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山形六日町教会

2020年9月13日

聖書:箴言16章18~21節 ヤコブの手紙3章13~18節
「上智と下愚とは移らず」波多野保夫牧師

まだまだ暑い日が続いています。今週もご一緒に主のみ言葉を聴いて参りましょう。夏の間、礼拝において旧約聖書の箴言を多く読みました。1章1節以下には次の様にあります。1:1 イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。2 これは知恵と諭しをわきまえ 分別ある言葉を理解するため3 諭しを受け入れて 正義と裁きと公平に目覚めるため。そもそも箴言とは、教訓とか格言、あるいはことわざと言った意味を持つ言葉です。ソロモンの箴言とありますが、現代の聖書学者の多くは、当代随一の知恵者ソロモン王の述べた格言以外にも様々なものが編集者の手で集められ、納められていると言います。これは用いられている言葉や文法、あるいは近隣地域に残された文献に見られる格言との比較など、長年にわたって緻密な研究が行われてきた成果と言えます。
それでは、どうしてそれらすべてが神様のことばだと言えるのでしょうか?その理由は、編集者の信仰に基づく編集方針に見ることが出来ます。彼は断言します。1章7節 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。箴言に納められている教訓や格言、あるいはことわざは、主を畏れる者、即ち神様の絶対的な力や権威を認めて従う者に対して、光輝き神様の栄光を表すとの宣言です。
実は箴言も含めて聖書には、「素直に素晴らしい、言われる通りだ。」と思えるところと、「何でだろう? 何でこんなことが言われたり行われたのだろう? 良く分からない。」 こういった箇所が特に旧約聖書には多いのではないでしょうか。そんな時に疑問を乗越える最良の方法があります。それは、「主イエス・キリストが示してくださった愛を前提として理解するのです。」もう少し別の言い方をすれば、聖書全体が語っていることから、その聖書箇所を理解するのです。
イエス様の言葉です。 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(ヨハネ福音書 5:39)主がおっしゃる聖書とは具体的には私たちの旧約聖書のことですが、新約聖書もまた、ご自身、即ち命をささげてまで私たちを愛し抜かれた主自身を証しているのです。

さて、本日の説教題ですが、普段とずいぶん違った感じの説教題だと思われたのではないでしょうか。私も正しく読めなかったのですが「上智(じょうち)と下愚(かぐ)は移らず」と読みます。論語の言葉です。論語は孔子や彼の弟子たちの言葉を後に編纂したものと言われていますが、彼が活躍したのは紀元前500年ころですから、バビロン捕囚が終わり、エルサレム神殿が再建された時代でしょうか。
キリスト教は600年代の中頃にシルクロードを通って中国に伝えられました。景教と呼ばれます。逆に論語がヨーロッパに伝えられたのは、1600年代になって中国にやって来た宣教師たちが翻訳したのだそうです。ですから、旧約聖書の表現に従えば孔子は異邦人ですし、年代からして主イエス・キリストのことを知る由もありません。チョットもったいない気がすると共に、主イエスを知る私たちに与えられている恵みを感謝する者です。
さて本日の説教題「上智(じょうち)と下愚(かぐ)は移らず」に戻ればこれは直接的には聖書と無関係なのですが、実は本日与えられた聖書箇所の理解を助けてくれると思います。広辞苑には「最上の知者と最下の愚者とはいかに修養しても入れ替わることがない。」この様にありますが、もう少しかみ砕いた説明もありました。「誰でも努力しだいで才能を伸ばすことができるが、天才と呼ばれる人たちと、逆にどうしようもなく愚かな人たちは、努力でどうにかなるというものではない。だから凡人である私たちは、たえず努力を重ね、少しでも自分の能力を伸ばすようにしましょう。」
それでは聖書はどの様に言っているのか? それをご一緒に聴いて参りたいと思います。ヤコブの手紙3章13節以下には「上からの知恵」と言う小見出しが付けられています。小見出しはそもそも聖書原典には存在しない言葉ですが、キリスト教2000年の歴史の中で、教会が書き加えていった小さな要約と言えます。
上からの知恵とは、神様の知恵、あるいは神様から与えられる知恵であり、これが上智です。東京に上智大学と言う大学がありますが、イエズス会の修道士たちが開いた大学ですから、このことを意識して名づけられたのでしょう。続きます下愚(かぐ)、これは人の愚かさです。
実は箴言は人の愚かさを繰り返し指摘するのですが、3つだけ引用しましょう。18章2節 愚か者は英知を喜ばず 自分の心をさらけ出すことを喜ぶ。隣人を愛することが少なく自己中心だとの指摘でしょうか。26章12節 自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。自信過剰な人より自分の弱さを知り謙虚な人の方が望みがあるというのでしょう。28章26節 自分の心に依り頼む者は愚か者だ。知恵によって歩む人は救われる。この聖句は今日のテーマに直接かかわります。
週報に記しておきました。マタイによる福音書7章24節から28節をお読みします。7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。一言お断りしておきますが、昨今頻発する自然災害で被害に遭われた方を非難するみ言葉ではありません。24節で「似ている」とおっしゃっていることからたとえ話だと分かります。実際に家を建てる場所は様々な社会的、あるいは自然的な状況で選ばなければなりません。北海道で起きた地震で山際に建てられた民家が土砂崩れにあいました。家の前に広がった土地は水田として活用するため家は山際に建てるのだそうです。25節で 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲って と主がおっしゃるのは人生における嵐であり大雨です。ですから24節の賢い人と、26節でおっしゃる 砂の上に家を建てた愚かな人 これは先ほどお読みした箴言28章26節 自分の心に依り頼む者は愚か者だ。知恵によって歩む人は救われる。この聖句にぴったりと重なります。
それでは本日あたえられました聖書箇所ヤコブの手紙3章13節以下を読んでいきましょう。3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。昨年来、この「ヤコブの手紙」を説教シリーズ「信仰に生きる」で読み進めました。その際このヤコブ書は信仰を現実の生活の中で実践することを強く求めていると申しました。私たちが罪赦されて救われるのは「信仰」によってのみです。「信仰義認」と呼ばれます。しかし、救われた者の生活、それは感謝の気持ちが深まるにつれより隣人を愛するものへと変わっていきます。「聖化」と呼ばれます。
ですから13節が言う知恵とは上智、すなわち神様の与えて下さる知恵です。「福音」と呼ぶことが出来ます。私たちの罪の為に独り子を下さったこと。その主イエス・キリストに従って生きる時、私たちは最も充実した、最も幸せな人生が約束されています。これが神様からいただいた知恵です。その上智をいただいた私たちは、ではどうすれば良いのでしょうか? 明快です。「神と自分と隣人を愛する」のです。14節15節 3:14 しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。15 そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。16 ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。  
いかがでしょうか? この一週間「うそ」をついたことのない方、いらっしゃいますでしょうか? 私が「はい」と言って手を挙げれば「もう、うそ言ってる!」と言われちゃいますね。言行不一致、言ってることとやってることの違いを「ウソ」と言われてしまうと、牧師は大変につらいものがあります。なぜならば、み言葉を告げる時に神様のお考え、聖書の言葉を割り引いて、「まあ8割出来ればよいでしょう。」この様に語ることは許されません。なぜなら、主が負ってくださった十字架の価値を低めてしまうからです。
では、実際の生活はどうかと問われると、口ごもってしまいます。しかし、こんな私を神様が我慢しながら用いて下さることに感謝しています。ですから皆さんにいつも大切なことをお願いするのです。牧師の為に祈って欲しい、祈りによって支えて欲しいのです。
ヤコブは 内心ねたみ深く利己的であるなら、と述べますが、内心ねたみ深く利己的なのだから、と読むのがより適切です。だから、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。「そのような知恵は悪魔から出たものです。」ヤコブの言葉は大変厳しいですね。神様は罪に対して厳しい方、キリストの十字架以外で人の「罪」を赦すことがお出来にならない、それほどに「聖」なる方だからです。
これも先ほどお読みした箴言の言葉です。18章2節 愚か者は英知を喜ばず 自分の心をさらけ出すことを喜ぶ。 隣人愛を忘れての自己主張でしょう。
ヤコブの手紙3章17節18節。 3:17 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

先日大変うれしい電話をいただきました。その方は本来信頼関係で結ばれるような方々から様々ないじめにあったそうです。いじめの原因として、ねたみ深く利己的であり、自慢したり、真理に逆らってのうそなどがあったのでしょう。それがトラウマになり心に重荷を負ってらっしゃるとのことで、六日町教会をホームページで知って電話をしてこられました。その後も何度か電話をいただき、いじめのことがフラッシュバックすること、いじめた人を赦す気持ちになれないことなどを伺いました。電話を通して共に祈ったことのある方です。その方から「最近み言葉が与えられ、過去に囚われて生きてきた自分に気づいた。これからは今日を精一杯生き、そして未来に希望を持って生きて行きたい。」この様な電話でした。わたしは「イエス様ありがとー。」 叫びたい衝動に駆られました。祈りが聞かれたんですね。
主イエスの言葉が思い起されます。マタイによる福音書5章にあります山上の説教から拾い読みをします。ご自分と照らし合わせながら聞いてください。5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

さて、本日掲げた説教題は「上智(じょうち)と下愚(かぐ)は移らず」「最上の知者と最下の愚者とはいかに修養しても入れ替わることがない。」これが孔子の教えでした。しかし、キリストは私たち、ここで複数形を使って申し訳ないのですが、あのパウロが自分は神様に逆らう罪びとだというのですから、私たち全員は神様に従わない愚か者だと言わせていただきます。そんな私たちが「移らず」では無く「上智」すなわち最高の知恵を持つ者に移るのだ、もっと正確には最高の知恵を持つ者としていただけるのだ! 聖書はこの様に語るのです。
ですから、「上智(じょうち)は下愚(かぐ)に移るのです。」私たちクリスチャンには神様のお考え、本当に幸せな人生を送るマニュアルが与えられているからです。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方。毎回申します様に、幸せな人生への招待状をぜひ受け取っていただきたいと思います。この人生のマニュアルは持っているだけ、しまっておくだけではほとんど役立ちません。「宝の持ち腐れ」です。良きクリスチャンは良き礼拝者です。そして聖書に親しみ祈りの時を持つ。礼拝に参加することがどうしてもかなわない時は礼拝を覚えて祈る。ここまでで上智が何でありそのすばらしさを知るでしょう。難しいことは一つもありません。聖霊が導いてくださいます。 上智を知り身にまとった私たち、日々の生活の中で自然と「神と自分と隣人を愛する」者として豊かで幸せな人生を歩みます。聖霊に導かれた「聖化」の歩みです。

最後に使徒パウロの言葉をお読みします。コロサイの信徒への手紙2章です。2:1 わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。2 それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。3 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。3 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。真の知恵、キリストの愛を届けていただいている私たちです。主に従っていく者でありたいと思います。いただいた知恵をまだ知らない方に届ける者でありたいと思います。 祈りましょう。