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山形六日町教会

2020年10月18日

聖書:創世記27章11~13節 ローマの信徒への手紙9章10~14節
「理不尽を乗り越える」波多野保夫牧師

説教シリーズ「気概を示す」の16回目です。このシリーズでは、聖書に登場する女性に注目しています。旧約聖書エステル記が伝えます、バビロン帝国の王妃に上りつめたエステルの物語で始まりました。彼女は神様によって選ばれたイスラエルの同胞の窮地を救うため、死の危険を冒してお呼びが無いにもかかわらず王の前に出て行きました。神様への篤い信頼の故です。
さらに、旧約聖書からルツ、ナバルの妻、女預言者デボラ。新約聖書からリディア、レプタ銅貨2枚をささげた貧しいやもめ、そして主の母マリア、ベタニアのマリアとマルタ姉妹。この他にも大勢の女性を取り上げました。「彼女たちの信仰を通して私たちの信仰を見つめ直したい。」との趣旨で始めたこの説教シリーズですが、少し違う思いが湧いてきています。
「私たちの信仰を見つめ直したい。」 この部分は変わらないのですが、「彼女たちの立派な信仰を見ならって、私たちも頑張りましょう!」と言うほど単純ではないのです。もちろん、立派な信仰の表明はたくさんあります。主イエスの母マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。」と立派な信仰を表しました。私達も「主に仕える者です。お言葉どおりこの身に成りますように。」 この様な信仰をご一緒に求めたいと思います。
しかし、聖書は一見して不信仰な言葉からも私たちを「主の愛」に導いてくれます。ヨブの妻は災いに苦しむヨブに言いました。2:9 「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」。 彼女のこの言葉は次のヨブの言葉を引き出します。2:10 ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
ローマ総督ピラトの妻です。 ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」(マタイ27:19) 彼女はローマの上流階級に属していましたから、主イエスのことを知らなかったはずですが、真に正しい人だと夢の中で聖霊が告げた言葉を証ししました。この様に、立派な信仰を持っていた者もあれば、聖霊の働きを素直に受けとめた者、こんなので良いのかと思ってしまう者などおりました。
以前、「教師には2種類あります。」とお話ししました。「あの先生の様になりたい。」と言う教師と、「ああなってはいけない。」とハッキリとした気づきを与えてくれる反面教師です。実はどちらも大切です。教師の場合だけではなく、信仰者も同じでしょう。皆さんは果たしてどちらの信仰者でしょうか? 
でも私は次の様に思っています。完ぺきな教師、あるいは神様に絶対的な信頼を寄せられた方は、主イエスお一人です。他の人は全て長所と短所を持っている。
私もそうなのでしょう。そしてそんな私を神様は、我慢に我慢を重ねて用いてくださっている。この様に思うのです。皆さんはそれぞれに良い点をお持ちです。口に出すか出さないかは別にして、それを意識することは大切です。なぜならそれは神様が与えてくださった賜物だからです。そして、神様の為に、隣びとの為に用いるのです。「自分には何も良いものがない。」と思っていたら、それは間違いです。例えば隣人の為に、教会の為に祈るのです。祈りの力です。もし祈りが苦手でしたら、毎日主の祈りを祈ることから始めてください。聖霊が助けてくださいます。逆に短所、欠点です。これも自分で気づくべきですが難しいですね。人から指摘されると、大体頭に来ます。しかし、人間の長所と短所は割と近くにある様に思えるのですがいかがでしょうか?
子供への愛情と過保護。雄弁とおしゃべり。リーダーシップと支配欲。親切とお節介。人間関係では適切な距離感が難しかったりします。博識と高慢。と言うのもあります。 高慢について聖書の語る言葉を聴いてみましょう。箴言の言葉です。高慢には軽蔑が伴い 謙遜には知恵が伴う。(11:2)
高慢にふるまえば争いになるばかりだ。勧めを受入れる人は知恵を得る。(13:10)知恵ある人は畏れによって悪を避け 愚か者は高慢で自信をもつ。(14:16)痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。(16:18)高慢なまなざし、傲慢な心は 神に逆らう者の灯(ともしび)、罪。(21:4) ここでの灯(ともしび)は“しるし”程の意味でしょう。知恵とは神様がくださる知恵、神様を知る知恵です。 いかがでしょうか? 私たちの僕となってくださった方、高慢と全くの対極におられた方、十字架の主イエスの姿が思い浮かぶのではないでしょう。

本日のヒロインは旧約聖書創世記が語りますリベカです。彼女は私たちにとって信仰の教師なのでしょうか?それとも反面教師なのでしょうか?夫のイサクはアブラハムの息子です。高齢になってから妻サラとの間に誕生しました。そんなアブラハムに 22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。 けなげな息子イサクの姿にアブラハムの思いが重なります。そして、22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。 その時、間一髪で神様のストップ命令です。近くに、木の茂みに角をとられた一匹の雄羊がいました。二人はその雄羊を主にささげたのです。「主の山に、備えあり(イエラエ)」 この言葉は今日の私達にとっても真実なのです。神様がなぜこの様に命じられたのかは分かりません。
しかし私たちは知っています。最愛の息子がささげられたのです。その息子の名はイエス・キリストです。ですから創世記22章14節が伝えます「主の山に、備えあり(イエラエ)」は今日にちにおいても真実です。どんな時にあっても神様は私たちを愛し、そして「罪」を克服できる道を備えて下さっているからです。
ヨハネ福音書3章16節。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

さて、アブラハムの子イサクが成長し花嫁を迎えることとなりました。創世記24章の小見出しには「イサクとリベカの結婚」とあります。アブラハムは遠く離れた自分の故郷、チグリス・ユーフラテス河の流域に信頼できる僕を送って息子の嫁に相応しい人を探させました。今住んでいるカナンの地では、偶像礼拝が行われているからです。この召使の目に留まったのがリベカでした。その時の様子です。女たちが水くみに来る夕方、アブラハムに遣わされた僕は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませ、イサクに相応しい人が見つかります様にと神様に祈りました。僕がまだ祈り終わらないうちに、リベカが水がめを肩に載せてやって来ました。「水がめの水を少し飲ませてください。」と求める僕に「どうぞ、お飲みください」と答えたリベカは、「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言いながら、また水をくみに井戸に走り、すべてのラクダに水を与えたのです。この僕はリベカの兄ラバンの「主に祝福された方、お泊りください」との招きに応じて彼らの家に泊まることになり、事の次第を告げました。そして、リベカの同意のもと、父べトエルと兄ラバンは言いました。「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」リベカの育った家庭がアブラハムと同じ主なる神に仕える家庭であり、リベカが心の優しい女性であり、隣びとを心からもてなす女性であったことが分かります。それから時が経ちました。彼女とイサクの間には双子の兄弟、兄のエサウと弟のヤコブが与えられました。
創世記25章27節以下です。25:27 二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。28 イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。 ここから問題が生じます。父イサクに愛された兄のエサウは質実剛健。飾り気がなく、まじめであり、心も体も強くたくましく育ちました。これに対して母リベカの寵愛を受けたヤコブはずる賢いところがあったようです。聖書を読み進めましょう。創世記25章27節以下で、ヤコブは狩りからお腹を空かせて帰って来た兄エサウが 「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい。」と言うので、パンとレンズ豆の煮ものを与えて、長子の特権を譲ってもらいました。聖書は「こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。」と記しています。長子の権利とは、長男が全財産の2/3を相続することになっていた権利をさします。(申命記21:17) エサウはそんな将来の権利よりも、今空腹を満たすことの方を優先したのです。
創世記27章1節以下には「リベカの策略」と言う小見出しが付けられています。穏やかではありません。年老いて目がかすんで見えなくなっていたイサクをだまして、溺愛する息子に祝福を受けさせる歪(ゆが)んだ親心です。彼女はヤコブに入れ知恵をしました。夫イサクは目が見えません。兄エサウの晴れ着を着せ、毛深いエサウの腕を子ヤギの毛皮を用いて真似させ、美味しい料理を狩りの獲物で作ったのだと言わせたのです。リベカがヤコブに授けたこの策略は見事に成功しました。兄エサウだと信じたイサクは弟ヤコブを祝福したのです。それでは、「祝福」とは何でしょうか? 時代によって意味合いが異なるのですが、辞書によれば「創世記では父が子に伝授する「生命力の泉」」とありました。これでは良く分からないのですが、財産や権威の継承なのでしょう。家督相続と言う言葉が近いのでしょう。 狩りから帰ったエサウが父イサクの所に行った時、ヤコブの悪だくみに気付いたイサクは言いました。「既にわたしは、ヤコブをお前の主人とし、親族をすべて彼の僕とし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった。わたしの子よ。今となっては、お前のために何をしてやれようか。」単なる家督相続だけではなく、神様との誓いが伴ってのものだったようです。
策略通りに事が運んで、母リベカと次男ヤコブは喜びに浸ったでしょうが、エサウの激しい怒りにリベカはヤコブを遠く自分の故郷、チグリス・ユーフラテス河の流れる所にいる、兄ラバンのもとへ避難させることにしました。
創世記29章30章です。父イサクと兄エサウを上手くだましたヤコブは、逃げて行った土地で、こんどは伯父ラバンに再三だまされ長い間、ラバンの為に働くことになります。苦悩を味わったのです。そんな時、祈りの中で主の言葉に促されて、兄エサウの待つカナンの地に帰ることを決断しました。その帰り道でのことです。兄との再会を恐れるヤコブが、ヤボクの渡しで神様と戦った話は有名です。いつも共にいて下さる主との交わりの時だったのです。その後、エサウはヤコブの恐れに反して優しく彼を出迎えてくれたのです。創世記11章に始まりますアブラハム、イサク、ヤコブの物語をもう一度読んでいただきたいと思います。欲望の渦巻く世界を超えたところに神様の豊かなご計画を見ることが出来ます。
さて、本日のヒロイン、リベカです。娘時代は旅人に水を与えるだけでなく、そのラクダの為にも水を汲んであげる優しい娘でした。主の御心に従う信仰深い家庭に育った彼女でしたから、苦労して旅を続けている隣人への愛は自然なものでした。しかし、結婚し双子を出産した後、溺愛した弟のヤコブに夫イサクから祝福をだまし取ることを教え込んだのも彼女でした。27章1節の小見出しには「リベカの策略」とありました。彼女は、結婚前は見習うべき教師だったのが、子供を持ってからは反面教師になってしまったのでしょうか? 人生の大きな節目や大きな出来事を境として人柄ががらりと変わってしまうことは確かにあります。彼女をそれと同じだと決めつける前に、注目すべきことが聖書に書かれています。彼女が双子を妊娠し出産が間近になった時のことです。
創世記25章23節 主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており 二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり 兄が弟に仕えるようになる。」兄はカナンの地で異教を信じる妻を迎え、エドム人の祖先となりました。イドマヤ出身のヘロデ大王、そしてバプテスマのヨハネの首をはね、主イエスの裁判の際にエルサレムに居合わせたヘロデ・アンティパスもこの家系に属するのでしょう。一方、弟ヤコブの家系はダビデ王を経て主イエスに至る家系です。

最初に読んでいただいたローマの信徒への手紙9章11節でパウロは神様のこの言葉を引用して「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。この様に述べています。この神様の言葉を前提に考えてみましょう。創世記27章29節 父イサクはヤコブに騙されているとは知らずに自分が可愛がっているエサウだと思い込んで言いました。27:29 多くの民がお前に仕え 多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり 母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ お前を祝福する者は 祝福されるように。」明らかに父イサクは神様のご計画に反して、兄エサウを祝福しようとしたのです。ですから、結果的にではあるかも知れませんがリベカは神様のご計画に従った、あるいは神様に用いられたのです。
ローマの信徒への手紙9章13節14節。9:13 「わたしはヤコブを愛し、 エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。14 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。
13節はマラキ書(1章2~3節)の言葉ですが、パウロは神様の絶対的権威をはっきりと述べます。私たちがいだく人道主義的な疑問に神様のご計画は勝ります。家督相続は人間の制度なのです。確かに私たちの周りにも、私たち自身の人生においても、理不尽なことは起こります。説明のつかないことは起こります。
津波にさらわれた幼稚園児の友達が、先生に「なんで神様は花子ちゃんが死んじゃうようなことをなさったの?」と問うたそうです。私はこの問いに対して答えを持っていません。沈黙するしかないのです。私自身、津波の20日後に大槌町役場の前で神学校の友と祈りの時を持ちました。鴎のこえがやたらに大きく響く中で祈りの言葉が見つかりませんでした。「神様、なんでですか?」 園児の問いに答えられないのです。しかし、一つだけ確かなことがあります。それは主イエス・キリストの十字架です。それほどに神様は私たちを愛していてくださる事実です。どんな時でも変わらないのです。神様の愛は大きすぎて見えなくなることが確かにあります。でも、十字架を見ることはいつでもできます。そこに変わることのない主の愛があるからです。

本日、創世記の記事を丁寧に読みました。私たちに神様の絶対的な愛と権威を思い起こさせるのであれば、リベカはその意味において立派な信仰の先輩と言って良いのではないでしょうか。しかし、わたしたちはリベカと違い、主の十字架の出来事を知っています。その主は、私たちが世の中の理不尽さを乗越えられる様に、祈っていてくださるのです。 私たちも祈りましょう。