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山形六日町教会

2020年8月16日

聖書:箴言18章24節 ヨハネによる福音書15章14~15節
「わたしの友」波多野保夫牧師

暑さもいよいよ本番と言ったところでしょうか。連日猛暑が続いています。コロナ対策でマスクをする機会が多くなっていますので、熱中症にも十分注意していただき、ご一緒に礼拝の時を持って行きたいと思います。しかし、体調に不安を覚えられた際には、自宅に留まり時を覚えて祈っていただきたいと思います。聖書は 3:1 何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。(コヘレト 3:1)この様に述べています。コロナの影響で集合しての礼拝を中断しました4月以来、六日町教会のFacebookで礼拝の中継を続けています。また、リクエストしていただければ、当日の説教原稿をお送りしたいと思います。
さて、先ほど読んでいただいた聖書箇所は旧約聖書と新約聖書を合わせて3節だけです。特に暑さを意識してのことではありません。短いのですが語られている中身は深く濃いものがあります。 説教題を「わたしの友」としました。ところでみなさんは友達を何人くらいお持ちでしょうか。幼いころにいつも一緒に遊んだ竹馬の友、同窓会で20年ぶり30年ぶりにあった友、毎年年賀状だけは欠かさない友。あるいは、職場の友人、俳句会や同人誌での友人。ゴルフやテニスなどもあるでしょうし、飲み友達もいるかも知れません。私の父の時代には戦友と言うのもありましたが、いわゆる平和が75年程続く日本ではもはや極めて少ないことでしょう。しかし、今年は開催されませんでしたが、甲子園で共に戦った戦友と言うのはあるでしょう。
友達あるいは友人には、一つの目標を共有していっしょに頑張ったり、競ったり戦った仲間。あるいはある時期に、時間と空間と目標を共有した仲間。こんな意味合いがあるのではないでしょうか。友達を大切にするべきことは多くの人が語っています。それでは聖書はどの様に言っているのでしょうか?これが本日のテーマですが、先週に続いての聖書箇所であり「わたしはまことのブドウの木」と言うみ言葉を踏まえて語られたのです。
先週の振り返りから始めましょう。15章1節以下です。15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。この様に主に招かれて礼拝に出席している私たち、あるいは様々な事情から出席が叶わないものの、教会の事、礼拝の事を思い祈りを共にしている方たち。主イエスにつながっており、豊かに実を結ぶことが約束されています。まだ、洗礼を受けるに至らない方々とも、是非主につながる豊かな人生をご一緒したいと思います。
先週は「あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」このみ言葉に注目しました。15章6節にはさらに厳しく 15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 この様に語られています。これは、脅しの文句ではありません。幸せな人生を保証し促す言葉です。「主イエスに従うかつての情熱が冷めてしまい、教会にもいかなくなった。」この様に語る一人の青年の話を紹介しました。彼の話を暖炉の前で静かに聞いた老牧師は火箸を取って勢い良く燃える薪を暖炉の脇に置いたのです。やがて、熱も光も発しなくなり消炭(けしずみ)となった薪ですが、老牧師がその消炭を火箸でもって暖炉に戻すと、再び炎と光と熱を放ち、元気に燃えだしました。この青年は教会に戻り、生き生きとした生活を取り戻したそうです。再びまことのブドウの木につながったのです。もう一つお話ししたのは、まだ主の福音を知らない人についてでした。大勢います。家族や友人の中にもいらっしゃるでしょう。その方々の為に、主は再臨の時、即ち終末における裁きの時を待っていてくださる。ペトロの手紙Ⅱは次の様に言います。 3章8節9節です。 3:8 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。私たちはこのみ言葉に神様の大いなる愛のご計画を見ると共に、主につながっている教会と私たちに委ねられている責任を聞きました。主イエスは、神の国の広がりをまず弟子たちに伝え委ねられました。そして聖霊を送り教会を立てられました。
現在、米沢教会と山形六日町教会が主の教会として立てられている理由は、この様に集う私たちが「まことのブドウの木」につながって幸せな人生を歩むことだけにとどまらないのです。御国の為に働く。「みこころの天になる如く、地にもなさせたまへ。」この主の祈りを真剣に祈ることから始める私たちです。信仰は分け与えることで減ってしまうのではなく、増えるのだと申し上げました。全ての伝道の業は祈ることから始まります。主に仕える喜びの人生を大勢の方とご一緒したいと思います。そして、12節 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
少し後の17節でも繰り返されます。15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。「主イエス・キリストにつながっている」とは、言い換えれば「神様を愛すること」です。その典型的な表現が礼拝をしっかりと守ることであり、それが叶わないのであれば、その時を覚えて祈ることです。さらに、「互いに愛し合う」とは、隣びとを愛する事です。いつも「神様と自分と隣人を愛する」と言っています。 波多野先生、「自分を愛すること」が欠けているじゃないですか? 良い指摘です。自分を愛すること、自分を大切にすること。実はその最高の方法が「ブドウの木」につながっている事なのです。

さて、本日与えられました15章14節15節。15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。主が命じられることは「神と自分と隣人を愛する」ことに違いありません。15節には「わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。」とありますが、僕とは奴隷のことです。ローマ帝国時代には、戦争に敗れた捕虜や借金が返せなくなった者が奴隷にさせられました。律法は50年目、ヨベルの年の奴隷解放を命じていますが、ユダヤも基本的には奴隷社会だったのです。
パウロは、この世の思いに囚われる者を「罪の奴隷」と呼び、キリストの奴隷となる幸せを述べています。これは「まことのブドウの木」につながり、「神と自分と隣人を愛する」幸せな人生のことを指しています。いずれにしろ主人は奴隷の行動を完全に支配し命令しますが、その意味や理由を明らかにすることはありません。服従だけを求め、少しでも逆らえば罰を与えました。ここで主はおっしゃるのです。「あなたは奴隷ではなく友なのだ!」
最初に、皆さん何人の友達がいますか? とお尋ねしました。どんな人が思い浮かんだのでしょうか? 神様はアダムを創造された後に 「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2:18)とおっしゃってエバを創造されたのですが、この夫婦が最初に行ったことは、園の中央の木から果実を採って食べ、その責任逃れをすることでした。「原罪」と呼ばれます。そんな人間ですが、本来お互いに助け合うべきパートナーが夫婦であり、友人なのです。
旧約聖書箴言は「友」に関してたくさん語っています。週報に記しました。私たちの友人関係の一面を鋭く突いています。いくつかをお読みしましょう。3:28 出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな あなたが今持っているなら。16:28 暴言をはく者はいさかいを起こさせる。陰口は友情を裂く。17:17 どのようなときにも、友を愛すれば  苦難のときの兄弟が生まれる。17:9 愛を求める人は罪を覆う。前言を翻す者は友情を裂く。19:4 財産は友の数を増す。弱者は友から引き離される。19:6 高貴な人の好意を求める者は多い。贈物をする人にはだれでも友になる。26:18 分別を失った者が、火矢を、死の矢を射る。19 友人を欺く者はそれに等しい。しかも、「ふざけただけではないか」と言う。27:17 鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。友人との関係を思い浮かべながら、後ほど読んで見てください。
ヨハネ福音書15章13節です。 15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。アルファー・コースでニッキー牧師はマキシミリアン・コルベ神父を紹介しました。1941年アウシュビッツ捕虜収容所での出来事です。脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死の刑に処せられることになり、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人が選ばれたのですが、彼は「私には妻子がいる」と泣き叫びだしました。この時コルベ神父が「私を彼の身代わりにしてください、妻も子もいませんから。」と申し出て交代が認められました。通常、餓死の刑に処せられると錯乱状態で死ぬのだそうですが、神父は他の9人を励まし牢内からは祈りと賛美の歌声が響き渡り、餓死室はさながら聖堂のようだった。この様に伝えられています。コルベ神父の取った行動は、単なるヒューマニズムを越えたものです。牢内から祈りと讃美の歌声が響き渡っていたのです。彼は信仰によって、主イエスが歩まれた道をたどり、おおきな愛を示したのです。
本日与えられました15章14節15節。に戻りましょう。15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。14節が伝えます、主が私の友となってくださる条件を、先ほど「わたしの命じることを行う」すなわち「神と自分と隣人を愛する」ことだと申しました。身代わりとなって餓死室に送られるほどまで隣人を愛さなければならないとしたら・・・。こう考えると、 「神父さんは独身だから出来たんだ。」「アウシュビッツと言う特殊な環境だから。」「自分には出来ない。だからナチスの再来が権力を持たない様に戦うのだ。」 様々な言い訳が頭をよぎります。
しかし、パウロはローマの信徒への手紙で次の様に述べるのです。5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
主イエスが私たちの友となってくださる条件がコルベ神父の様に振舞うことであるならば、それは私を含めて多くの人にとって困難なことでしょう。善い行いが救いの前提であり、善い行いを積むことによって神様が正しいものと認めてくださる。「行為義認」と呼ばれますがパウロはそれを強く否定するのです。人の抱える「罪」、すなわち神様に逆らい自分の思いを絶対化する、自己中心な性質は良い行いの積み重ねで克服できるほど軽いものではないのです。
そのためには、全く罪のないみ子の血潮。この血潮で拭い去ることが必須なのです。
聖書の求める善い行いは、救いの条件ではありません。救いの結果です。主に従うことで罪のない者と見なしていただいた、即ち救われた者が、豊かな人生を歩む時に、自然に出てきてしまうものなのです。これは「聖化」と呼ばれ、聖霊の働きによって聖なる者へと「化ける」変えていただくことなのです。
だとしたら、わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。私の命じることとは、「まことのブドウの木」主イエスキリストにどんな時であってもつながっている事、しがみついていることなのです。健やかな時も、病む時もなのです。コルベ神父でなくても良いのです。
私たちは主の僕、即ち奴隷ではありません。この意味を考えてみましょう。こんな経験はないでしょうか? この世の大きな不正や矛盾に気付いた時に「いったい、何であんなひどい事を許しておかれるのだろうか? 正義はどこにあるというんだ。」 この様に神様を非難することは無いでしょうか? その答えの少なくとも一部が、ここにある様に思います。神様は人間を僕やロボットとしてではなく、自由に考え振舞うことを許して下さっています。
ですから、大きな不正や矛盾に対しては自分たちで力を合わせて解決する。もちろん祈りを持って神様により頼むことが必要です。神様を非難する前に、自由を与えてくださっている現実に目を向ける必要があるのではないでしょうか。そしてどんな時にあっても、ブドウの木にしがみつき、隣人を愛することを望んでいらっしゃるのではないでしょうか。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
そうです。私たちは今、聖書を通して神様の御心、「あなたを愛しているよ!」この御心をすべて知るのです。そしてその愛を見失いそうになった時には、あなたの友人、主イエス・キリストであり、信仰の友が必ずあなたの為に祈ってくれます。創世記で神様は「人が独りでいるのは良くない。」とおっしゃいました。
旧約聖書コヘレトの言葉です。4章9節10節。4:9 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。4:10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
私たちは、このあと讃美歌493番1節3節を賛美しますが、2節をお読みします。【 いつくしみ深い 友なるイエスは われらの弱さを 共に負われる。嘆き悲しみを ゆだねて祈り つねに励ましを 受けるうれしさ。 】私たちには、最高の友人、主イエス・キリストがいつも傍にいてくださいます。決して裏切ることなく愛し続けてくださる友人です。さらに、その主に愛されていることを覚えて共に祈り、共に仕える信仰の友がいます。そんな最高の友人たちに囲まれている私たちです。主に感謝することから始め、信仰の友をさらに増やしていく、その喜びの為に祈りを篤くする者でありたいと思います。祈りましょう。