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山形六日町教会

2020年11月29日

聖書:イザヤ書9章5~6節 ルカによる福音書2章36~38節
「待ち望んでいる人々」波多野保夫牧師

本日からアドベント、待降節に入りました。アドベント・クランツ、アドベント・リースとも呼ばれますが、主日礼拝ごとにローソクが1本ずつ灯されて行き、クリスマス礼拝において全てが点灯されます。主イエス・キリストのご降誕を待ち望む、その気持ちを良く表す習慣だと思います。教会学校から育って来られた方、千歳幼稚園、千歳認定こども園に関わって来られた方だけでなく、全ての方がそれぞれにこのアドベントの時、あるいはクリスマス礼拝に特別の思い出がおありではないでしょうか。いわゆるキリスト教国では、新しく生まれる記念の日としてイースターに洗礼を受ける方が多いそうですが、日本ではクリスマス礼拝の方が多い様です。もちろん、年間52回、あるいは53回持たれます、主日礼拝はその全てが主の復活の日に思いを致す大切な週の初めの日なのですが、異教の国にあって受洗の喜びと感謝を忘れない記念日とするには、やはりクリスマス礼拝は良い日だと思います。
先ほど司式の細矢長老にルカ福音書2章36節以下を読んでいただきましたが、本日はルカ福音書2章21節以下から聖書のみ言葉を聞いて参りたいと思います。2章21節には 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。 とありますが、創世記17章の いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。(17:12)この定めに従ってのことでした。さらに22節以下の小見出しには「神殿で献げられる」とあります。出エジプト記13章の すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」(13:2) この定めに従ったものです。
ルカ福音書2章24節には 主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。 とありまが、レビ記には、出産後の女性の献げものとして一歳の雄羊一匹、貧しくて羊に手が届かない場合は二羽の山鳩もしくは二羽の家鳩と定められています。(レビ12:8)貧しい家庭でありながらも、ヨセフとマリアは神様に仕える敬虔なユダヤ教徒でありました。主イエスはそんな唯一の神を賛美し律法に忠実な家庭で育ったことをルカ福音書は伝えています。
これに対して、当時の宗教指導者たちは、人々を押さえつけ自分たちの利益につなげる為に律法を用いていたのですが、主イエスは「ファリサイ派の人々に気をつけなさい。律法学者に気をつけなさい。」この様におっしゃる一方で、次の様に言われました。 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ福音書5:17,18) 律法は人々が幸せな生活、幸せな人生を歩むようにと、神様がお与えになった良いものなのです。しかし、そこに並ぶ禁止命令を宗教指導者たちは人々の生活を縛り上げ、自由と喜びを奪う為に用いたのです。「安息日に困っている人を助けてはならない。」こんなことを平気で言っていたのです。神様のお考えと全く逆でした。主イエスは本来良いものである律法を禁止命令ではなく、肯定文で表現して下さいました。「神と、自分と、隣人を愛しなさい。」です。これに勝る掟はありません。私たちは今そのことを良く知っています。心に留めて読み進めましょう。
本日の聖書箇所は生後40日ほどの幼子主イエスを連れての宮もうでの場面です。 「波多野先生、この聖書箇所は本来クリスマスの翌週かそのまた翌週に読むんじゃないですか?」大変もっともな指摘です。確かに教会暦を重んじますカトリック教会では、カトリック中央協議会と言うところが、クリスマスの日に始まります2021年度の「教会暦と聖書朗読」と言う本を発行しており、12月29日と30日が2章22節以下の「神殿で献げられる」との小見出し部分になっています。
それではなぜアドベント第一週に一本のローソクのもとでこの聖書箇所を読むのでしょうか? それは、2章25節と38節にあります「待ち望む」と言う言葉に注目したいと思ったからです。私たちは今週から待降節に入りました。主のご降誕を待ち望む4週間です。それでは主のご降誕に何を待ち望むのでしょうか。主イエスの誕生はすでに2000年前に完成したことです。子供のころ、私の答えは明快でした。教会学校に通っていましたから、ページェントの練習が始まり、土曜日の練習に行くと牧師先生が今川焼を買ってきてくれました。そして、ローソクの本数と共に大人の人たちが忙しそうに、しかしなんだかうれしそうになって行くんです。なんとなく暖かくて、うきうきする、そんな時でした。そんな中で、一番関心があったのは、やはりクリスマス・プレゼント。「良い子にしているとサンタさんが・・・。」と言う話しと、イエス様が来てくださった誕生物語があまり結びついていなかった様に思います。私の誕生日は1月15日ですから、「クリスマスとお正月と誕生日を一緒にして」と言って両親が頑張ってくれたことが原因なのでしょうか。とにかくクリスマスがイエス様の誕生日ということは知っていましたが、華やいだ、うれしい時であり、プレゼントを楽しみに待つ時であった様に思います。
さて皆さんにとって、クリスマスを待つとはどういうことなのでしょうか? 本日の聖書箇所に登場する二人を見ることから始めましょう。2章25節 幼子イエスと共に、ヨセフとマリアが神殿に入って行った時です。エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。シメオンは信仰のあつい人でしたから、次の様に考えていたことでしょう。【 神様は自分たちの祖先アブラハムに、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。(創世記22:17)このような契約を与えてくださった。確かにずっと昔、1000年程前のダビデ王やソロモン王の時代にイスラエルは栄え、神様の大きな恵みをいただいた。しかし、人々は勘違いをしたのだ。その繁栄が神様の恵みだということを忘れてしまったのだ。そんなイスラエルに待っていたのは、繁栄から衰退への道だった。周りの強大な国々の中に置かれた苦しみの連続だ。神様は預言者たちを送って罪を悔い改めて、立ち返る様に求められた。さらに国が厳しい状況に追い込まれた時代にあって、預言者たちを通して希望の言葉を伝えてくださったのだ。それから長い年月が経ったが、今も自分たちは苦しみの中に置かれ続けている。真の平和はいつ訪れるのだろうか? 】
シメオンが聖書を通して聞いてきた、預言者を通して語られた慰めの言葉を司式の細矢長老に読んでいただきました。イザヤ書9章5節6節 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。 ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。シメオンが待ち望んでいたのは、イスラエルが慰められること、ローマ帝国の支配から脱して、あのダビデ王の時代の輝きを取りもどすことに留まらなかったのです。彼は、偶然にも神殿で出会った幼子に預言者イザヤが伝えた言葉 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。この言葉が成就したことを見ました。シメオンの言葉「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、 あなたの民イスラエルの誉れです。」さらに「 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」」マリアは聖霊によって身ごもって以来、御子の誕生の出来事の中心にいたのですから、このシメオンの言葉を驚きつつも受けとめることが出来たでしょう。しかし、我が子の上に神様の特別な働きがあることは理解していましたが、シメオンの言葉の真意をどこまで理解できたのでしょうか?
私たちはマリアとは違います。主イエスがどの様な方であるかを良く知っています。主イエスによって、私たち自身は剣で心を刺し貫かれ、私の心の思いがあらわにされることを知っています。神様の前で言訳をしても無駄です。全てをご存知なのですから。
さて、子供の利発そうな様子を見て「将来この子は、と期待したのだがどうも・・。」ということは、ままあるでしょう。俗に「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば只の人」と言われます。しかし、シメオンの証言は正確です。彼が主イエスに見た救いは、当時の人たちが待ち望んでいたイスラエル民族の救い主、ローマ帝国の縄目から解放しダビデ王の時代の輝きを取り戻してくれる救い主をはるかに超えていました。これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光 とあります。イスラエルの人だけの救い主だけではなく、異邦人、すなわち全世界の人、もちろん私たち日本人も含めたすべての人を真理の光で照らす、救い主だと言うのです。そして全ての人に恵みが与えられ救われるのだと言うのです。
シメオンの言葉はそこでとどまりません。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」 マリアは何のことだか分からなかったに違いありません。しかし、私たちは理解できます。イスラエルの人たちは、主イエスを裁き十字架に架けてしまいました。しかし彼らはそのことによって裁かれたのです。主イエスを受け入れるのか、主イエスを拒絶するのか? 神の愛の中を歩むのか、闇の中を歩むのか? 私たちの人生はこの一点で分かたれるのです。
さて、シメオンはなぜ赤ちゃんイエスに初めて出会っただけで、主イエスがどのような方なのかを正確に知り、ヨセフとマリアに告げることが出来たのでしょうか? その理由は明快です。2章25節 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そうです。聖霊の働きです。聖霊の特別な働きがシメオンの上にあったのです。
先ほど読んでいただいたルカ福音書2章36節です。 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。 とあります。この説教シリーズ「気概を示す」18回目のヒロイン、アシェル族のアンナです。このアシェル族はイスラエル12部族の一つですが、王国の分裂後北イスラエルに属していましたから、アッシリアに滅ぼされてしまいました。「イスラエルの失われた10部族」と呼ばれますが、神様への信仰は絶えることなくこのアンナへと受け継がれていました。長い歴史の中で7人しかいない女性の預言者に数えられていた、大変信仰深い老女でした。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。私たちに置き換えれば、「礼拝を欠かすこと無く守り、心を神様に向け、祈りと讃美の生活を送っていた。」この様になるでしょう。
しかし、違いが一つあります。それは聖書に親しむことです。印刷術の無かった時代に聖書は、羊皮紙やパピルスに手で書き写した、大変貴重なものだったからです。今私たちは聖書を通して神様の言葉に接することが容易にできます。この恵みを生かさない手はないですね。聖書に親しみましょう。そして祈りましょう。
2章38節 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。アンナはシメオンが語る言葉を聞き、救い主の誕生を確信しました。そして、その喜びを救いを待ち望んでいる人に告げたのです。いかがでしょうか、救い主が来てくださったことを人々に告げ知らせる。これって正に私たちのすることであり、私たちの教会がしていることです。赤ちゃん主イエスに出会ったシメオンとアンナです。
神殿での出来事を整理してみましょう。まずこの二人です。アンナが北イスラエル王国に属したアシェル族の末裔なのに対し、シメオンは南ユダ王国に含まれるシメオン族の末裔でしょう。ですから救い主を待ち望む全イスラエルの代表に福音が届けられました。残念なことに北と南に分裂した王国はお互いに憎み合っていましたが、主イエス・キリストの許で一致できるのです。救い主は平和と和解をもたらす方なのです。シメオンは一目見た赤ちゃんイエス様がどの様な救い主なのか、正確に告げました。なぜそんなことが出来たのでしょうか?
それは聖霊の働き以外に考えられません。ペンテコステの日に教会に聖霊が与えられるまで、聖霊は特定の時に特定の人にしか力を与えませんでした。
明らかに聖霊はシメオンに働かれたのです。彼の話を聞いたアンナは待ち望んで来た救い主を見ました。その喜びを人々に伝えました。これはペンテコステの日に聖霊をいただいた私たちの教会とそこに集う者の働きそのものではないでしょうか。本日の説教題を「待ち望んでいる人々」としました。主イエスの誕生はすでに2000年前に完成したことです。
では私たちは何を待ち望むのでしょうか? 少年時代の私にとって、それはクリスマス・プレゼントへの期待であったことは否定できません。では、私たちはこの待降節にあって何を待ち望むのでしょうか?
皆さんもお聞きになったことがおありかと思います。「教会は『既に』と『未だ』の間に立っている」と言われます。
『既に』この世界に来られた主イエス・キリストであり、『既に』私たちの罪を負って十字架に架かってくださった主イエス・キリストであり、『既に』復活された主に従う者に永遠の命が約束されています。
主が再びこの世界に来られる終末の時は『未だ』来ていません。全ての悪を滅びしてくださることも『未だ』であり、悪魔が元気な現代です。もう一つ、救われているにも関わらず『未だ』に罪と無縁ではない私たちがいます。
私たちは毎年クリスマスの日を待ち望みます。週ごとにローソクを1本ずつ増やしながら待ち望みます。喜びの時です。しかし、主が既に来て下さったことを知っています。今、聖霊が共にいてくださることを知っています。
だとしたら、待降節はその主のご計画を感謝し賛美すると同時に、神様のもう一つのご計画、「未だ」実現していない確かな約束、主イエスが再び来てくださり、神様の国を地上に実現してくださる、素晴らしい終末の到来を待ち望む、その思いを強くする時なのです。どの様に待ち望むのでしょうか。アンナの様に礼拝をキチンと守り祈りを持ってです。この後賛美します236「見張りの人よ」はクリスマスと同時に終末を待ちのぞむ希望を歌っているのです。
ペトロの手紙Ⅱ 3章9節  終末についてです。 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
アドベントからクリスマスにかけては、教会の礼拝に周りの人をさそう良いチャンスです。どうぞ多くの方に素晴らしいクリスマス・プレゼント、福音の種を届けてください。 祈りましょう。