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山形六日町教会

2020年8月2日

聖書:創世記12章1~3節 ヨハネによる福音書13章34~35節
「平和を実現する人たち」波多野保夫牧師

山形六日町教会では毎年8月第一主の日の礼拝を平和主日礼拝としてまもっています。1945年・昭和20年8月15日、連合国軍に対する日本の降伏が国民に公表され、4年間の太平洋戦争が終わりました。それに先立ちます8月6日は広島に、9日には長崎に原子爆弾が投下され、多くの方が亡くなられたり、現在に至るまで後遺症に苦しまれています。
本日は説教シリーズ「祈るときには」の19回目として、ご一緒に平和について聖書の語るみ言葉を聞いて参りたいと思います。しかし、終戦の日から既に75年が経過しており、その苦しみを直接体験として持っていらっしゃる方は既に80歳以上になっていらっしゃることでしょう。もちろん戦後の物資の無い生活苦の時代がありました。私の母はその時代を経験していましたから、ものを捨てることが出来ずにデパートの包装紙をきれいにたたんで取っていたことが思い出されます。私は、戦後の第一次ベビーブーム世代ですから、もちろん生まれた当初、両親は食糧確保に苦労したのでしょうが、1950年には、朝鮮戦争が始まり空前の好景気となりましたので、戦後の苦しい時期の記憶はありません。1970年・昭和45年に北山修が作詞し、杉田二郎が作曲した『戦争を知らない子供たち』というフォークソングがヒットしましたが、私はまさに「戦争を知らずにそだった」ある意味で「平和ボケ」世代の人間です。ましてや、今の若い人にとって太平洋戦争は、おじいさんおばあさん、ひいおじいさんひいおばあさんの遠い過去の出来事なのでしょう。しかしそれでは若い人に戦争が無縁なのかと言えば、「受験戦争」であり「情報戦争」や「価格戦争」「交通戦争」など厳しい戦いがあります。しかし、「交通戦争」を別にすれば、人を殺さないじゃないか、太平洋戦争とは別物だと言われるかも知れません。確かに「テロとの戦争」などは逆にテロを撲滅するための戦いです。それでは、戦争とは何でしょうか。辞書には 1.軍隊と軍隊とが兵器を用いて争うこと。特に、国家が他国に対し、自己の目的を達するために武力を行使する闘争状態。国際法上は、宣戦布告により発生し、当事国間に戦時国際法が適用される。2.激しい競争や混乱。 このようにあります。なぜ人類はその歴史の始まりから戦争をし続けてきているのかと言えば、自分の属する集団が他の集団に対して優位に立つため。あるいは自分の目的を達成するためなのでしょう。戦争では、勝利によって何かを得る為に武力や能力を使うわけです。ある人が、大国同士は核戦争を起こしにくいと言いました。理由は相手を徹底的にやっつけてすべてが破壊尽くまで止まらない。破壊しつくせば得る物が何もないからだそうです。しかし、それで安心していられるかと言えば、お互いに相手が先制攻撃を仕掛けてこないか疑心暗鬼になることは起こります。ですから主イエスがユダの裏切りによって逮捕される際、おっしゃった言葉「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」この言葉はいつの時代にあってもどのような状況にあっても真実なのです。歴史的には、武器を取っての軍事力による戦争に対して、冷たい戦争・冷戦が第二次世界大戦終結からソ連崩壊まで40年以上に渡って続きました。超大国が直接軍隊を用いて戦うことは無かったのですが、緊張状態が長きに渡って継続し多くの人を苦しめたのです。さらに、現代においては軍備拡張競争が行われている一方で、目に見えない戦争として、電子戦争が言われています。日常の生活に関わるほとんどのものがコンピューターで制御されているのが現代です。それをひそかに乗っ取れば、経済や生活に大打撃を与えたり支配したりできると言うわけです。残念ながら宗教戦争もありました。他宗教との争いだけでなく、キリスト教の宗派間での戦争も歴史上記録されています。
終戦記念日が近いことから戦争について考えをめぐらしてきましたが、ここからが本題の「平和」です。後にご一緒に戦争責任告白を告白しますが、主にある「平和」を深く知る意味においてもご一緒に告白したいと思います。
さて、旧約聖書ではシャロームと言うヘブライ語が「平和」と訳されています。コヘレトの言葉3章は  何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 この様に語り始め8節では  愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。と述べます。さらにゼカリヤ書 9章10節で神様はイスラエルの民におっしゃいます。10: わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。 旧約聖書の時代から現代に至るまで私たちの願う「平和」は御心にかなうことで実現するものなのです。しかし、旧約聖書においては神様がイスラエルの民をエコヒイキしている様に思える場面も少なくありません。異教の神、偶像礼拝をする人を征服しその土地を奪い取るだけでなく、皆殺しにする様に述べられている場面も登場します。当時は略奪であったり、戦いの敗者を戦争奴隷として働かせたり売り買いすることは、少なくとも中東地域において、一般的な事でした。
民主主義教育を受けて育った私たちは、「神様は、なぜイスラエルだけに恵みを与えられる不平等の事をなさったのだろうか。」この様に言って神様を非難するかも知れません。 この問いに対しては、それが神様のご計画だった。まずイスラエルの人々が「罪を悔い改め」主に立ち返り主の恵みの中を喜んで生きる者となる。次にそのイスラエルの人々に倣って全世界の民が主を知る者となる。このご計画だったのです。しかし、おおいなる恵みの中に置かれたにもかかわらず、なおも神様に従おうとしないイスラエルの民に対して、エレミアなど預言者は厳しく警告を与えるのです。その一方で預言者は、メシヤ・救い主を与えられるとの御心をも伝えたのです。
私たちは今、旧約聖書を通してこの神様のご計画の全てを知ります。新約聖書を通して、主の十字架の出来事によって、かつては異教の神のもとに有った私たちも、今や明確に神様の愛の中に置かれていることを知ります。さらに教会に働かれ、私たちの心の中に住んでくださる聖霊によって、神様の愛を目の当たりし、心に感じるのです。
さて、新約聖書では、エイレネー(ειρήνη)と言うギリシャ語が「平和」と翻訳されています。主イエスは山上の説教で 平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。この様に教えられました。マタイ福音書5章9節です。ここでいう「平和」は、いわゆる争いの無い穏やかな状態と捉えて良いでしょう。画家のミレーが描きました「晩鐘」と言う絵画が思い起こされます。農夫夫妻が夕映えの中、遠くから聞こえてくる教会の鐘の音を聞きながら、一日の仕事を終えて祈りをささげている姿を描いています。決して豊かではないのですが、感謝と喜びに満ちた祈りの言葉が聞こえてくるようです。静かな平和への喜びと感謝が伝わってきます。 しかし、パウロはローマの信徒の手紙でこの様に語っています。5章1節2節です。5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
「主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」と語るのです。少し見方を変えてみれば、主イエス・キリストが私と神様の間にいらっしゃらなければ、戦争状態だということになります。これは神様が預言者エレミヤを通してイスラエルの人に告げられた警告であり、現代に生きる私たちが神様に立ち返らないのであれば、神様の怒りをまともに受け止めなければならないことを意味します。全てを創造なさり、全てをご存知の神様は聖なる方ですから、そのご命令、即ち十戒を始めとする全ての律法に逆らうことは許されません。 殺すな。盗むな。殺人者がうろうろし、窃盗犯がいっぱいいる町で幸せは得られません。姦淫するな。一時の快楽に溺れるのならば、やがて家庭は崩壊し幸せは得られないでしょう。 神様のお考えに逆らうことを聖書は「罪」と呼びますから、神様は「罪」に対して厳しい方なのです。なぜでしょうか? 一部の借金業者の様に与えた恵みの代価を厳しく取り立てるためではありません。神様のお考え、私たちを愛して止まない神様のお考えに従って生きることが私たちにとって一番幸せだからこそ、罪に対して大変厳しい方なのです。
さて、それでは神様に愛されながらもなお逆らい続ける人間はどうすればよいのでしょうか? どうすれば神様が用意してくださっている幸せな人生を歩むことができるのでしょうか?
旧約聖書の時代、それは律法を守ることでした。これは十戒の内7つ守れば70点で合格ではありません。幸せな人生を歩んで欲しい神様は100点を求められます。実は歴史上合格した人は一人だけ、主イエスだけでした。そこで、聖なる神様、「罪」をいい加減になさらない神様はどうなさったのでしょうか? いくつかの方法があったと思います。 一つ目。「罪」を犯し続ける人間を全て滅ぼしてしまい、新しいアダムとエバを創造されること。二つ目。人の自由意思を奪い取り、神様に逆らうことをしないロボットにしてしまうこと。そして三つ目が、一人の代表者に全人間の「罪」を負わせることで清算すること。 私たちが知っている通り、2000年前に三つ目の方法を取られたのです。なぜでしょうか? 旧約聖書の世界で、イスラエルの人をエコヒイキされた方は、今度は全人類にはっきりとその愛を示されたということです。み子イエス・キリストを与えられるほどに、私たちを愛してくださることをハッキリと示されたのです。そして、その愛は現在もまた将来も変わることが絶対にありません。不確実性の時代、現代にあってこの事だけは確かなのです。この事実を教会は「福音」と呼ぶのです。神様は主イエス・キリストに従うと言うことだけをもって、私たちの「罪」を赦し、それだけではなく永遠の命、神様の御許での喜びに満ちた、真の平和に満たされた将来を約束してくださっているのです。
最初に読んでいただいた創世記12章はアブラハムに与えられた神様の約束が記されています。3節に 地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。この様にあります。アブラハムの信仰は息子イサクからヤコブに、時代が下ってダビデ王から主イエス・キリストへと受け継がれました。そしてアブラハムの信仰は主が与えてくださった聖霊によって立てられている教会へと受け継がれ現代の教会に、山形六日町教会に、米沢教会に至るのです。ですから洗礼を受け教会に連なる私たちは主の祝福に与るのであり、洗礼をまだ受けてらっしゃらない方は主の祝福を受けとる者へと招かれているのです。
さてそんな恵みの中に置かれている私たちです。今日、平和主日にあって、何が求められているのでしょうか。なにを神様は喜んで下さるのでしょうか。 平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。と主はおっしゃるのです。それでは私たちは何をすれば良いのでしょうか? 何をすることを神様はもとめられているのか、あなたに私に期待してらっしゃるのでしょうか?外交官として平和の実現のために労してらっしゃる方、警察官としてテロ戦争と戦ってらっしゃる方、あるいは世界的なテロの原因の一つにあげられている貧困と戦っている方、平和運動に身を投じる方など様々です。しかし、あなたに、そして私に神様は何を求めていらっしゃるのでしょうか?考えていただきたいと思います。
以前申しあげました。神様は一人一人、それぞれに使命を与えてらっしゃいます。家族のために尽くす使命、自分の仕事を誠実に行うことを改革派の人たちは神様の使命を果たす大切な働きと考えました。社会の重荷を様々に負っていく、いのちの電話での奉仕や募金活動やチャリティー活動もあります。そして教会のために時間や才能やお金をささげる。様々な平和運動に加わる。平和の実現には様々な働きが必要です。
「平和」の実現のためには様々な働きが必要ですし、それらを誠実に行うことを神様は喜んで下さるに違いありません。
しかし、先ほど申しました。新約聖書の語る「平和」は戦争が無い状態だけでは不十分です。神様との「平和」を回復すること」が絶対に必要です。
ヨハネによる福音書13章は、十字架の時を前にした前の晩の出来事を伝えます。最後の晩餐を共にされた後、弟子たちの足を洗われた洗足の出来事。そしてユダが主を裏切るために部屋から立ち去った後、自分が去った後を託す弟子たちへの主の遺言と言って良いでしょう。
13章34節。 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うこと、これこそが「平和」の極意です。35節。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。
50日後のペンテコステの日に聖霊を受けた弟子たちは教会の指導者になり、主の福音を語り伝えました。彼らが教会に伝えた主イエスの言葉や出来事を編纂したのが4つの福音書です。ですからこのみ言葉は、主の教会に集う者たち、私たちがまず互いに愛し合うことを命じます。私たちを見て周りの人が、主イエスの弟子は喜びの中を幸せな人生を歩むのだと知る様になるからです。それを見て自分も教会に加わりたくなる。喜びの姿を持って主イエスを指し示す。これが伝道です。いつも主の導きに信頼し、恵みを感謝し、喜びに生きることが出来る。それが教会でありクリスチャンの人生です。
歴史的な事実がそれを示しています。主イエスはローマの総督ポンテオ・ピラトによって十字架に架けられました。しかし、復活された主は約束通り弟子たちの許に聖霊を送られ教会が誕生しました。互いに愛し合い喜びに満たされた教会に多くの人が加わりました。主が共におられることが明らかだったからです。教会は発展していきました。しかし、教会が力を付けるのに連れてローマ帝国の迫害も激しくなっていきました。そんな困難の中にあっても、初代教会の人々は互いに愛し合うことを止めません。賛美と祈りを共にし続けました。キリストの福音はローマ帝国内にますます広まって行きました。それにつれて、迫害も激しさを増したのです。
しかし、313年大きな転換を迎えました。ローマ皇帝コンスタンチヌスは教会を公認するに至り、そして380年にキリスト教はローマ帝国の国の宗教になったのです。教会に集う者たちが互いに愛し合うことで、教会の迫害者ローマ帝国も主の福音を知り、互いに愛し合う者へと変えられたのです。これが初代教会のたどった歴史です。
本日は説教シリーズ「祈るときには」の19回目ですが、祈りに触れられて無いではないか! とおっしゃるかも知れません。大丈夫です。「罪」を抱えた者同士がお互いに愛し合う。これは、聖霊の助けを求める祈り無くしては不可能です。いつもお勧めしている祈りです。「あの嫌な波多野が神様に近づきます様に。アーメン。」 この祈りです。敵の為、嫌な、あるいは苦手な者の為に祈る。これが互いに愛し合うためには不可欠です。「平和」を考えるこの日に、改めて祈りの力を知り祈る者になりたいと思います。「平和」は必ずやってきます。悪のはびこる世にあっても、私たちには終わりの日の勝利が約束されているからです。ここに私たちは希望を持って祈ることが出来るのです。祈りましょう。