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山形六日町教会

2020年8月9日

聖書:レビ記19章17~18節 ヨハネによる福音書15章9~14節
「わたしはまことのぶどうの木」波多野保夫牧師

昨年から、主日礼拝において「祈るときには」と「気概を示す」、この二つの説教シリーズを並行して進め、少し違った観点から聖書が語ります、福音のみ言葉をご一緒に聞いて来ました。 暑さの増したこの夏の間、暫らくこの二つのテーマを離れてみたいと思います。しかしこの二つのテーマですが、キリストに従う者、即ちクリスチャンにとって祈りの無い生活はあり得ませんし、またクリスチャンの持つ気概、即ち困難の中にあっても、主の愛を信じて従って行くことを欠かせばむなしさだけが残ります。ですから、聖書のみ言葉、即ち「福音」を私たちの生活の中、人生の中で受け止めるのであれば、これら「祈り」と「気概」は必然的に表れてしまうのです。 少し涼しくなってからの両説教シリーズの再開を楽しみにしていただきたいと思います。

さて、本日はヨハネによる福音書15章からみ言葉を聴きますが、13章が洗足の出来事を伝え、19章が十字架の出来事ですから、ヨハネ福音書は一晩の出来事に全21章中の6章を割いています。ご自分が神様の御許に帰られた後を託す弟子たちへの熱い思い、それはそのまま私たちへの熱い思いが凝縮した時間でした。ヨハネはその思いを懸命に伝えようとしているのです。8月第一週の先週は「平和主日礼拝」として13章のみ言葉を聴きました。復習から始めましょう。34節35節。13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。繰り返しますが、主はこの様に弟子たちに語られたその数時間後に逮捕され、翌朝の裁判、そして十字架での死。墓に葬られて3日目の復活、その40日後の昇天。さらに10日後に約束された聖霊が与えられ教会が誕生する。正に激動の嵐の前の静けさ、その中で語られたみ言葉です。互いに愛し合う主の弟子のあつまり、これは正に教会の姿に違いありません。ペンテコステの日に誕生した教会であり、ローマ帝国の迫害を受けながらも発展していった教会であり、今日の米沢教会であり、山形六日町教会の姿です。主の教会に集う者たち、私たちがまず互いに愛し合い、喜んで幸せな人生を歩む。この姿を見て周りの人が、あるいは家族が自分も教会に加わりたくなる。これこそが主の福音の中を生きる喜びを伝えること、すなわち伝道です。教会に集う私たちが喜んでいる姿を示すことは主イエスを指し示すことにつながるのです。いかがでしょうか、みんながこんな幸せな日々、主の大きな恵みと導きを感謝して生きるのであれば、戦争などやっている暇はありません。
使徒パウロは あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜よろこびなさい。(ピリピ人への手紙 4:4)この様に言いますが、クリスチャンにも辛く苦しいことは起こります。それではなぜどんな時にあっても喜んでいることが出来ると言うのでしょうか?
先週は次の様に申しました。「平和」を考えるこの日に、改めて祈りの力を知り祈る者になりたいと思います。「平和」は必ずやってきます。例え悪のはびこる世にあっても、私たちには終わりの日の勝利が約束されているのです。たくさんの黒人霊歌は苦しい日々の中でこの希望をもって作られ伝えられました。終わりの日、即ち終末の日に主に従う者が勝利することは主の約束だからです。先週はこの様に説教を閉じました。
本日の説教題を「私はまことのブドウの木」としましたが、ヨハネ福音書15章は、この有名な言葉から始まっています。8節までをお読みします。聞いてください。15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 パレスチナ地方では古来ブドウの木が身近なものでした。週報に関連するみ言葉のほんの一部を記しましたので、その前後を含めて読んでいただきたいと思います。この山形でも特に南に位置する置賜地方でブドウの栽培が盛んです。私たちにとってもイメージし易い譬えです。
イエス様はブドウの木の幹、父なる神様は手入れをする農夫。当時の弟子たち、そして現代の私たちはブドウの枝。この様に譬えられています。キーワードは「つながる」そして「実を結ぶ」です。2節、主イエスにつながっているのに身を結ばない枝は農夫が剪定して取り除き、実を結ぶ枝に養分が行く様になさる。主につながるとは、主を信頼しその教えに従って人生を歩むことです。しかし、つながっている人は良いとして、そうでない人、主イエスに逆らう人は切り捨てられると言うわけです。何か脅しの様に感じられてしまいます。「俺の言うことを聞くなら褒美をやる」この様に聞こえます。私たちのイメージに合いません。4節。 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。弟子たちは私たちと同じようにブドウの木の幹につながっている枝です。「間もなく私は神様の御許へ帰ることになる。その後、教会の指導者となるお前たちはどんな苦難にあっても私につながっていなさい。私はいつも共にいるのだから。」この様におっしゃったのです。教会の歴史は、この弟子たちが豊かに実を結ぶ者となったことを伝えています。私たちです。私たちは今、主の教会、具体的には山形六日町教会であり、米沢教会を通して主につながっています。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方には、主につながる幸せが教会を通して告げられ、招かれています。5節では繰返しによって強調されます。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。主イエスを離れては何もできないのでしょうか? クリスチャン以外にも社会奉仕に熱心な方、教育に情熱を傾けている方は大勢います。だとしたらこれはクリスチャンの驕り(おごり)なのでしょうか。主の言葉を丁寧に読みましょう。あなたがたは、とあります。問題解決のヒントは、これは十字架の時を前にした主が弟子に向かってかたられた言葉だということです。ですから信仰を持たない人に語られたのではありません。信仰の有無に関わらず社会に歓迎され喜ばれる仕事をなさる方は多くいらっしゃいます。それでは、そこに何か差が有るのでしょうか? コロナ対策のマスクを信仰を持った方と、まだキリストの愛を知ることの無い方が作ったとしたらどうでしょうか?クリスチャンはマスクを届ける喜びを感じながら作業に励むことでしょうが、信仰を持たない方も一生懸命に作ることでしょう。両者の品質に差はないでしょう。そうです。主は信仰のあるなしを比較しているのではないのです。キリストの許へと招かれている私、でありあなたは主イエス・キリストにつながっていることで、どんな時でも、日照りの日でも、おそらくは大雨の日でも、豊かな実を結ぶことが出来るのだとおっしゃるのです。しかし、6節。6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。ここで、また私たちの博愛主義が疼(うず)きます。「わたしにつながっていないと」と弟子たちに言われますが、2つの解釈が可能です。
一つは、かつて信仰を持っていたのだが現在は冷めてしまったという方。実は先ほどCSの礼拝でお話ししました。マタイ福音書13章にあります「種まきの譬え」です。パレスチナの農夫はお相撲さんが塩を蒔くように種まきをしましたから、道端に落ちた種は鳥が食べてしまい、石だらけの土地ではすぐ芽を出すのですが根がないので日が昇るとすぐ枯れてしまいました。茨の中ではすぐに日が当たらなくなります。信仰が芽吹かなかったり、少しの困難で捨て去ったり、他のものに関心を奪われたり。この世の思いが勝ってしまい、主イエスにつながっていないからなのです。良い土地に落ちた種、心を柔らかくしてみ言葉を受け入れ、主につながっている人は、神様の豊かな恵みを受けて100倍の実を結ぶのです。
アルファーコースでニッキー牧師は信仰が冷めてしまった青年の話を紹介しました。暖炉の前で老牧師に「主イエスに従うかつての情熱が冷めて教会にもいかなくなった。」と話す青年の話を黙って聞いていた牧師は、火箸で赤々と燃える暖炉の薪を挟んで脇に置きました。暫くすると薪は消し炭の様に、炎も光も発しなくなりました。牧師はその消し炭の様な薪を暖炉に戻しました。すると、再び炎と光と熱を放ち、元気に燃えだしました。この青年は教会に戻り、生き生きとした生活を取り戻したそうです。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。 直接的には弟子たちに語られた言葉ですから、主を裏切ったイスカリオテのユダはその代表でしょう。私たちクリスチャンにとっては、主イエス・キリストだけが頭である教会に連なる恵みを強調した言葉と読むことが出来ます。
二つ目は、終末を前提にして読み解くのです。主につながっていない人、福音を知らない人は、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。というわけです。終末において、主イエスが再び地上に来られて裁きが行われる。最後の審判と呼ばれ、全ての悪が滅ぼされる時に、主に従う者は神の国に招かれることが保証されています。
それでは、信仰に至らない人、至らなかった人は 集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう という脅しなのでしょうか? 暫らく疑問のまま置いて先にすすみます。7節。 7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
説教シリーズ「祈る時には」でいつも申し上げて来ました。「祈りは聞かれる」です。「主イエス・キリストの名によって・アーメン。」この様に祈る時、主のみ言葉であり聖霊が私たちの心に住んでくださっています。「祈りは聞かれる」のです。いつも言います様に、願いがそのまま聞き届けられることも有れば、願った以上のものが与えられることも有ります。最も相応しいものが与えられます。祈ること自体は何を祈ってもかまいません。私は「触った物を金にしてください。」この様に祈りかねませんが、これが叶えられたら、そんな不孝なことは無いですね。神様は私の貧しい、貪欲な、あるいは自己中心の思いを越えて一番良いものをくださるのです。
8節。8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。私たちが主の弟子となり、幸せな人生を歩むようになることでなぜ父なる神様が栄光をお受けになるのでしょうか? ここには、先ほど6節。6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 ここでお話しした終末の問題が関係しています。いつ、主イエスが再び来られて裁きをし、この世の悪を完全に滅ぼしてくださるのか。イエス様は その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。この様におっしゃっていたのですが、パウロも含めて初代教会の人たちはクリスチャンに対するユダヤ人やローマ帝国の迫害が増す中、終末の時はさほど遠くないと考えて待ち焦がれていました。この終末の時はそれから2000年もの時が経った今もまだ来ていません。この世は悪が支配しているのではないかとさえ思われる2020年ですが、まだ終末は来ていません。神学者は「終末の遅れの問題」と呼びます。
ペトロの手紙Ⅱ 3章8節9節です。 3:8 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。そうです。先ほど答えを保留してきたヨハネ福音書15章6節の語る問題点。信仰に至らない人、すなわち 6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。この様なことが起きない様に、神様は裁きの時、終末の時を待っていてくださるのだと言うのです。
これもいつも申し上げています。ここにあります分厚い聖書ですが、書いてあることはただ一つ。神様が私たちを愛して下さっていること。そしてさらにさらに深く愛したくてしょうがない方だということです。「罪」は人を不幸にしかしません。ですから聖なる方は、その「罪」をいい加減になさらないのです。大いなる愛を持ってみ子を私たちに与え、十字架によって「罪」を清算して下さった上に、従う者に永遠の命を約束してくださっています。それだけではありません。まだ信仰に至らない人のために終末の時を待っていてくださる。だとしたら、神様に愛されている私たち、まことのブドウの木につながっている私たちはどうするのでしょうか? そうです、「罪」赦され大いなる恵みの中を歩む私たちは、大いなる喜び、すなわち主の福音を周りの人に届けるのです。これが伝道です。本日の聖書箇所、15章9節以下をゆっくりお読みしますので聞いてください。15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。最初に先週の聖書箇所ヨハネ福音書13章34節をお読みしました。13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 でした。15章12節と同じ言葉です。この「互いに愛し合いなさい」と言う言葉で囲まれた最も重要なこと。それが「まことのブドウの木」主イエスにつながっている事なのです。その時私たちは幸せに満たされその喜びの姿が周囲に伝わっていく。真の平和はここから始まるのです。祈りましょう。