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山形六日町教会

2020年8月23日

聖書:箴言3章5~6節 テモテへの手紙Ⅱ1章10~14節
「信頼しています」波多野保夫牧師

先週、先々週と2週に渡って、ヨハネによる福音書15章からみ言葉を聴きました。15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。この様に語り始められた主イエスはさらに続けて、15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。この様に繰返し述べられました。私たち洗礼を受け礼拝に集う者たち、あるいは礼拝に出ることが叶わなくても、その時を覚えて祈りを持つ者たちは、真のブドウの木である主イエスにつながっているのであり、豊かな実を結ぶのだとおっしゃっています。
では「豊かに実を結ぶ」とは何でしょうか? 譬えで語られたのですから、その解釈にはある幅があるのですが、いつも申し上げている「神と自分と隣人を愛すること」に関係しているに違いありません。神様が喜ばれ、自分も喜び、同時に隣人も喜ぶものに違いありません。さあ、何をすれば「神様と自分と隣人」が共に喜ぶことが出来るのでしょうか? 是非考えていただきたいと思います。私たちの結ぶ豊かな実、それは私たち、一人一人に与えられている「使命」と呼ぶことが出来ます。神様はあなたに何を期待されているのでしょうか?まだ洗礼を受けていらっしゃらない方。是非このミステリーの様なワクワク感を持った人生をご一緒したいと思います。神様に愛されていることを感じながら歩む人生をご一緒したいと思います。さらに、主はおっしゃいました。15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。このみ言葉は直接的には弟子たちに語られましたが、現代において教会が、そして集う私たちが受け継いでいます。「主イエスの命じられることを行うならば」とは「神と自分と隣人を愛する」ことに違いありません。ですから私は喜んでその様にしたいと思います。しかし、いつもそう出来るのかと問われると、そこに難しさを感じます。いかがでしょうか? 主はおっしゃるのです。私たちがまずなすべきこと。それは真のブドウの木につながっていることなのです。先週「健やかな時も病める時も」と申しました。この言葉、どこかで聞いたことがあると思われたことでしょう。そうです。結婚式でお互いの愛を誓約していただく際に問われます。聖書は、主イエスと教会との関係を花婿と花嫁の関係になぞらえます。「健やかな時も病める時も」まことのブドウの木、主イエスから離れない。主は、そんな私たちの友となってくださる。なぜなら、私たちは今聖書を通して、祈りを通して、そして礼拝に加わることによって、神様の愛を全て知るからなのです。先週、皆さんの友、友人を思い浮かべていただきました。それぞれに何人かの顔が思い浮かんだのではないでしょうか?
質問です。似た言葉に「知人」というのがありますが、「友人」との違いはどこにあるのでしょうか? 「友人」の方が親密なのでしょうが、その境はどこにあるのでしょうか?ある人が解説してくれました。「知人」とは単に「知っている人」「知り合い」を指す言葉です。「知」は「さとる」「理解する」といった意味があり「顔見知り」や「親しむ」などの意味合で比較的広い範囲をさします。一方「友人」です。「友」という字は右手と右手を取り合っている姿から成っており、「手を取り合うほどの仲の良い人物」を表しているそうです。ですから「友人」とは、単なる知り合いを超えて、一定以上の深い付き合いをしている相手であり、お互いに気を許した付き合いができると認めあった関係を、「友人」と呼ぶそうです。いかがでしょうか? 飲み友達と上司の悪口を言い合う。テレビドラマに出てくるシーンですが、確かに告げ口を恐れずに気を許し合っているのかも知れませんが、むなしさが残る関係ですね。【お互いに気を許した付き合いができ信頼し合える関係を、「友人」と呼びます。】 この様に解説してくれました。
主イエスはおっしゃるのです。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。いかがでしょうか、すでにイエス様はあなたを、そして私を、多くの人に先立って選んでくださっているのです。あとは私たちが心の扉を開くことだけが求められます。ヨハネの黙示録10章20節が思い起こされます。 3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。主イエスと共にする食事。聖餐式であり愛餐会がそうです。皆で愛餐の食卓を共にできる日が早く回復できると良いと願っています。
さて、先ほど「知人」と「友人」の境目を考えていただきました。気前の良い人が「友人」で、そうでない人が「知人」というわけではなかったでしょう。重要な基準の一つが、信頼できるか、あるいは信用できるかではないでしょうか? 残念ながら最初から人をだまそうと付け狙っている人がいます。オレオレ詐欺とか振り込め詐欺など、人の無知や善意に付け込む輩もあれば、うまい投資話を持ち込んで、こちらの欲得に付け込んでくるやからもいます。お互いに気を付けていくとともに、宝は天に積むことにしましょう。ところで、教会ということでお金を貸してくれといった電話がかかってきたり、訪ねて来ることがあります。これは牧師にとって結構きついものがあって、あのトルストイの書いた短編小説「靴屋のマルチン」。あるいはその元となった主の言葉。「この最も小さい者にしたのは、私にしたのである。」 さらに「この最も小さい者にしなかったのは、私にしなかったのである。」この言葉が頭をよぎるからです。週報にマタイによる福音書25章31~46節を記しておきました。心の疼きのおすそ分けです。後でお読みになってください。

さて、本日与えられました聖書テモテへの手紙Ⅱですが、テモテへの手紙Ⅰ、テトスへの手紙と三つ並んでいます。牧会書簡と呼ばれ、使徒パウロが若き伝道者テモテとテトスが教会に起こる様々な問題を乗越える様にと送った手紙と言われますが、語られている教会が制度的に整いを見せていることから、パウロよりも少し後の時代ではないかという聖書神学者が多くいます。いつも申し上げますが、現代と違って尊敬する人の名を用いることは良くありました。そもそも聖書は聖霊の導きで書かれたものなので誰が著者であるかによってその価値が変わることは全くありません。このテモテへの手紙Ⅱ3章16節に次の言葉があります。3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
ではなぜ聖書神学者はそんな研究をするのかと言えば、書かれている内容をよりよく理解するためです。2000年前の伝道者宛に書かれた手紙を現代において正確に解釈し、全ての者が自分に語られている神様の言葉として受け止める為に、莫大な研究がなされているのです。「 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、私を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をしてくれる」のです。
さて、本日の説教題を「信頼しています。」としましたが「信頼してるよ」とか「信じてるよ」と言う言葉にはかなりの幅があるのではないでしょうか。「入社試験頑張ってね! 信じているよ。」 合格を確信しているというよりも「願っている」と言ったところでしょう。「お金、必ず返してくれると信じているよ。」 強い願望と信頼ですがその割合は状況によって変わるのでしょう。先ほど【お互いに気を許した付き合いができ信頼し合える関係を、「友人」と呼ぶ。】 としました。 「友人に裏切られた。」のではなく「知人に裏切られた。」のであり、「友人と思っていたけれども、知人、即ち顔見知りに過ぎなかった。残念だ。」というわけです。
聖書を読んで行きましょう。 1章10節 1:10 今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。「まことのブドウの木」に連なる者にもやがて死の時は訪れますが、キリストの福音は、死の先に至る永遠の命が与えられることを宣言しています。11節はこの福音を述べ伝えることこそがパウロ自身に与えられている光栄に満ちた使命だとの自覚です。12節13節 1:12 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。自分の信頼している方、これは「知人」ではありません。「友人です」絶対に裏切ること無い「友人」です。13 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。
本日は、「信頼しています」という説教題でお話ししていますが、「信仰」という言葉が出てきました。私たちはキリスト教の信仰を持っています。あるいは信仰へと招かれています。それでは「信仰」とは何でしょうか?いつもの様に辞書を引いてみました。信仰とは、「神・仏など、ある神聖なものを信じたっとぶこと。そのかたく信ずる心。」とありました。また別の辞書には「1.キリスト教神学的には、神の存在と啓示を真実として信じる事。2.神や仏などを信じること。また、ある宗教を信じて、その教えをよりどころとすること。3.人やものごとを信用・信頼すること。4.証拠抜きで確信を持つこと。またそれらを信じることを正当化する要因。」幅広い意味で用いられます。それではあなたの「信仰」でありその中身はなんでしょうか? 「毎日聖書を読み祈ることです。」 大切です。「礼拝に出席することです。」大切です。「教会の為にお金や時間や奉仕をささげることです。」大切です。実は聖書には「信仰」という言葉がたくさん出てきます。いくつかをお読みしてみますからご自分の「信仰」を思いながら聞いていただくとよろしいでしょう。最初にマタイによる福音書です。主は「私たちの思い悩み」に対して「信仰の薄いものたち」とおっしゃいます。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」  「信仰の薄い者たちよ!」主はこの様におっしゃるのです。
長患いに苦しむ女性に対してです。十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。その時におっしゃいました。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
弟子たちと一緒に舟に乗りガリラヤ湖を渡っていた時です。突然の嵐にうろたえる弟子たちに、イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
わたしたちが危機に瀕した時、あるいは苦しみや悲しみの中にある時、主イエスへの信頼が問われます。主イエスが私たちをいつも愛していてくださることへの信頼です。
パウロは、私たちが罪赦されて正しいものと見なしていただき、救いに入れていただく条件は「信仰」だけだと言います。彼の手紙には、当然ながら「信仰」という言葉がたくさん出てきます。ローマの信徒への手紙からです。・福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終りまで信仰を通してあらわされるのです。「正しい者は信仰によって生いきる」と書いてあるとおりです。・このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。・実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。・希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
現在はお休みしていますが、六日町教会の「聖書に聞き、祈る会」でご一緒に読み進めてきました「ヘブライ人への手紙」です。11章は11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。 この様に語り始め、旧約聖書に登場する人達に受け継がれた信仰の歴史をたどります。後ほど、11章を開けていただきたいと思います。
本日は若い伝道者テモテへの手紙Ⅱを読んでいますので、Ⅰからいくつかみ言葉を聴きましょう。・わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。・金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦かいを立派に戦かい抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。・その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。恵があなたがたと共にあるように。この様に聖書は、主イエスを信頼して歩む人生、即ち信仰を持っての人生について多くを語っています。
それでは私たちはどうすれば良いのでしょうか? パウロは語ります。1章13節14節です。13 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。14 あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。 私たちがどの様な日々、どの様な人生を過ごすことを、神様は望まれているのでしょうか? 一人一人異なりますが、それは神様が喜ばれ、自分も喜び、同時に隣人も喜ぶものに違いありません。
ところで、私は夏の終わりはあまり好きになれません。夕方が早くなり赤とんぼが飛び始めるのに夏休みの宿題が終わっていないトラウマからです。先ほど、週報にマタイによる福音書25章31~46節を記して、私の心の疼きのおすそ分けをしましたが、さらに夏の終わりと言えば宿題です。二つおすそ分けしましょう。
1. 「知人」と「友人」の違いは、お互いの信頼関係の深さに求めることが出来ると申しました。主イエスはあなたの事を「友」と呼び愛し続けていてくださっています。それではあなたにとって、主イエスは単なる「知人」なのでしょうか、それとも「友人」なのでしょうか? 
2. 「友人と思っていたけれども、知人、即ち顔見知りに過ぎなかった。残念だ。」と裏切られた時のお話しをしました。
それでは、壊れた友人との関係はどの様にしたら回復できるのでしょうか?暦の上では立秋も過ぎました。秋の夜長も間近です。真のブドウの木、主イエスの愛に思いを馳せながら考え、そして祈りの時を持っていただきたいと思います。祈りましょう。