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山形六日町教会

2020年7月19日

聖書:ヨブ記2章6~10節 ヨハネの黙示録2章18~21節
「ヨブの妻は言った」波多野保夫牧師

説教シリーズ「気概を示す」の12回目です。聖書に登場する女性たちの見せた気概、即ち彼女たちが見せた信仰に裏付けられた困難に屈しない姿を通して、2000年後、3000年後の世界に住む私たちの信仰を見つめ直して来ました。 2月9日に始まりましたこの説教シリーズ、第一回目は全くの偶然からペルシャの王妃となりましたエステルの物語でした。「神」とか「主」とかいう言葉が一度も出てこないエステル記は、逆に異教の地にあってなお全能の神に信頼を寄せて苦境を乗り越えたエステルの姿をくっきりと浮かび上がらせるものでした。ある日の井戸端でなされた主イエスとサマリアの女の会話、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」この様におっしゃる主イエス。 女は言いました。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」 人目を忍んで暑い真昼間に水を汲みに来なければならないこの女性に、主は福音の真理を示されました。
旧約聖書で一番人気の女性ルツ、レプタ2枚をささげたやもめ、山内一豊の妻を彷彿とさせるナバルの妻アビガエル。そして前回、前々回は主イエスの母マリアでした。天使ガブリエルの告げた未婚の彼女が主イエスの母になるとの預言は、彼女の理解を越えた不都合なことでしたが、神様への深い信頼が揺らぐことは有りません。想像を超える神様のなさる不思議の数々、彼女はそれらの「出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた。」のです。
私たちは「なぜ?」との疑問を持つことがしばしばあります。最近ではコロナウィルスであり、自然災害であり私たちの理解を越えた残念なことがしばしば起こります。神様のなさることを心に納めて思いめぐらすことは、今日の私たちにとって大切です。当日の週報にイエズス会の創始者イグナチオ・デ・ロヨラが日々実践した「良心の糾明(きゅうめい)」を記し、また今月の月報にも同じものを掲載しました。神様の御心を聴きとる訓練です。試みていただいたでしょうか? 必ずや今日という一日が、2020年の196番目の日、あるいは連続した時間の中の単なる24時間として過ぎて行くのではなく、神様の恵みに満ちた、もっと正確には恵みの内に生かしていただく一日だと知ることでしょう。まだの方は試していただきたいと思います。

さて、山口長老にヨブ記を読んでいただきました。本日のヒロインは2章9節に一言だけ彼女の言葉が記されている「ヨブの妻」なのですが、ヨブ記全体を見ることから始めましょう。1章1節は 1:1 ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。と語り始めています。彼は東の国一番の富豪であったのですが、13節以降、彼の畑が略奪され牧童たちが切り殺されることから始まり、雷に打たれて羊や羊飼いは焼け死んでしまい、さらにらくだが奪われ牧童たちが殺されてしまったとの知らせがもたらされました。
1:18 彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。19 すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
大切な子供たちとほとんどの財産を失ったのです。ヨブ記が語るそもそもの始まりは、神様とサタンの会話でした。神様が信仰深いヨブについて語るのに対して、サタンは「それはあなたが大きな恵みを与えてらっしゃるからで、それが無くなれば面と向かってあなたを呪うに違いありません。」この様に言います。「大きな恵みをいただいているから神様に従っているだけなのだ。」というサタンの主張です。読む度に、それでは私はどうなのかとの思いが湧きます。
12節に神様の言葉があります。1:12 主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。 神様はヨブの信仰に篤い信頼を寄せて、サタンにヨブを試みることを許されました。
ヨブの物語はこの様にして始まるのです。古来、このヨブ記は義人の苦難、すなわち正しい人がなぜ苦しみに遭うのかを問います。これは現代の私たちにとっても大きな課題です。なんであの人が? あるいは、なんで私がこんな目に? そのようなことが起きるからです。
ヨブ記1章20節以下です。 1:20 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。21 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」22 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。この辺で私は気が重くなります。私なら神様を非難していると思うからです。サタンの試みはエスカレートします。2章7節8節。2:7 サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。8 ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。当時、重い皮膚病は社会的な死を意味していたのですが、この段になってもヨブの神様への信頼は揺らぎません。「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった のです。

ここでいよいよ今日のヒロイン、ヨブの妻の登場なのですが、先にヨブの物語の筋を追って行きましょう。彼の悲惨な状況を伝え聞いた3人の友人が訪ねてきます。重い皮膚病の友を訪ねることは当時にあっては大変勇気のいることでした。しかし、彼らはヨブに言うのです。「この様な目にあったのはお前が罪を犯した報いなのだ!」身に覚えの無いヨブとの長い論争は険悪なものになっていくのです。3人の友人の後ろにサタンがいるようにさえ感じられます。
さらに筋を追えば、32章で登場したエリフと言う若者は、ヨブが高慢だから神様が答えてくださらないのだとさらに攻めるのです。
38章1節は 38:1 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。と始まります。神様が直接ヨブに話しかけられます。そして、「自分は罪を犯していない、神様に逆らうことをしていないにも関わらず、なぜ苦難に合うのか分からない。」この様に言い張るヨブに語られるのです。
お前はわたしが定めたことを否定し 自分を無罪とするために わたしを有罪とさえするのか。ヨブ記40章8節です。不満を覚えた時に お前はわたしが定めたことを否定し 自分を無罪とするために わたしを有罪とさえするのか。 と神様に問われたら皆さんいかがでしょうか? ヨブはここで気づいたのです。全てが神様の支配、神様のご計画のもとにあることを。そして、自分が罪を犯していないにもかかわらず苦難にあったことの理不尽さを主張し続けたことが、思い上がりであったことを悟ったのです。彼は既に正解を口にしていたにも関わらず、結局は思い上がっていたことを悟ったのです。先ほどお読みした2章10節、ヨブの言葉です。
「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」これは、苦難の時にあっても揺らぐことの無い神様の愛への信頼の言葉ですが、それにもかかわらず自分を正当化して神様の非を見つけようとするヨブです。これでは悪魔に、「ヨブは神様から大きな恵みをいただいているから従っているのだ。」この様に言われてしまいます。
ヨブと同じように私たちも苦難を味わう者です。理不尽な苦難もあるでしょう。しかし、私たちはヨブよりもはるかに有利な立場にあることを確認しておきましょう。私たちはヨブと違って、最も理不尽な苦難を味わわれた方、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事が私たちの為であり、神様の変わることの無い愛の印であり証しなのだと知っているのです。
ヨブの物語は、悔い改めに至ったヨブに家族と財産を以前に増して回復されたことを記して終わっています。ヨブ記を読み終えた時、ホッとした安らぎを覚える結末です。一つだけ注意しておきますと、「ヨブの物語」と申しました。ある方が、「物語」って何だか“造り物”の様な感じがしてしまうと言われました。確かに、聖書はダビデ王の詩や、パウロやペトロやヨハネの手紙、ルカが聞き集めて書いた福音書などからなっています。人間が書きました。しかし、大切な点があります。それは全て「聖霊の導きによって書かれた。」ということです。日本基督教団信仰告白がその冒頭で、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り,キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。」この様に告白します。「神の霊感によりて成り」とは聖霊が人の手を用いて書かれたのだとの告白です。聖書は神の言葉です。安心してください。

さて、本日のヒロイン、ヨブの妻に戻りましょう。2章9節に彼女は 「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言った。とあります。
このヨブ記には彼女の事がこの他に2回述べられています。19章16節以下に重い皮膚病に苦しむ彼の嘆きが語られています。19:16 僕を呼んでも答えず わたしが彼に憐れみを乞わなければならない。17 息は妻に嫌われ 子供にも憎まれる。18 幼子もわたしを拒み わたしが立ち上がると背を向ける。 彼女を含めた周囲の人の冷たい態度です。
31章9節以下ではヨブが3人の友人に自分の身の潔白を主張する際に触れられますが、そこにお互いの愛情を感じることは出来ません。いずれにしろ彼女は、ヨブに向かって「神を呪って、死ね」と言うのです。
神様はサタンにヨブの命に手を付けることを禁じられたのですが、妻はヨブが自分で命を放棄する様に勧めるのです。
彼女はサタンの仲間なのでしょうか? 確かに教会の歴史の中で最大の神学者と呼ばれます、アウグスティヌスは「悪魔の共犯者」、カトリック教会で聖人とされていますクリマコスは「悪魔の最良のむち」と呼び、私たち改革長老教会の教理の柱を築いた宗教改革者カルヴァンは「サタンの手先」と呼んでいます。悪女の典型というわけです。
私は常日頃、私たちはそれぞれ長所と短所を持っており、それらは近い所にあると思っています。ただしその比率は人によって異なり、私は短所の方が目立ちます。でも、捜していただければその近くに長所があるのでしょう。神様は我慢しながら用いてくださっていることを感謝しています。
さらに思うことは、教師には2種類ありそれぞれが役立つと言うことです。「立派な人だ、ああなりたい。」子供の頃、シュバイツアーやリンカーンの伝記を読みました。もう一つは「反面教師」です。「ああなってはいけない、ああいうことをするのは最低だ。」と気づきを与えます。この意味で私も良い先生になれます。
さて、このヨブの妻です。ユダヤ人の家庭ですから、神様に感謝しながら何不自由なく日々を送ってきたのですが、突然子供たちと全財産を失いました。夫のヨブと共に嘆き悲しんだことでしょう。そんな時に重い皮膚病を発症した夫のヨブは、灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしりながら 「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようなのんきなことを言っているのです。彼女の口をついて出た言葉は「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」でした。
過去において大きな困難や悲しみを経験なさった方もおいででしょう。社会にはびこる不正や悲しみに憤ったこともおありでしょう。
そんな時あなたは、ヨブだったのでしょうか? それともヨブの妻だったのでしょうか? 思い起こしてみてください。
私たちは聖霊の招きを受けて共に集い、こうして礼拝を守っています。集うことが許されない方も礼拝の時を覚え祈りを共にして下さっています。
私の場合は、残念ながらヨブではありませんでした。しかし、多くの場合ヨブの妻でもなかったのだと思います。まあ、こういうと少し立派過ぎるかも知れません。要するに、神様を疑わずに従い通したのでもなければ、神様を呪うこともできませんでした。
しかし、ただ一つ。祈りを持ったことは事実です。先週お話しした「主イエス・キリストのみ名によっておささげします。アーメン」この祈りです。
主イエス・キリストは人類の歴史の中で最大の理不尽な経験をなさった方です。神様に逆らうこと、即ち罪を全く犯されなかったにも関わらず、私たちの罪の責任を取ってくださった方です。
「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」というのではなく。神の呪いを受けて、死んでくださった方です。
山形六日町教会では今、講壇に置かれた聖書をみんなで順に読むリレー通読を続けています。創世記から始め、ヨシュア記を終えて士師記に入りましたが、聖書を読み進めますと理解に苦しむところに出会います。説教で紐解きます箇所は限られていますから、聖書を読むコツをお伝えしたいと思います。それは「主イエス・キリストの愛、十字架で示された愛を前提として読み解く」のです。なぜならそれが、聖書の著者たちを導かれた神様の御心だからです。
この「主イエス・キリストの愛、十字架で示された愛を前提として読み解く」戦略は、実は聖書を読み解く時に有効なだけではありません。
私たちの人生において経験する様々な出来事を読み解く際にも極めて有効なのです。必ずや私たちはそこに神様の愛を見出すはずです。将来への希望を見出すはずです。
先ほど、アウグスティヌスを始めとします信仰の先輩たちがヨブの妻を「悪魔の手先」として非難していたことをお話ししました。しかし、ユダヤ教の世界での評価は少し違うのです。彼女は「どこまで無垢でいるのですか。」とヨブに言いますが、2章3節で神様は「ヨブは無垢で正しい人、彼はどこまでも無垢だ」この様にサタンに向かってヨブの信仰を誉めているのです。
ですから、彼女はヨブの深い信仰を理解した上で、あまりの苦しみからの解放を願ったと言うのです。
最初に山口長老に読んでいただいたヨハネの黙示録で、神様は女預言者イゼベルを激しく非難されました。人を惑わし誤った行動をとらせるからです。
先ほど私たちの持つ長所・短所と教師・反面教師の話をしました。私たちも、ヨブの妻もイゼベルも全ての人は同じでしょう、誤った行動や判断と無縁ではあり得ません、一人の例外を除いては。
どんな時にあっても変わることなく私たちを愛していてくださる方、神様の御心に従って正しく歩まれる方、主イエス・キリストです。ですから、決断を迫られる時、迷った時、苦しみの中にある時、「イエス様ならどうなさるのだろうか?」一旦立ち止ってこの様に考え、そして祈ること、これこそが人生の最良のマニュアルなのです。主イエスに従う豊かな人生をこの週もご一緒に歩んで参りましょう。祈ります。