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山形六日町教会

2020年7月26日

聖書:箴言31章10~31節 コリントの信徒への手紙Ⅰ14章33~34節
「有能な妻」波多野保夫牧師

先週に続き説教シリーズ「気概を示す」です。先週のヒロインはヨブの妻でしたが、聖書に残されている彼女の一言は「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」でした。夫のヨブがサタンの試みにあって子供たちや財産を失った時です。 1:20 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。21 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」22 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。さらにサタンの試みは続き、全身が重い皮膚病に侵されてもなお「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。のです。このヨブを見て「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言い放った彼女の評判が悪いのは当然でしょう。
さらに、「人生の教師」に2種類あることをお話ししました。「ああいう人みたいに成りたい」と思わせるひとたち、シュバイツァーやリンカーンの名を上げました。そしてもう一種類の「人生の教師」はいわゆる反面教師。「ああはなりたくない。ああなってはいけない。」この様に思わせる人物です。私は「波多野先生!」と呼ばれるとドキッとします。しかし、そんな私にできること。それは「主イエス・キリストを指し示すこと」そして、「主イエス・キリストのみ名によっておささげします。アーメン」。この様に祈ることです。私たちを愛して止まない、私の罪を負って十字架の死を遂げてまで愛して止まない方だけが完ぺきな「人生の教師」だと申し上げ、私たちが決断を下さなければならないとき、困難にある時「イエス様ならばどの様に考え、どの様に行動なさるのか?」この様に問うことが人生の最高のマニュアルだと申し上げました。
「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」こんな言葉が聖書に書き留められてしまったヨブの妻です。彼女は旧約聖書の登場人物ですから、主イエス・キリストの愛を知りませんでした。私たちはこの点で大変有利な状態にあります。新約聖書が語ってくれるからです。チョット気の毒に思える彼女ですが、「ヨブの信仰を知った上で苦しみからの解放を願っての発言だ。」この様な見方が有ることも紹介しました。どちらの判断が正しいのか、それは主がお決めになることなのです。

さて、本日は旧約聖書「箴言」からみ言葉を聴きますが、箴言とは、教訓とか格言と言う意味で、1章1節に、1:1 イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。とあり、旧約聖書一番の知恵者ソロモン王が語った格言を集めたものとあります。現代の聖書神学は、尊敬すべき人の名前を付けることは普通に行われていたので、当時の格言が編纂されたものだと言います。その編纂基準は明らかです。1章7節 1:7 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。 「主を畏れること」この畏れると言う意味は、怖がることではありません。辞書によれば「何かを本当に尊い、力のあるものだと思い、その前で礼儀を失わないように控えめにする。」とありますが、「神様の前で謙虚さを保ちその愛を信頼して従うこと。」でしょう。これは、現代人に強く求められており、幸せな人生へのキーワードに違いありません。
聖書が語ります「主を畏れる」という言葉を拾って週報に記しておきました。出来れば聖書を開いてその前後箇所も読んでください。必ずや聖書の豊かさに触れることができます。
本日のヒロインは箴言31章10節にあります「有能な妻」です。ヨブの妻の対極にいる様に思えますが、この格言集箴言は最後の部分、いわばまとめの部分で「有能な妻」について語るのです。
順に読んで行きましょう。13節 彼女は、洋裁の達人です。14節。当時は凶作が頻発しましたから飢餓への準備をしていたのでしょう。15節。相撲部屋のおかみさんを思いました。使用人を含めての大家族を朝早く起きて切り盛りしていました。16節18節。夜遅くまで帳簿をしっかり付けて、ブドウ作りのビジネスを切り盛りしていました。パレスチナの事ですからワインも醸造していたのでしょうか。機織りをして家族に冬にそなえた暖かい着物を準備し、困っている人に施しをする。夫は地方の名士の上に、城門で座についている。当時城壁に囲まれた都市の門は、市議会であり裁判所でした。その妻である彼女も高貴な人の着る紫の衣を着ていたのです。24節では織物を商人に卸していました。そんな彼女は家族から称賛されており、夫は言うのです。29節 「有能な女は多いが あなたはなお、そのすべてにまさる」と。疲れて来たかも知れません。一旦、この辺で止まってみましょう。
女性にお尋ねします。「これは正に私の事だ」「私はかつてこうだった」。あるいは「あの人にピッタリの表現だ」。一歩譲って「少しは当てはまる所が有る」。この様に思われた方は手を上げてみてください。男性に「あなたの奥さんはこの様ですか?」と問うのは止めておきましょう。まあ、若い人が「いつかはこういう奥さんを」と思うのは良いことですが。実は神学者たちは、男性が多いのですが、彼らの多くは、箴言は実在の婦人の姿ではなく、理想化された婦人像だと言っています。ですから安心していただきたいと思います。10節の前にある小見出しに「有能な妻」とありますが、その下のかっこに(アルファベットによる詩)とあります。詩編や哀歌の中にも“アルファベットによる詩”が多くあります。ヘブライ語のアルファベット22音で始まる言葉が順に並べられている詩です。こんなことからも、聖書神学者は実在の人物ではなく、理想の家庭婦人像を歌ったのだと言うのでしょう。この様な格言作者の思いを越えて、あるいはそんな思いをも用いて神様は私たちに御心を伝えられるのです。先週は私たちの日本基督教団信仰告白の冒頭部分をご紹介しました。「旧新約聖書は、神の霊感、即ち聖霊によって書かれ、キリストを証しする。」と告白します。
今日は、テモテへの手紙Ⅱ 3章16節をご紹介します。 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 語呂合わせの詩をも用いて聖書は神様の御心を伝えてくださるのです。安心して聖書を読み進めましょう。箴言31章10節に 有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を。とあります。本日の説教題を「有能な妻」としました。確かに先ほど13節以下を順に読んで行きましたが、本当に彼女は「有能な妻」でした。しかし、この「有能な」と翻訳されているハイル(חַ֭יִל)と言うヘブライ語は大変広い意味を持っています。最近発売された聖書協会共同訳聖書は、私たちの新共同訳聖書と同じ「有能な」ですが、口語訳聖書では「賢い」でしたし、新改訳聖書は「しっかりした」です。ハイルは他にも「高貴な」とか「気高い」など広い意味を持ったヘブライ語なのです。実はこのハイルと言う言葉は旧約聖書に4つしか使われていません。この箴言31章10節と29節の他には、12章の4節に12:4 有能な妻は夫の冠。恥をもたらす妻は夫の骨の腐れ。この様にあります。今日の聖書箇所を縮めた様な聖書箇所です。
さて、問題はもう一か所。この「気概を示す」シリーズの第6回で読みましたルツ記、その3章11節でやがてルツと結婚することになるボアズの言葉です。3:10 ボアズは言った。「わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。3:11 わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします。この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている。 「立派な婦人」がハイルです。
一方、異教の国出身のルツは、困難の中にあっても主なる神を信じて歩むことを止めない姑(しゅうとめ)ナオミの生活を支える為に、落穂ひろいに精を出す日々を送っていました。ボアズと結婚しオベドの母となるのは後の事です。ちなみにオベドの孫がダビデ王であり、主イエスへとつながっていきます。そこに神様のご計画を見ることができます。主を信じる者となりなお大いなる困難の中に置かれながらもナオミのために一生懸命尽くすルツ。彼女はハイル、即ち先ほど箴言が語る「有能な妻」と同じだと言うのです。二人の境遇は全く違います。ルツは貧困の極みにあります姑を、自分自身もやもめでありながら、他人の畑で落穂ひろいをすることによって懸命に支えていました。一方の箴言が語る「有能な妻」は家を切り盛りし、事業を発展させ、夫の社会的な地位にふさわしくあったのです。先ほど紹介したヘブライ語「ハイル」の持ちますいくつもの意味「有能な」「賢い」「しっかりした」「高貴な」「気高い」、これら全てがあてはまる理想の女性像です。
それでは、聖書が二人とも「ハイル」だと証言する共通点は何でしょうか?30節、31節。31:30 あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる。31 彼女にその手の実りを報いよ。その業を町の城門でたたえよ。この様に格言集「箴言」は閉じられています。
私はこの説教を準備する際に、次の主のみ言葉が思い起こされました。山上の説教の一節です。 野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。(マタイ福音書6:28-30)
もう一つ思いました。黙示録には天国の入り口にある門が描かれており、またマタイ福音書では主がペトロに「天の国の鍵を授ける」とおっしゃっています。ここから先は聖書には書かれていない、いわば迷信なのですが、死後全ての人はこの門のところでどの様な生涯を送って来たのかをペトロに問われると言うのです。もちろんクリスチャンが門の中に入れていただけることは確約されています。信仰に至らなかった方のために私たちが祈ることは許されています。そんな、入り口の門です。その業を町の城門でたたえよ。わたしはこの女性は町の城門では、その業・行いが称えられましたが、天国の門ではその信仰が称えられたに違いないと思えたのです。なぜでしょうか? 30節に 主を畏れる女こそ、たたえられる。 この様にあります。彼女は「主を畏れる者」だったのです。ルツ、彼女も姑ナオミを通して与えられた主への信仰によって、「主を畏れる者」だったのです。

最初にこの箴言の冒頭部分1章7節をお読みしました。 1:7 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。様々な格言を通して、人生の折々に様々なヒントを与えてくれる箴言ですが、一番言いたいことは「主を畏れる」こと、すなわち「神様の前で謙虚さを保ちその愛を信頼して従うこと」であり、それこそが私たちの人生を豊かにする最高の秘訣だということです。

さて、今日箴言を通して学んできたことの応用問題として、コリントの信徒への手紙Ⅰ 14章を読んでいただきました。パウロは、女性は教会で黙っていなさいと語っています。現代においてもこの言葉を根拠として女性教職を認めない教団がある一方、日本基督教団では女性の教職が力強くみ言葉を語り牧会に力を発揮しています。聖書の言葉は2000年前、3000年前の人々に神様のお考えを理解できるように伝え、悔い改めて神様に立ち返るために書かれました。ですから、私たちはそこに語られている神様の愛、恵みであり戒めであり勧めを現代において再解釈する必要があります。その解釈の基準が信仰告白なのです。そして説教はその基準に従って聖書を読み解くのです。ですからいつも申し上げています様に、牧師が信仰告白から外れた説教をした場合、長老会は最終的には牧師を辞めさせなければなりません。
さてコリントの町がありましたギリシアの伝統では、公衆の場で女性が語ることはさげすまれていましたし、未成熟なコリントの教会には話好きの女性が多く、礼拝での態度が身についていなかったのでしょう。現にパウロは11章で、礼拝のなかで女性が祈ったり、預言をすることを奨励しています。預言とは神様のお考えを伝えることですから、これは現代の説教でしょう。主を畏れる女性が教会で主に仕え、そして素晴らしい恵みの道を歩むことは、現代においても当然なのです。
最後に聖書を2か所お読みします。共に女性は黙っていなさいと語ったパウロの言葉です。エフェソの信徒への手紙3章26節から28節。3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。エフェソの信徒への手紙 5章21節キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。そうです。女性も男性も「主を畏れ」愛をもって主と隣人に仕えるのです。祈りましょう。