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山形六日町教会

2020年11月8日

聖書:申命記22章22~24節 ヨハネによる福音書8章10~11節
「罪のない者が先ず」波多野保夫牧師

今週の火曜日11月10日は1887年明治20年に私たちの山形六日町教会の前身、日本基督一致教会山形講義所が創立されて134回目の記念日に当たります。改革長老教会の伝統に立つJ.P.モール宣教師、押川方義(まさよし)牧師らの働きによって、七日町の借家での礼拝が始められたとのことです。
先週の召天者記念礼拝では、私たちと共に礼拝をささげた諸先輩を中心に、神様の恵みのもとに過ごされた方々の生涯を思い起こしました。そして今、同じ恵みが私たちにも与えられていることを感謝しました。日本基督一致教会山形講義所として始まった私たち六日町教会の130余年に及ぶ歴史、それは今の千歳認定こども園と多くの時を共に歩んできた歴史ですが、決して平たんなものではありませんでした。日本基督教会山形講義所、日本基督教会山形教会と名称も変わり、戦前1941年には政府の強い要請による日本基督教団の成立に合わせて日本基督教団山形六日町教会と改称され現在に至っています。
この133年の間には、会堂の消失もあれば、多くの教会がミッションの援助に依存していた時代に教会の自給独立を試み、大変な重荷を負ったこと。現在と違い幼児教育に対する公的支援がほとんど期待できない中での教会立千歳幼稚園を多くの会員と職員の祈りによって支えた事などなど。そこには聖霊の働きによる支えをハッキリと見ることが出来ます。そして、今週迎えます134回目の記念日にあっても、聖霊はこの山形六日町教会の祈りを聞き、支えてくださっているに違いないのです。
今日も御一緒に御言葉を聞いて参りたいと思います。先ほどヨハネによる福音書8章10節11節を読んでいただきましたが、ヨハネ福音書が伝えますこの物語は2節から始まります。静かな祈りの時を持つためにオリーブ山に行かれ、そこから戻られた時のことです。8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4 イエスに言った。
先ほど旧約聖書申命記22章22節以下を読んでいただきました。昨今の週刊誌やネット上では不倫と言う言葉が用いられますが、一時の快楽や情念に溺れることは、いつの時代においても人を幸せにはしません。それどころか家族や周囲に大きな負担を掛けます。そんなことを神様は禁じられます。私たちを愛し幸せな人生を願っておられるからです。
出エジプト記20章に神様がシナイ山でモーセに与えられた十戒があります。第7戒 20:14 姦淫してはならない。 第10戒 20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。 神様はこの様に命じられています。「波多野先生。だけど第10戒で「隣人の家の奴隷を欲してはならない」とありますけど、奴隷は欲するのではなく解放しなければならないんじゃないですか?」 大変に良い質問です。確かに人は皆神様の似姿に創られました。皆、平等です。しかし、聖書が直接的に奴隷解放を述べることは殆どありません。
パウロがフィレモンへの手紙において、彼によって信仰を持つようになった逃亡奴隷オネシモを寛大に扱って欲しいと奴隷の所有者フィレモンに書き送っています。さらに彼はローマの信徒への手紙6章20節以下で 罪の奴隷であった者が今では罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。 罪によって支配されていた罪の奴隷から神の愛の中を生きる者としての自由を強調しています。初代教会には多くの奴隷が集っていましたが、しっかり働いた後、家の教会に集うことが出来たようです。私たちがイメージします「鎖につながれ鞭打たれ」と言う、特にアメリカ南部での奴隷制度廃止は1862年南北戦争時に、リンカーン大統領によります奴隷解放宣言まで多くの年月を要しました。神様のお考え、全ての人が神様の似姿であり平等だというお考えが実現するまでの時間スケールは私たちの思いを越える所がある様です。しかし、この問題は1862年の奴隷解放宣言で全て解決したとは言い切れません。もちろん「鎖につながれ鞭打たれ」と言う姿は現代において稀なケースでしょうが、いじめ、虐待、ハラスメント、差別や格差の問題などなど、解決が私たちに委ねられている課題は多くあります。 政治的な働き、社会での奉仕活動、隣びとを愛する行いなどそれぞれに使命感を持って活動していらっしゃる方がいます。大切な働きです。
パウロは言います。コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章21節以下です。 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。礼拝を共にささげ聖書に親しみ共に祈りつつ福音を述べ伝える。これこそ何時の時代にあっても教会として欠かすことが出来ないことです。その基盤の上に、政治的な働き、社会での奉仕活動、隣びとを愛する行いがそれぞれの人の個性や才能を生かして用いられるのでありましょう。私たちは「神を愛し、自分を愛し隣人を愛するのです。」
ヨハネ福音書8章に戻ります。捕らえられた女性をどの様に処罰すべれば良いのか、律法学者たちやファリサイ派の人々が主イエスに回答を迫ります。なぜ主に回答を求めたのでしょうか? それは、主イエスを殺してしまいたい彼らの仕掛けた罠なのです。先ほどお読みした十戒や申命記によればこの女が罰を受けなければならないことは明らかです。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」律法を、しかもその字面を都合良く解釈することにおいて律法学者やファリサイ派に勝るものはありません。彼らに言わせれば「石打の刑」以外ありえません。ですからその狙いは、6節  イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。当時、イスラエルの律法と司法は最高法院に与えられており、彼らもその議員でした。しかし、死刑判決を下すことはローマ総督にあり、最高法院には許されていなかったのです。彼らが憎んでいる親ローマの人たちの処刑を防ぐ意味があります。なんとしてでも殺してしまいたいイエスです。律法に従って石打刑にしろと言えば、ローマ総督に逆らったことになりますし、石打刑を否定すれば律法違反と攻め立てることが出来ます。 律法の言葉がそのまま実行されようがされまいが、この女が罪を悔いて神様に立ち返ろうが立ち返らなかろうが、そんなことはどうでも良かったのです。こざかしい限りです。
同じように主を罠にはめようとした話が思い出されます。ローマ帝国に税金を納めて良いのかいけないのかを問うたのです。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(ルカ福音書20:24-25)「神のものは神に返しなさい。」2000年の時を隔てるもなお、私たちにとって真理の言葉です。聖書は「キリストは私たちにとって、神の知恵」なのだと証言しています。(Ⅰコリント1:30)
それでは、神の知恵である主イエスは彼らの罠にどの様に対処されたのでしょうか?8:6b イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 律法学者やファリサイ派の人々にとって、この女性の存在は、主イエスをローマ帝国への反逆者として訴える口実を見出すか、それとも律法に従わない神様への反逆者とするか、そのどちらかの言質を取るための道具に過ぎませんでした。一方、主イエスにとって彼女は神様に立ち返って幸せな人生を歩んで欲しいと願う救いの対象だったのです。聖書は告げます。主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。(箴言 1:7)
今朝、主イエスが用いられた知恵を二つ見ました。「神様のものは神様へ」。この知恵は私たちに与えられているもの全てが神様からの恵みであることを悟らせます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」との知恵は、裁きをなさる方が誰なのかをハッキリと思い起こさせます。主はおっしゃるのです。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(ルカ6:37)ヨハネ福音書8章11節に戻りましょう。8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」 主の愛情あふれる言葉です。しかし、ここからから「主イエスは人間の弱さを知っておられ、罪を犯す者、すなわち全ての人間に対して寛大な方だ。」この様な聖書の読み込みをする方がいます。これはYesであり、同時にNoなのです。 確かに、主イエスは人間の弱さを知っておられます。罪を犯す者であることをご存知です。使徒パウロは自身を 罪びとの頭だと言います。(テモテへの第一の手紙 1:15)私たちは主の愛から目を背け罪に陥ることがあるのです。悲しい現実です。
それでは「全ての人間に対して寛大な方」なのでしょうか?8章11節の後半です。イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」この言葉は優しい言葉なのでしょうか、それとも厳しい言葉なのでしょうか?近年、叱ることが非常に難しくなっているように思われます。学校の先生が愛の鞭を文字通りふるおうものなら大騒ぎになります。逆に親による虐待も後を絶ちません。大分前になりますが、シンクロナイズドスイミング、現在ではアーティスティックスイミングと言うそうですが、かつて日本代表チームのヘッドコーチとしてオリンピックのメダリストを育てた井村雅代さんの「愛があるなら叱りなさい」と題する講演を紹介しました。彼女は「今の若者には技術、体力、精神力をつけさせるだけでなく、その力を発揮させることが一番大事だ。その原因は、倒れるほど練習していない、大声で泣く程悔しい思いをしていない、うれしくて舞い上がるような体験をしていない。」この様に分析して、「少しだけ無理をさせて小さな成功体験を積み重ねる指導をする。」 さらに「叱ることは相手の可能性を信じること。叱る時は本気で。口先だけなら見て見ぬふりの方がマシ」この様に語りました。主イエスは、この女性を叱られたのでしょうか? それとも叱られなかったのでしょうか? 確かに女性の行動を非難する言葉はありません。8章2節以下の出来事を追ってみましょう。彼女を攻め立てる律法学者たち。その目的は主を貶(おとし)めるため。しかし、この時、彼女は恐怖の中にあったに違いありません。彼女の運命は主イエスの一言に掛かっていました。6節 イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 聖書の一節を書かれたのか、あるいは祈りの言葉を書き続けられたのでしょうか? どれほどの時間だったのか、聖書は語りません。しかしその間、彼女の命は主の一言に掛かっていました。恐怖の時間は続いたのです。7節 8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」彼女を始め町の人たちは皆、ファリサイ派の人の祈りの言葉を知っていました。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』(ルカ福音書18:11-12)彼女は彼らがイエス様に焦(じ)れて、石を投げつけてくるに違いないと思ったことでしょう。十分長い時間、石打の刑におびえ続けたのです。しかし、彼らは一人また一人とその場を立ち去って行きました。チョット不思議な出来事ではないでしょうか? 自分を誇って祈る者が、罪を認めて立ち去ったのです。 なぜこんなことが起きたのでしょうか? その原因は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この様に言われた方が主イエスであったからでしょう。他に原因は考えられません。主イエスの言葉と業に、自分たちの罪深さを意識させる権威を感じていたのです。少なくともこの時点では。最終的に彼らは、ローマ帝国の権威を用いて主を十字架に架けてしまいます。それは主が人の罪を負い十字架での死によって、私に、そしてあなたに、その大いなる愛を示すための死であり、復活なのです。
私たちは今、神様が書かれた筋書。独り子を与えてくださるほど私たちを愛して下さる筋書を知っています。例え彼女の様に死に隣り合わせの恐怖を感じる苦しみの時であろうとも。1862年の奴隷解放宣言以前においても奴隷たちは苦しみの先にある勝利、復活の主の勝利に与ることを知っていたのです。多く残されている黒人霊歌は彼ら彼女らが失うことの無かった希望を今日に伝えています。主は彼女におっしゃいました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」この言葉が彼女に与えた変化を聖書は語っていません。しかし、次の伝説があります。彼女の名は、マグダラのマリア。マグダラのマリアは誰よりも早く墓に駆け付け、最初に復活の主にお会いしたのです。主の長い沈黙の時間。それはシンクロの井村さんの言う「叱ることは相手の可能性を信じること。叱る時は本気で。口先だけなら見て見ぬふりの方がマシ」 この言葉に重なります。主が真剣に彼女をしかり、主の愛の中を歩む幸せな人生へと回復してくださるために必要な時間でした。
今、主の十字架と復活の出来事を知る私たちです。主はおっしゃいます。「わたしはすでにあなたの罪を負った。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」祈りましょう。