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山形六日町教会

2020年10月25日

聖書:詩編131編 使徒言行録9章9~16節
「ひそかな神の声を聴く」波多野保夫牧師

本日は2週間前に持ちました中高生との合同礼拝の際、中高生に読んでもらった聖句と同じ個所を再度読み直してみたいと思います。実はその前の週、10月4日に「私たちは現代における預言者なのだ。」この様に申し上げたことを、もう少し掘り下げたいと思うからです。
10月4日には、コリントの信徒への手紙Ⅰ 14章1節以下を開き「預言と異言」と言う説教題で聖書の言葉を語り、また聞きました。「異言」は他の人には訳の分からない言葉を神様に向かって申し上げるのですが、パウロはそれを否定はしません。異言を語ることを禁じてはなりません。(14:39) この様に述べます。初代教会において聖霊の働きの一つだと広く認められていました。しかし、「異言を多く語れる自分は聖霊の賜物を多く受けており、信仰深い証拠だ。」 この様に自慢する者に対して「それは違う。異言はそれを解釈して理性の言葉に翻訳しないのであれば、教会をつくり上げることは出来ない。教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。(Ⅰコリ14:23)」 この様に述べます。
それに対して神様のお考えをチャント理解して理性で語る「預言」は必ず神様の愛を伝える言葉であり、教会をつくり上げる言葉なのです。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ 14章で繰り返し「預言」を語る様に求めます。14章1節 14:1 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。31節 14:31 皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。さらに、 39節 14:39 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。「私の兄弟たち」とは、直接的にはコリント教会に集う人たちですがそれだけではありません。聖書を神様の言葉として読み、そして聞くすべての人たちのことです。だから当然、私たちもパウロの呼びかける「兄弟姉妹」に含まれます。
私たちが預言をする者、神様のお考えを伝える「預言者」だというんですか? 「私が現代における「預言者」だなんてそんな大それたことなど滅相もない。」こう言いたくなるのではないでしょうか。私もそうです。そこで、聖書に登場する大勢の人たちを見ました。旧約聖書のノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデ、ヨナ。新約聖書のペトロ、トマス、そしてパウロ。神様に逆らった者たち、即ち罪びとばかりでした。その罪びとを神様が用いてくださったのです。確かに旧約聖書に登場する預言者は、神様がこれからなさろうとすること、未来のことを多く語りました。
しかし、新約聖書では神様のお考え、どんな時でも私たちを愛して止まない神様のお考えは、主イエスが十字架の出来事によって完璧に語ってくださったことでハッキリしています。ですから預言はこれから起こる未来のことではなく、昔から、今も、そしてこれからも変わることの無い神様の愛、「いつまでもみんなを愛しているよ!」と言う神様のお考えを語る、これがイエスさまの時代に始まり、私たち米沢教会や山形六日町教会が、そして集う一人一人が受け継いでいる現代における「預言」なのです。それを語り伝えるのが「現代における預言者」、私であり、あなたなのです。
あれから三週間経ちました。神様の愛を私たちの口で、体で語ることが出来たでしょうか? それは祈りの言葉かも知れませんし、イエス様に生かされた喜びのほほ笑みかも知れません。隣人や友人への小さな奉仕、小さな親切かも知れません。あなたは預言者です。神様の愛を表し大勢の人に伝えることが出来ます。預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。預言する者は教会を造り上げます。私たちは人に向かって神様のなさってくださったことを語ります。礼拝における説教がそうですし、礼拝の中で信徒の方が、自分の経験した神様の愛の業を証言する「証し」があります。日本基督教団にはこの「証し」の用い方に慣れていない教会が多い様に思えます。自分に注がれた聖霊の豊かな働きを、人に向かって理性的に語るのですから、難しさがあります。しかし、聖書は出来事の記録であるよりも、主の教えと業を経験した人の「証し」であり、聖霊の豊かな働きを経験したパウロを始めとする伝道者たちの「証し」の書なのです。だとしたら、聖霊の生きた働きを、理性的に「証しする」工夫もなされて良いのではないかと思います。
さて、聖霊によって私たちの信仰が養われ、抱えている課題に対しての励ましを受け、悩みや苦しみに対して慰めが与えられる。さらに祈りの会で信仰の友が祈ってくれる。教会に集うことで与えられる大きな喜びです。集うことが叶わない時においても自分の為に祈っていてくれる友が主イエスの他にも必ずいるのです。預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。預言する者は教会を造り上げます。主イエス・キリストの教会はこの様にして、祈りつつ先輩たちが造り上げて来たのです。例え一時ほころびが生じようとも、主イエス・キリストの教会であり続ける限り大丈夫です。必ず修復してくださいます。
さて、礼拝が終わると私たちは家路をたどりますが、以前私がお世話になった教会の駐車場の出口に一つの看板が立っていました。そこには「今、あなたは伝道の地に派遣される」この様に書かれていました。教会から家路につくとは、主によって主の福音を知らないこの世へと派遣されることなのです。そして伝道の地において、私たちは教会でいただいた 人を造り上げ、励まし、慰める 主イエスのみ言葉と業、とりわけ十字架の出来事に示された主の愛を、家族であり、学校や職場の友人であり、広く町の人々に伝える、これが現代の「預言者」として立てられている私たちが神様に仕えるということなのです。これこそが、私たちの教会が、そして集う一人一人が主イエス・キリストから委ねられている福音の伝道なのです。

さて、説教シリーズ「祈るときには」の第22回です。現代の「預言者」として立てられている私たちは、どのように神様の御声を聴くのでしょうか。それが今日のテーマです。この説教シリーズで、祈りは神様との会話だとお話して来ました。私たちの心の内をお話しします。呼びかけと賛美の言葉の他に、罪の赦しを乞う「ごめんなさい」。いただいた恵みに感謝する「ありがとうございます」。そして一番多いのではないでしょうか? 「お願いします」。この様に神様に話しかけます。しかし、これだけでは一方通行です。神様の語り掛けを聴くのです。それは様々に与えられます。シナイ山では雷鳴がとどろき、稲妻が光る中でモーセに語られました。願いが劇的な形で叶えられることもあります。困難の中で突然事態が好転したとすれば、それが主のお答えです。大いなる感謝をささげてください。
しかし、神様の語り掛けはしばしば小さなささやき、心を澄まして聞き耳を立てないと気づかない小さな小さなささやきで与えられます。旧約聖書サムエル記上です。少年サムエルは祭司エリに仕え、夜は神殿で寝ていました。最初は主の呼びかけとは分からずにいたのですが、やがて「僕聞く、主よ語り給え」(Ⅰサム3:10)とお答えしました。私が少年だったころ祖母から聞いたのでしょう。この文語訳聖書のことばが耳に残っています。列王記上(19:11-12)が語る預言者エリヤです。450人のバアルの預言者との戦いに勝利したのですが、異教の神に仕える王妃イゼベルに命を狙われ、神の山ホレブ山にたどり着き主の前に立った時です。エリヤの前に激しい風、地震、さらに火が起こったのですが、それらの中に主はおられませんでした。「19:12火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」とあります。主はささやかれたのです。神様は、モーセの時の様に雷鳴や稲妻を伴って、即ち激しい出来事を伴って私たちに語られることがあります。人生の一大事の中で御心が示される時です。
一方、少年サムエルや預言者エリヤの様に、静かにささやかれることで私たちに御心を示されることがあります。日々の生活の中でのほんの小さなこと、私はテレビドラマの中での小さな優しさが妙に心に響くことがあります。神様のささやきなのでしょう。聞き漏らさない様にしたいと思います。しかし、小さなささやきには聞き間違わないことも必要です。
悪魔のささやきです。「私にひざまずけば、この国の一切の権力と繁栄を与える。」こんな悪魔の大声ならば、すでに主イエスが勝利なさったことを思い出します。しかし「そのぐらいは良いだろう、あとチョットだけ。みんなやっている。一回試してみるだけだから。」悪魔の誘いは巧妙です。神様のひそかな声と悪魔のささやきをどのように聴き分けるのでしょうか? 実は難しくないのです。聖書に親しみ祈る。礼拝に参加するとともに、信仰の友と語り祈る。皆さんが普通になさっていることです。共にいてくださる主を思い起こす時、私たちは強いのです。

先ほど聖書を2か所読んでいただきました。詩編131編2節。 わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。 実はダビデがこの詩を、何時どの様な状況で読んだのかは明らかでありません。彼はその生涯において大きな罪を少なくとも2つ犯しました。バテシバとの情事と彼女の夫、ウリヤを戦場での死に追いやったことが一つです。(サムⅠ11,12) もう一つは、彼の最晩年にイスラエルの人口調査をしたことです。(歴代21) 自分の国の兵力を知ることは王にとって必要であり魅力的だったのですが、それはまた先頭に立って敵と戦ってくださる神様への不信仰を意味していたのです。このように、ダビデは罪を犯す者でしたが、その度に罪を悔い改め、そして主に立ち返ったのです。これは私たちの姿でもあります。
詩編131編2節3節。 わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。 イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。ダビデは沈黙しました。神様のみ言葉を正しく聴くためです。旧約聖書の時代のイスラエルは今の教会に相当します。どちらも神様が選びだしてくださった恵みを感謝する者たちの群れなのです。教会は騒がしいままではいけません。まず沈黙してみ言葉を聴くのです。
そして、祈りをもって行動します。地上における御心の実現を例にあげれば、なかなか成果が見えません。疲れを覚えます。しかし、主の再臨、終末の日における勝利は約束されています。希望をもって祈りそして行動し続けるのです。
使徒言行録9章9節以下は、パウロがまだサウロと言う名前で呼ばれていた時のことです。当時の彼は忠実なユダヤ教ファリサイ派の闘士でした。キリスト教は唯一の神を冒涜するものであり、神に仕える自分はクリスチャンを滅ぼしつくす必要がある。この様に考え、クリスチャンを捕まえては牢へと送っていました。そんなパウロはダマスコに向かう道で復活の主に出会いみ言葉を聞きました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」(使徒9:5-6)
目が見えなくなったサウロはダマスコの町に留まったのですが、ここで注目したいのは、アナニアと言うクリスチャンです。パウロは使徒言行録22章で自分がキリストを迫害する者からキリストに従う者へと180度変わった次第を述べていますが、アナニアを次の様に紹介しています。「律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいる全てのユダヤ人の中で評判の良い人でした。」 このアナニアはユダヤ教徒だったのでしょうか、それともクリスチャンだったのでしょうか?実は教会が誕生してからまだ5年程しかたっていないこの時期、サウロの様に確信をもってクリスチャンを迫害する者がいる一方で、同じ神様に従うユダヤ教の一派として認める者もあったのです。アナニアはイエスこそが救い主だと知る者でした。私たちと同じクリスチャンでした。9章13節14節 「アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」彼は「サウロという、タルソス出身の者を訪ねよ」とおっしゃる主の言葉にためらいを見せるのです。サウロがクリスチャンを捉えて牢に送っている男だからです。しかし、アナニアは主の声に聴き従ってサウロ、後のパウロの許へと出かけて行きました。9章10節。ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。「幻の中で」とは夢の中や祈りの中で、なのでしょう。アナニアは心を静かにしてひそかな主のささやきを聴きとったのです。この出来事を私たちは「ああそうか、そんなことが有ったのか」で済ますわけにはいきません。
パウロの回心はアナニアが神の声を聴き分けることから始まったからです。私たちは現在、聖書の中に多く残されています彼の手紙によって、主の福音を知るのです。主に逆らうだけでなく、クリスチャンを迫害する者をも用いられる。これが神様のご計画なのです。そして、それはアナニアが心静かに主のささやきを聴きとったことから始まりました。その結果使徒パウロが起こされた事実があるのです。
私たちは恐らくパウロにはなれないでしょう。しかし、アナニアになることは出来ます。アナニアは心を静かにしてひそかな主のささやきを聴きとって従ったのです。それは、2000年後にも語られる大きな働きでした。特に若い方には「そんなことは無い! 自分はパウロをめざす。」こう言っていただきたい気持ちが私にはあります。

最後に主のみ言葉をお読みします。ヨハネによる福音書10章27,28節です。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。私たちの祈りは主との会話です。「ごめんなさい」「ありがとうございます」「お願いします」この様に話しかけます。この先が大切です。神様の話しかけを静まって、心を開いて聞くのです。「あなたを愛しているよ!」から始まる声が聞こえるでしょう。アナニアは恐れつつもパウロのところに行きました。あなたにもあなたに相応しい働き、あなたにしかできない働きが聞こえることでしょう。その声に聴き従うのです。これこそが幸せな人生を約束する方程式です。しかし、悪魔の声と聞き違えてはいけません。聞き間違えない方法を繰り返します。聖書に親しみ祈る。礼拝に参加するとともに、信仰の友と語らい祈る。皆さんが普通になさっていることです。共にいてくださる主を思い起こす時、私たちは強いのです。礼拝が終わって「現代の預言者」として伝道地に派遣される私たちは強いのです。 祈りましょう。