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山形六日町教会

2020年12月27日

聖書:詩編66編1~12節 ヘブライ人への手紙12章11節
「愛する者をこらしめる」波多野保夫牧師

2020年最後の主日礼拝となりました。11月29日に始まりました待降節から12月20日のクリスマスまでの4週間。光を放つロウソクが1本ずつ増えて光と熱を増していく。まさに嬉しさの増していく時でありましたが、あっという間に過ぎ去って行った感があります。皆さんはいかがだったでしょうか? しかし、あっという間に過ぎて行ったのはアドベントだけでなく、この2020年もまたあっという間であったように感じられるのは私だけなのでしょうか?

調べてみましたところ、2020年1月1日の元旦礼拝ではコリントの信徒への手紙Ⅰ 1章18節から25節をおよみし、説教題は「神の知恵を知る者として歩もう」でした。皆さんは果たして「神の知恵を知る者として歩まれた」一年だったでしょうか?1月5日の最初の主日礼拝では次の様に申し上げました。【「一年の計は元旦にあり、あるいは新年にあり」と言われますが、皆さんは今年の計画をたてられたでしょうか? いろいろな候補がおありでしょうが、「聖書通読」はいかがでしょうか?】
旧約聖書が39巻929章新約聖書27巻260章、併せて1189章だそうですから、一日一章ならば現在1/3弱、毎日3章を頑張ればもうじき読み終わるところなのでしょう。 私はどうかと言いますと、ほぼ挫折状態です。しかし、講壇のこの聖書をみんなで読み進めていますリレー通読は現在詩編65編まで来ています。私の意志の弱さを補ってくれており「主にある兄弟姉妹が力を合わせるっていいな!」と思っています。来年も続きます。まだここで読んだことの無い方も是非参加してください。もちろん一人でチャレンジする聖書通読を2021年の「元旦の計」に挙げていただくこともお勧めします。

さて、去り行く2020年うれしかったこと楽しかったこと、反対につらかったこと苦しかったこと。それぞれにおありだったことでしょう。3つほど数え上げ、その中で聖霊がどの様に働いて下さったのかを思い起こしていただきたいと思います。
当座は嬉しさや悲しさによって覆われてしまい、なかなか聖霊の働きにまで思いが至らないことが有ります。是非一年を振り返り、祈りの時を持っていただきたいと思います。様々に与えられた恵みが見えて来ることでしょう。
山形六日町教会では、2月に神保智子さんを、7月に栁原悦子さんを、そして12月に久我睦夫さんを神様の御許にお送りしました。
それぞれに神様のご計画による人生を送られ、様々な思い出を私たちに残して下さいました。特にご家族の上に主の平安が与えられます様に、そして信仰が継承されます様にお祈りします。
一方、4月12日のイースター礼拝では庄司将斗さんが受洗に至り、12月20日、先週のクリスマス礼拝では稲垣禎一さんの転入会を報告することが出来ました。山形六日町教会に大きな喜びが届けられました。主に感謝いたします。
しかし、この2020年はやはりコロナウィルスの問題が様々に影響しましたし、残念ながら現在もその影響下にあります。
5月3日から3週に渡って教会に集合しての礼拝を持つことが叶いませんでしたし、「聖書に聞き、祈る会」を始め、様々な集会が中止となりました。長老会は「主日礼拝だけは何としても守りたい。」と祈りを篤くし、皆で力を合わせて今日に至っています。
礼拝への出席が叶わない方のことも覚えます。現在、山形県でも感染者数の増加が毎日報道されていますが、困難の中にある方の上に平安を、そして何よりも早期の収束をご一緒に祈って参りましょう。

パンデミクスと呼ばれます伝染病の世界的な流行、これは人類の歴史と共に有ったそうで今回が初めてではありません。天然痘やペスト、チフス、コレラ、インフルエンザなどが猛威をふるって来た歴史があります。ペストは感染すると発熱を伴い、皮膚の内出血によって黒い斑点や腫瘍ができるところから「黒死病」と呼ばれました。14世紀のパンデミクスではヨーロッパ人口の半分ほどが亡くなったと言われています。北里柴三郎などの努力があり、抗生物質の適切な投与によって治癒率が高くなっています。神様が優れた研究者に自然界の仕組みの一端を明かされたのでありましょう。しかし、現代においてもペストは恐ろしい伝染病であり続け、ワクチンは存在しないのだそうです。
2020年の最後の礼拝に当たって、この一年山形六日町教会と集う一人一人に起きたこと。うれしいこと、楽しいこと、順調なことに関しては、神様の大いなる恵みを感謝するに留めたいと思いますが、実は危険性もあります。自分の目指すものに対して努力を重ねることは大切ですが、私たちにはそれがひとえに神様の恵みによることを忘れてしまう性質があるからです。十分に注意したいと思います。

本日は、悲しみや苦しみがなぜ私たちに起きるのか、聖書のみ言葉を聞いていきたいと思います。
今から2000年前のパレスチナでは、因果応報の考えが一般的でしたから、病気に罹(かか)ったり、ハンディキャップを負っているのは罪の結果だと考えられていました。
ヨハネによる福音書9章1節以下です。9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。こう言って主は盲人を癒されました。現代において直接的な因果応報説を取ることは無いでしょう。
しかしコロナ禍にあって、第一線で戦っている人たちやその家族が差別を受ける問題が報道されています。もちろん科学的な証拠に基づいての注意事項を守らないでの感染は論外ですが、誰もが感染する可能性を持っています。
残念ながら教会に集う私たちも例外ではありません。十分な注意を払うと共に、万一感染者が出たとしても個人攻撃をしてはいけません。その方と家族の為に祈りたいと思います。
私たちが経験する困難や苦しみに対して聖書はなんといっているのかを聞きましょう。先ほど読んでいただきました。ヘブライ人への手紙12章11節。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
「艱難汝を玉とす」と言うことわざがあります。玉とは人間の角が取れて丸くなる、温和になるという意味ではありません。玉とは宝石や真珠の意味です。「困難にあって苦しみ悩むことで人は価値ある者になる。」と言った程の意味でしょう。起源はフランスのことわざだそうですから、聖書のこの言葉を意識してのものなのかも知れません。
皆さんもきっと、喜ばしくない事、悲しい事、苦痛を味わう事を経験なさったことがおありでしょう。聖書はその経験は私たちの信仰を鍛え上げてくれる鍛錬なのだと言います。
「義と言う平和に満ちた実」とありますが、これは信仰によって神様から正しい者と見なしていただき、そのことで得られる真の平和であり安らぎです。(ロマ5:1)

もしもまだ苦しい経験が継続している、あるいはその経験に囚われているのだとしたら。次のパウロの言葉を聞きましょう。ロマの信徒への手書5章1節から5節。5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
コロナ禍は現在進行形の苦しい経験であります。しかし、へブル人に手紙を書いた伝道者は 後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 と語り、パウロは キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。この様に述べているのです。
パウロは大変な苦労をいとわずに活躍した人で、自分の受けた艱難を数え上げてさらに次の様に述べるのです。11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。28 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。29 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。30 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。 (Ⅱコリント11:24-30)この様な艱難をパウロは誇りとしていると述べるのです。
その理由は苦難は忍耐を、4 忍耐は練達を、練達は希望を生む のだから。いかがでしょうか?「うん、なるほどもっともだ。当然私もそうしよう。」あるいは「私も全く同じだ。」この様に思われた方。素晴らしいと思います。是非続けてください。
しかし「それはパウロだからそう出来たんでしょ。彼は復活の主に直接お会いした人だから。」 私もこの様に言いたくなります。二つに分けて考えましょう。
「彼は復活の主に直接お会いした人だから。」私の頭の中での理解です。確かにパウロはダマスコの町にクリスチャンを迫害するために出かける、その途上で主イエスに出会い「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。のです。私は54年前に洗礼を授けていただきました。聖霊にです。その時に主イエスに出会い、それ以降主はいつも私と共にいてくださったはずです。聖書を通して「わたしは世の終おわりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)この様に告げられています。だとしたら、復活の主にお会いした実感がないとすれば、それは主が近くにおられないからではありません。私が心を閉ざしているからです。
前半 「それはパウロだからそう出来たんでしょ。」確かに否定できません。残念ながら私はパウロの様にはなれないでしょう。しかし、神様は愛を注ぎ、我慢をしながら用いてくださっている現実があります。感謝です。
一方で「私たちには神様が付いている。コロナを恐れるのは信仰が弱いからだ。」と言うのであれば、神様が与えてくださった科学的な知見を全く無視しています。神様を信頼し従っている事の真逆です。科学的な知見を活かしながら、かついたずらに恐れないことが肝要です。
週報に旧約聖書箴言が語る「懲らしめ」を記しました。いくつかお読みします。残りは後でお読みください。心に響く聖句が必ずやあると思います。3:11 わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。12 かわいい息子を懲らしめる父のように 主は愛する者を懲らしめられる。6:23 戒めは灯(ともしび)、教えは光。懲らしめや諭しは命の道。10:17 諭しを守る人は命の道を歩み 懲らしめを捨てる者は踏み誤る。15:12 不遜な者は懲らしめられることを嫌い 知恵ある人のもとに行こうとしない。29:15 懲らしめの杖は知恵を与える。放任されていた子は母の恥となる。

最初に今年皆さんが経験した「つらかったこと苦しかったこと」を思い起こしていただきました。ヘブライ人への手紙を書いた伝道者はそれを「鍛錬」と理解し、箴言は「主の懲らしめ」と理解します。どちらも神様がわたしたちを愛するが故のことだと述べるのです。年初来顕在化したコロナ禍は私たちにとって何を意味するのでしょうか?
1年前、12月29日、2019年最後の礼拝時点では、2020年も平穏な日々が続き、集合しての礼拝を守れなくなることなど全く考えていませんでした。
ちなみに2019年の重大ニュースは 「令和が始まったこと」であり、「日本がラクビー・ワールドカップで8位になったこと」でした。世界中の多くの方の、そして世界中の多くの教会の2020年の歩みを振り回した、コロナ禍ですが、それによって私たちが突き付けられた課題は、人間の小ささであり力と知恵の限界を知ることなのです。
パウロは自分の肉体に与えられた弱さ、癲癇(てんかん)の発作だとか片頭痛だとかと言われますが、それを取り除いてくださいと祈りました。コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章9節10節です。12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。「弱い時にこそ強い」それは弱さを抱えている時にこそ一番主の愛に敏感になることが出来る、いつも共にいてくださる主に気づくことが出来るからでしょう。もちろんこのコロナの黒雲を去らせて下さる様に私たちは祈ります。 それは同時に、より鮮明に主の愛に気付き希望を持つことになるのです。

最後に詩篇30編5節6節をお読みします。 主の慈しみに生きる人々よ 主に賛美の歌をうたい 聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。 ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。「泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」これが私たちを愛して止まない神様です。希望の内に2021年を迎えましょう。 祈ります。