美の歌をうたい 聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。「泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」 このみ言葉を心に留め2021年をご一緒に歩んで参りたいと思います。

説教シリーズ「祈るときには」の25回目です。私たちは離れ小島でたった一人になってしまった、ロビンソン・クルーソーと違って、社会の中で生活しています。人と人との触れ合いは様々なコミュニケーションをベースとして成り立っています。手紙やこの時期でしたら年賀状、電話やメール。現代では様々なコミュニケーション手段がありますが、一番は人と会って話すことでしょう。その時に交わす言葉の調子や顔の様子なども、心に思っていることを伝え合う助けとなります。同じ「おはよう」と言っても、笑顔で言うのと目をそらせてつっけんどんに言うのとでは、意味が全く違います。
しかし、私たちのコミュニケーションに誤解は付き物です。落語に「こんにゃく問答」と言うのがあります。パントマイムから誤解が生じて、にわか住職になったこんにゃく屋さんの前から禅宗の修行僧が怖れをなして逃げ出して行った話です。こんなことが実際にあったそうです。自分の仕事を尋ねられて、「能楽という雑誌を発行していますが・・・・・」と答えたそうです。能楽はお能です。一方、相手は「農学」農業ですね。「農学」という農業雑誌の発行者と誤解して話を続けました。能を舞う人ですね、「能楽師」と言えば、相手は農業専門の学士だと思い、お囃子の「囃し方がだんだん少くなってきた」といえば、相手は「林や田んぼが、だんだん少くなってきた」と聞くといった具合だったそうです。こんなピッタリとした誤解はめったに起きないのでしょうが、誤解がもとで人と人との関係性が壊れたりこじれたりすることは、間々起こります。
ところで、神様とあなたの関係、神様と私の関係ではどうでしょうか?もちろんコミュニケーションは欠かせません。私たちは聖書を通して、さらに聖書の解き明かし、即ち説教を通して神様のお考えを聞きます。しかし、これは一方的に神様が語り掛けてくださる要素が強いでしょう。もちろん私たちに神様の愛の中を歩む幸せな人生を明らかにしてくださいます。
しかし、神様との対話、即ち祈りは双方向のコミュニケーションです。私たちが話しかけ、神様が答えてくださる。神様が語り掛け私たちがお答えする。これが祈りです。祈りに答えてくださる神様の語り掛けは様々です。聖書を読み祈る時、聖霊の働きで状況が一変する時、神様は夢を用いられることもあれば、ふと思いつかせて下さることもあります。様々な方法で語り掛けてくださいます。その時は分からなくても、後になってあれがお答えだったと気づいた経験がおありではないでしょうか?
しかし、先ほどの「こんにゃく問答」や「農学」の話ではありませんが、「聞き違い」も起こり得ます。かつてユダヤの宗教指導者たちは、自分たちの利益を守ることも含めて、主イエスを抹殺することこそが正しい信仰だと思っていました。サウロと呼ばれていた後のパウロはクリスチャンを一生懸命迫害することこそが神様に仕える正しい信仰だと思っていました。この様な思い違いは、残念ながら私たちにも起こり得ますが、それを避ける方法をお話しします。それは自分が聞いた神様の答え、あるいは導きが、聖書を通して主が語られたこと、「神と自分と隣人を愛すること」につながるか否かです。神様は愛の神様です。私たちを愛したくてしょうが無い方です。
本当に「神と自分と隣人を愛すること」につながるか分からない時には、信仰の友や長老さんや牧師と相談し、一緒に祈ってください。必ずや神様の答えをハッキリと聞くことが出来ます。もし、それが教会の歩みに関することならば、日本基督教団信仰告白と教憲・教規とが導いてくれるはずです。

さて、私たちの祈りです。このシリーズで何度も申し上げました。祈りは聞かれ神様は私たちの祈りに答えてくださる。二つのNoと二つのYesを持って答えてくださる。この様に申し上げてきました。「いいえ、あなたの恵みは十分だ。」「いいえ、今はその時ではない。」「はい、分かったかなえてあげよう。」「はい、わかった。しかし、願ったものよりもっと良いものをあげよう。」この4つです。
現在のコロナの問題のために世界の多くの人が祈っていますが、ワクチンの接種が始まってはいるものの、未だ解決の兆しは見られません。コロナの問題に限らず、自分に危機が迫った時、私たちは当然その危機を去らせて下さる様に祈ります。大変自然なことです。主イエスは十字架を前にしてゲッセマネの園で祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42) 主イエスのこの祈りは、祈られた通りには聞かれませんでした。私達が苦しみの中で祈った時、先ほど申し上げた4つの答えがなかなか聞こえてこないことが有ります。
神様が大変遠くにおられ私たちの祈りが届かないのではないか?その様に感じられる時があります。もしもその様な体験がないのであれば、大変幸せなことです。神様に感謝してください。辛い時、困難な時に忘れてはならないこと。それは、主イエスが私たちに先立って祈っていてくださる事実です。
ルカによる福音書22章31節32節。週報に記しました。 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ここで、シモン・ペトロは「あなたとご一緒なら牢屋で死んでもかまいません。」と言うのですが、主に「鶏が鳴くまでに3度私を知らないと言うだろう。」と言われてしまいます。そして主イエスは逮捕され、大祭司の中庭でこの言葉は現実のものとなりました。鶏の鳴く前に3度主を知らないと言ってしまったペトロは、「外に出て激しく泣いた」のです。
主イエスは私たちの弱さを良くご存知です。そして私たちが神様に背く、即ち「罪」に気付き神様に祈る前に、主イエスが私たちの為に祈っていてくださるのです。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
そして主は私たちに求められます。「私はあなたの弱さを知っている。そして、あなたが持っている最も大切な物、信仰が無くならない様にいつも祈っている。だから元気を出して兄弟姉妹を愛しなさい。あなたの為に十字架への道を歩む私があなたにして欲しいこと。それは隣人を愛することなのだ。」
本日与えられました聖書箇所。ヨハネによる福音書16章33節です。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
私たちは、確かに苦難の無い人生であり世の中を求めます。自分の幸せ、家族の幸せ、友人や信仰の友の幸せを願いますが、私たちの周りにはいつも痛みが存在してます。
せめて次の世代の若者や子供たちが、様々ないじめやパンデミクスや自然災害に遭わない様にと願います。
しかし、主は痛みを無くすとはおっしゃっていません。あなたがたには世で苦難がある。とおっしゃいます。ではどの様にしてその苦難を乗り越えるのでしょうか? 答えは明確です。「わたしは既に世に勝っている。」とおっしゃっている方について行くのです。これが私たちの信仰です。
ヨハネ福音書は13章で十字架に架かられる前の晩に過ぎ越しの食事を弟子たちと共にされた「最後の晩餐」と「洗足の出来事」の様子を伝え、18章はゲッセマネの園で逮捕された場面です。ヨハネはわずか数時間の出来事とその際に語られたことに5章ほどを割いて記しています。これから起こることを全く理解していない弟子たちに、譬えを用いないでハッキリと語られました。
16章31節32節。イエスはお答えになった。今ようやく、信じるようになったのか。 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。数時間後にゲッセマネの園で主が逮捕された時、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。(マタイ26:56) 聖書はこの様に告げています。一人ペトロはイエス様が連れて行かれた大祭司の屋敷までついて行きますが、26:74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイ26:74,75)私たちの弱さを知ってらっしゃる主は、私たちの悔い改めに先立って祈っていてくださることを既に述べました。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
「波多野先生、先生は時によって『神様が共にいてくださる。』『イエス様が共にいてくださる。』『聖霊が共にいてくださる。』って言いますが、どれが正しいんですか?」大変良い質問です。使徒信条では「全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり」と告白しますから、文面から判断すれば、私たちと共にいてくださるのは「聖霊」でしょう。
しかし、私たちの神様は、その本質を一つとされる三位一体の神様です。愛の本質を一つとされる三位一体の神様です。ですからどの様にお呼びしてもかまいません。私のお世話になった牧師が、かつて礼拝の中でローラ・ボイヤーさんが行った証しについて話してくれました。このローラさんは幼いころ、お母さんと再婚した義理の父親から性的な虐待を受けていたそうです。
思春期を迎えた頃には虐待から逃れることは出来ていましたが、トラウマに悩んでいました。そんなローラさんはある日、神様への怒りを「あなたはどこにいたのですか?」と砂漠の砂に書きつけました。すると突然、激しい雨になり、彼女が書いた文字は消え去ってしまいました。「神様は私の問いを無視したのだ。」ローラさんの怒りはさらに増したそうです。
それから長い苦しい時を経て、ローラさんはイエス様から癒しをいただきました。そして悟ったそうです。少女時代、イエス様はいつも私と共にいて下さり、一緒に苦しみ、いっしょに泣き、一緒に祈っていてくださったのだ。あの砂漠での出来事、突然の大雨が「どこにいたのですか?」と言う怒りの文字を流し去った、あの大雨は神様の涙だったに違いないと悟ったのです。
私は、ローラさんが自から暗い過去を礼拝の中で語ったことに驚かされました。彼女にとって「私は既に世に勝っている。」とおっしゃる大いなる方を信じて従う時、いつも共にいてくださった主を証しする時、恐れるものはなにもないのです。
ローラさん程ではないにしても、確かに私たちの人生には過酷な面があります。しかし、鞭打たれ、いばらの冠をかぶせられ、唾(つば)はきかけられ、侮辱され、十字架に架けられ死を経験された主イエスです。
人間の味わう全ての苦しみを知っていらっしゃいます。そしておっしゃいます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」その方が私の為に、私たちの為に、祈っていてくださるのです。主イエス・キリストに従う素晴らしい人生です。ご一緒に前を向き希望を持って歩みましょう。ためらう必要は全くありません。
もし私たちの望みがかなえられる、努力が報いられる。仕事で、勉強で、家庭で、友人との間で、さらに教会で。大きな喜びです。大いに神様に感謝してください。そしてそれは神様はあなたが次のステップに進む為に、即ちより大きく「神様と、自分と隣人を愛する」為に与えられた大きな喜びだということを覚えてください。
詩篇30編5節6節をもう一度お読みします。主の慈しみに生きる人々よ 主に賛美の歌をうたい 聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。 主イエス・キリストと共に大いなる希望を持って2021年の歩みを始めて参りましょう。 祈ります。