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山形六日町教会

2020年11月1日

聖書:箴言25章20~22節 ヨハネによる福音書7章37~39節
「渇いている人は飲みなさい」波多野保夫牧師

本日は11月の第一主日に当たり、毎年すでに神様の御許に召されました諸先輩方を偲んで礼拝を守っています。しかし、昨年と異なることがいくつかあります。講壇の前にお写真が並んでいないことと、お名前の朗読がないこと、コロナ禍にあっての措置ですが、さらに大きな違いはお配りして召天者名簿に、あらたに3名の方のお名前が書き加えられていることです。教会の歴史と共にお名前が増えていくのは、悲しいことであり、当然のことであり、そしてまた主に感謝すべきことです。肉親や、信仰の友や、知人とのこの世における別れは悲しみを伴いますし、もっとこんなことをしておけば良かったと後悔の念も伴うことでしょう。しかし、人に寿命があることは神様が定められたことでありますから当然です。私たちは、地上に生を与えられている時間を精一杯有意義に過ごしたいと思います。その際、喜びに満ちた人生のためのマニュアルがあります。聖書です。限りある人生を喜びに満ちて有意義に過ごす。それは主イエス・キリストの愛の中を生きることに尽きます。その方法が聖書にハッキリと書かれています。ですから人生の最高のマニュアルが聖書だと申し上げています。さらにこの人生のマニュアルは、生物学的な人の死が全ての終わりではないことを告げています。先に主の御許に召された方々との再会であり、復活の希望を語るのです。ある方から質問されました。可愛がっていた猫の玉ちゃんはどうなのでしょうか? なかなか難しい質問です。聖書は玉ちゃんについて語っていないから良く分からなにのですが、いつの日にか私たちが神様の御許へと召された時に、そこで玉ちゃんに会える、そんな想像であり希望を持つことは楽しいことです。
さて、先に神様の御許に召された兄弟姉妹は、今天上の教会、神様の愛に満ちた御支配のもとに有る教会で私たちと共に礼拝の時を持っているに違いありません。私たちは共に主のみ言葉を聞き、賛美し、祈るのです。ただし、天井の教会での説教者はイエス様ですね。私は緊張を覚えつつ、聖書の語る所に従って、具体的には「信仰告白」に導かれて説教を語ります。説教者には神様の言葉としての聖書の解き明かしが委ねられており、これは大変怖れを多いことなので、皆さんに「説教者の為に祈って支えていください。」とお願いしている理由がここにあります。
聖書のみ言葉をご一緒に読んで参りましょう。ヨハネによる福音書7章37節 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。これはユダヤの三大祭に数えられる「仮庵の祭り」の最終日の出来事です。ユダヤの三大祭は全て旧約聖書出エジプト記に記され、モーセをリーダーとしたエジプトでの奴隷生活からの解放という大昔の出来事に関係しています。ユダヤ民族の原点がここにあると言えます。神様が自分たちを選んで特別の恵みを与えてくださったのが、このエジプト脱出の出来事だったからです。ですからユダヤ教では、今日においても未だに「自分たちだけが選ばれた民だ、選民だ」との考えを持ち続けています。しかし、主イエスが救い主だと信じるキリスト教は違います。世界の全ての民、私たちを含めて、救い主イエスに従う恵みを受けた者こそが選ばれた民であり、まだ洗礼に至っていない方は、共に歩む幸せな人生へと招かれているのです。唯一の神を共に拝し、旧約聖書を共に聖典とするキリスト教とユダヤ教ですが、主イエスをこの世界全体の救い主と信じるのか、自分たちだけの救い主が何時の日にかやって来ると待ち続けるのか。これが両方の宗教の違いなのです。
三大祭りに戻りますと、「過越し祭」と「五旬祭」そしてこの「仮庵の祭り」です。「過越し祭」はエジプトを脱出した際、神様がユダヤ人の家を過ぎこされ怒りを向けられなかったことを思い起こし感謝する祭です。1週間の間イースト菌を入れないパンを食べることでその恵みを思い起こし感謝をささげます。「五旬祭」はエジプトを脱出して50日目にシナイ山で十戒が与えられたことの記念日であり、また冬小麦の収穫を祝う時でもあります。私たちクリスチャンにとっては、主イエスが「過越し祭」の時に十字架に架かられ、復活と昇天の出来事を経て、五旬節、即ちペンタコステの日に、約束された聖霊が降って教会が誕生した記念の日です。
さて37節は 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、と語り始めますが「仮庵の祭り」についてお話しすることから始めましょう。エジプトでの奴隷生活で辛い日々を送っていたユダヤ人たちの祈りが聞かれ、モーセに導かれて脱出に成功したものの、彼らが約束の地カナン、今のパレスチナに入ることを許されるまで、40年の月日を必要としました。彼らは荒れ野の中をさ迷い歩き、様々な出来事を経験するのですが、それは神様に逆らうこと、即ち「罪」を犯しては、その「罪」にもかかわらず神様が恵みを与えてくださることの繰り返しでした。
出エジプト記17章です。17:1 主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」17:5 主はモーセに言われた。17:6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。神様は不平を並べるイスラエルの人々に恵みを与えることで答えられたのです。不平を言う私の姿がそこに重なります。
そのおよそ1300年後と言われます、主イエスの時代においても、この祭りは大切に守られていたました。7日間自分たちの家を離れ、粗末な仮小屋に住み食事をすることで、先祖に与えられた大いなる恵みを思い起こし感謝しました。この祭りは秋の収穫の時に行われましたから、神様の豊かな恵みを思い感謝するのに最も相応しい時でした。ユダヤの人たちが先祖に与えられた神様の大いなる恵みを思い起こし、変わることの無い愛を強く感じるこの「仮庵の祭り」は、私たちにとって、この「召天者記念礼拝」が相当するのではないでしょうか。なぜなら、今は神様の御許にある諸先輩方の生涯には、恐らく山もあれば谷もあったことでしょう。不平を言いたくなることもあったことでしょう。「仮庵の祭り」はそんな先祖に注がれた神様の恵みを思い起こし、自分たちに注がれている神様の愛に心を向ける時でした。
この「召天者記念礼拝」は生前諸先輩に注がれた神様の大いなる恵みに思いいたし、同じ恵みのもとに私たちが置かれていることを感謝する時なのです。なぜ、その様なことが言えるのでしょうか。7章37節の後半と38節です。イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」主はここで何を飲みなさいとおっしゃったのでしょうか? 気になります。名簿にある方々の中には、お酒を好まれた方もいらっしゃったかと思いますが、聖書は大酒を飲むことを禁じています。大酒は健康にも精神的にも良い影響を与えません。神様は人の幸せが崩れることを望まれないからです。
では適量のアルコールはどうなのでしょうか。キリスト教の中にも、一切の飲酒を厳しく禁じる宗派があります。しかし、カトリック教会は聖杯になみなみと注がれた聖餐式のぶどう酒を司祭は飲み干さなければならないそうです。修道院が作る有名なワインもあります。私たち改革長老教会の伝統では、宗教改革者のカルヴァンですが、彼の謝儀の一部はワインで支払われていた記録があります。もちろん大酒に溺れることは禁止です。面白い話が残っています。1900年代の初頭のアメリカです。1920年に禁酒法が成立しましたが、これは酒に溺れる多くの労働者を救うため教会婦人たちが立ち上がったことによるだけではなく、当時アメリカの殆どのビール工場がドイツ系の一族によって所有されていたことから、第一次世界大戦が勃発したことで反ドイツのナショナリズムが盛り上がったことが一因だそうです。
この時代、教会では聖餐式にワインを用いることが出来ず、あるメソジスト派の牧師はブドウジュースの普及に努め、発酵しないグレープジュースを生産する工場を持つに至りました。牧師の名はサミュエル・ウェルチ、1933年禁酒法が廃止され、経営者は変わりましたがウェルチ・ジュースは有名です。現在ではアルコール中毒のリバウンドや車の運転を考慮して多くの教会がグレープジュースを用いていますが、教会の歴史にはこの様な出来事もあるのです。落ち着いた中で聖餐式を持てることを感謝したいと思います。
使徒パウロによりますエフェソの信徒への手紙5章18節から20節です。5:18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、 19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 20 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
「仮庵の祭り」に戻りましょう。主イエスは「私のところに来て飲みなさい。」 と大声で叫ばれました。砂漠で水が与えられたことを感謝する祭です。大祭司がシロアムの池から金の柄杓(ひしゃく)で汲んで来た水を神殿の祭壇に注ぐ祭りのクライマックスの場面で大声で叫ばれたのです。「私のところに来て飲みなさい。」いったい何を飲みに来る様におっしゃったのでしょうか? 気になります。もちろんお酒ではありません。7章29節 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。主イエスが飲みなさいとおっしゃった飲み物は実は「聖霊」なのです。
この同じヨハネによる福音書4章に、主が井戸に水を汲みに来た女性に「水を飲ませてください」と言われた。話があります。さらに「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」と女性に向かって続けられました。彼女が「主よ、どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」と問いますと「4:13この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 この様に答えられました。
私たちが命を与えられていますこの地球は「水の惑星」と呼ばれ、宇宙飛行士が撮った地球は青く輝いています。地球表面の7割が水で覆われているそうです。地球上の生き物は私たちを含めて水無くしてはその生命を維持することが出来ません。私たちの体の60%は水でできているそうです。 「仮庵の祭り」はそもそも砂漠の中で与えられた水を感謝する祭です。そのクライマックスで「私のところに来て飲みなさい。」と大声で叫ばれた際の飲み物であり、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。この女性におっしゃった水とは、「聖霊」のことです。肉体に水が欠かせない様に、人の心に「聖霊」は欠かせません。聖書は「聖霊」を単に「霊」と呼ぶこともあれば「風」あるいは「息」とも表現しますが、それでは「聖霊」とは何なのでしょうか? 「私たちが幸せに生きて行く上で不可欠なものです。」 正解ですが、これでは良く分かりません。
 キリスト教は三位一体の神を信じる宗教です。「父なる神」世界の全てを創造された全知全能の方です。「子なる神、主イエス・キリスト」十字架の道を歩み神様がわたしたちを愛して止まない方であることを示してくださいました。この愛の出来事の故に教会は十字架をシンボルとしています。「聖霊なる神」今も教会を導き、私たち一人一人に主の大いなる愛を悟らせてくださいます。 三位とは「父なる神」「子なる神、主イエス・キリスト」「聖霊なる神」であり、一体とは、その本質を一つとする、諸先輩を愛し、私たちを愛し、まだ主を知らない多くの人を愛して教会へと招いて下さる愛の神様なのです。
ユダヤの人たちも、すべての先輩たちも、さらに私たちも神様の大いなる愛の下に置かれているのです。ユダヤ人たちの様に一時、神様に逆らうこと、即ち「罪」を犯すことはあったでしょうし、あるでしょう。神様のご命令。「神と自分と隣人をどんな時でも愛する。」ここからそれること。自分中心になり神様を忘れることが「罪」の本質ですから、先輩たちも、そして私たちも全ての人間は、一人の例外をのぞいて残念ながら「罪」から無縁ではあり得ないのです。しかし、その一人の例外、主イエス・キリストに心を向け、従っていく時に私たちの「罪」は主が負って下さり、私たちを罪のない者と見なしてくださるのです。これが「罪の赦し」です。そして、この真理に生きたのが私たちの諸先輩方であり、また生きているのが私たちクリスチャンなのです。招かれているのがまだ洗礼を受けていない方なのです。
ヨハネ福音書7章38節。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。クリスチャンから 生きた水が川となって流れ出る すなわち聖霊が流れ出ると言われるのです。本当でしょうか? この私からです。牧師は多くの恵みをいただいている一方で困難をも負います。その一つは家族の問題です。礼拝の説教は聖書の語る真理を述べ、神様に従う幸せな生き方、即ち「神様と自分と隣人を愛する」ことを語ります。しかし、牧師も残念ながら神様の愛に背を向けることが有る「罪びと」の一人です。牧師の家族はそのギャップ、語ることと行うことの違いを見てしまうのです。もし家族がここで留まれば、教会を嫌うようになることでしょう。しかし、その様な牧師であっても神様が用いてくださる。神様の大いなる愛に思い至れば、教会を支える者へと成長するに違いありません。実は、この問題は牧師だけではありません。長老さん、あるいは教会員の一人一人にとっても同じでしょう。私たちはお互いの為に、お互いの家族の為に祈り合うことが欠かせないのです。クリスチャンから 生きた水が川となって流れ出る すなわち聖霊が流れ出るのはクリスチンが清く正しく信仰深いからではないのです。聖霊がクリスチャンの中に住み支え愛し生かしてくださる。そしてその聖霊がキリストの愛を周りの人に伝え届けてくださるのです。その時私たちを福音の運び手、あるいは配達人として用いてくださるのです。
この山形六日町教会の130余年に及ぶ伝統は、諸先輩の生涯を支え愛し生かし続けてくださった三位一体の神である聖霊が、諸先輩の体、即ちその人生を通して川となって流れ出 て下さった結果なのです。召天者記念礼拝においてあらためて主の大いなる愛のご計画を思い起こしましょう。そして、天上の教会に集う諸先輩方と共に祈りましょう。