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山形六日町教会

2020年7月12日

聖書:列王記下20章1~6節 マルコによる福音書9章25~29節
「祈りによらなければ」波多野保夫牧師

先週は熊本地方に始まり、その後各地に降り続いた豪雨によって大きな災害に見舞われました。次々と映し出される被災地の映像に、自然の猛威を前にして人間の無力さを知らされるものでありました。災害に遭われた方々のために慰めと平安を祈りたいと思います。

さて、説教シリーズ「祈るときには」の18回目になりました。少し振り返ってみますと、5月17日第16回では、主の祈りの一節「御心の天に成るごとく地にもなさせ給え」を、5月31日ペンテコステ礼拝では同じく主の祈りから「み国を来らせ給え、御心の天に成るごとく地にもなさせ給へ」についてみ言葉を聴きました。イエス様が弟子たちに「祈るときには、こう祈りなさい。」と教えられた主の祈りです。教会の祈りとして2000年間祈り継がれて来ました。
前回、17回は6月21日でしたが、私たちの祈りに必ず表れるものの、主の祈りにはない言葉、「この祈りを主イエス・キリストのみ名を通してお捧げします。アーメン」あるいは「主キリストによって。アーメン。」 この言葉に注目しました。これは、聖霊を受けて誕生した教会が、主から受けた福音の姿を徐々に整えていく際に、聖霊によって与えられた言葉なのでしょう。 私たちの祈り、即ち神様との対話を閉じるに極めて相応しい言葉です。ヨハネによる福音書14章6節7節をお読みしました。イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 私たちは主イエス・キリストによってのみ、父なる神様を正しく知ることが出来ます。神様が聖なる方であると同時に私たちを愛してくださる方、私たちを愛したくてしょうがない方だと知ることが出来ます。
祈りは神様との対話だと申しました。私たち日頃の会話を考えてみてください。聞きとりにくかったり聞き違いもあります。それを防ぐ、おそらくは唯一の手段、それが主イエス・キリストを通しての神様との対話です。ヨハネ福音書はまた次の様に語ります。  いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(1:18)
私たちの祈りの言葉は、呼びかけと頌栄の言葉を除けば、「ありがとう」「ごめんなさい」「お願いします」すなわち、「感謝」「罪の告白と赦し」「願い」です。そして、心を静かに神様が語ってくださるその答えを聞くのです。「この祈りを主イエス・キリストのみ名を通してお捧げします。アーメン」 この様に祈りを閉じる時、罪の故に生じている神様との断絶、ご自身が十字架を担うことで贖ってくださった方、主イエス・キリストが神様と私たちの間を執り成してくださる事実をあらためて思い起こすのです。必ずや神様はみ子に従う私たちの祈りを聞いてくださいます。答えてくださいます。これは確かです。ただし、いつも申し上げますが、私たちが願った言葉のままに聞き届けてくださるのではありません。そんな危険なことはなさいません。私たちは、「触った物は何でも金にしてください。」すなわち「何でも望んだ言葉の通り実現してください。」 この様に願う性質を持っています。全てが思い通りになることで感じる幸せはすぐに過ぎ去ってしまいます。神様は私たちが願ったよりもさらに善いものを相応しい時に下さるのです。子供が1000円を欲しがった時に、すぐにお財布から出してわたすことと、1回100円の約束で10回お手伝いをしての1000円。どちらが幸せでしょうか?はい、1000円あげる。まあ、私もこのようにもらってみたいとは思いますが、それに慣れたら何の喜びもないでしょうし、欲望は1万円、10万円と際限ないものになります。「触った物は何でも金になる」としたらそれは悲劇ですね。ただし、このお手伝いの譬えはチョット不正確です。神様は私たちが善い行いをしたご褒美として善いものをくださるのではありません。一方的な恵みとしてくださいます。最初に神様は私たちを「愛したくてしょうがない」方だと申し上げた通りです。「主キリストによって。アーメン」この言葉で閉じる祈りは恵みを約束してくれる祈りなのです。
さて、司会の細矢長老にマルコによる福音書9章25節以下を読んでいただきましたが、この9章は最初に、主がペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて高い山にのぼられた話から始まっています。3人は山の上で主イエスが聖なる権威ある方であることを知る不思議な体験をしました。 そして14節以下には「汚れた霊にとりつかれた子をいやす」との小見出しが付けられています。 4人が山から帰った時のことです。残っていた9人の弟子と人々が議論をしていました。9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」現代医学では「てんかん」と診断されるのでしょう。突然、脳が興奮状態になり様々な症状を示すそうです。古代エジプトではミイラを作る必要からか解剖学的知見を持っていたそうですし、薬草なども知られていました。2000年前の、外科的な知識は、福音書記者ルカが外科医だったことからも、相応のレベルであったことでしょう。しかし、ほとんどの病気は悪霊によるものとされていましたし、まして、脳の興奮状態によるてんかんや、あるいは精神的な病は典型的な悪霊によるものと考えられていました。 25節以下節です。9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。27 イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
主イエスは当時の人々が理解できる言葉を用いてご自分の権威を示されたのですが、いかがでしょうか? 私たち現代人には大変非科学的に感じられるのではないでしょうか? 聖書には私たちの科学的なセンスからして非科学的なこと、いわゆる奇跡の話がたくさん出てきます。カナの婚礼で水を最高級のぶどう酒に変えられた最初の奇跡に始まり、嵐を静め、5000人の空腹を満たし、目の見えない人に光を与える。そして何よりもご自身が十字架での死から3日目に復活された。聖書は多くの奇跡を語ります。
「“復讐するのではなく敵を愛しなさい。”という教えは本当に素晴らしいけど、非科学的な奇跡はいただけない。」キリスト教の信仰を持つのに妨げになる方がいらっしゃるのも事実です。
そもそも主エスが多くの奇跡をおこなわれた理由は、ご自分が救い主、メシヤであることを人々が知って従う者となり、神様の光の中を歩む幸せな人生を取り戻すためでした。しかし、5000人の給食を受けた人々の多くは神様に立ち返るのではなく、さらなる即物的な利益を求めたのです。
ヨハネ福音書6章30節 6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 彼らはこの様に言ってさらなるパン、すなわち自分たちの要求が満たされることを求めたのです。主イエスの答えです。 6:35「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」 主が数々の奇跡をおこなわれたその目的は、ご自分がメシヤだと知り神様に立ち返って永遠の命にいたる幸せな人生を歩むことでした。十字架を前にしてヘロデの前に引き出された時のことです。23:8 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。(ルカ福音書) 自分の身を守るために奇跡をおこなわれることはありませんでした。

今日与えられた聖句に戻りましょう。マルコ福音書9章28節29節。9: 28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。イエス様がペトロ達3人を連れて山に行かれた際、残った弟子たちは悪霊を追い出して子供のてんかんを治してあげようとしたのですが、できなかったので、この様な質問をしました。「波多野先生、イエス様はこの世に「真の神」であり、同時に「真の人」として来られたのだから、私たちの常識を超えた事をなさっても不思議じゃないと思います。だけど、それが弟子たちにできないのは当然じゃないですか?」 良い質問です。しかし、マルコ福音書6章には「十二人を派遣する」との小見出しがあり、自分が去った後を託す弟子たちを訓練されました。7節そして12節13節です。7 十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授けられました。 12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。 この時、彼らは多くの病人を癒すことが出来たのですが、本日の聖書箇所9章14節以下では、てんかんの子供を癒すことが出来なかったのです。なぜでしょうか? それは、両方の違いに注目すれば明らかでしょう。悪霊を追い出すことが出来るか、できないかですが、これは当時の人々が理解できる表現を用いられたのであり、その本質は「祈りによって病気を治せるかどうか」の問題です。主イエスが権能を与えられた時には直せたのですが、弟子たちだけの力では治せなかったのです。
本日の聖書箇所9章29節で、主は「この種の病は、祈りによらなければ決して癒すことが出来ない」とおっしゃるのです。このみ言葉を“逆さ読み”してみれば、「祈りによって直すことが出来る」となります。いかがでしょうか?当然この祈りは「この祈りを主イエス・キリストのみ名を通してお捧げします。アーメン」この言葉で閉じられる祈り、イエス様の権威により頼む祈りです。まず聖書の言葉です。週報に記しておきました。ヤコブの手紙5章14,15節をお読みします。5:14 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。 祈りによって癒しが与えられる。主イエスは癒しが与えられるには祈りが必要だとおっしゃるのです。現代において、体調がすぐれない時、病気にかかった時には医者に診てもらい、適切な検査にもとづいて薬や手術などの治療を受けます。てんかんも基本的には抗てんかん薬での治療が試みられます。最近、以前難病、あるいは不治の病と言われていた病気からの生還者が増えている様に思われます。現代医学の急速な進歩によります。
それでは、現代において癒しを願う祈りはもう必要ないのでしょうか? あるいは、癒しの力は2000年前の12弟子だけに与えられたのでしょうか? 先に答えを言えば、医学、薬学を始めとする科学の発達した現代においても、祈りの力は有効ですし必要です。 現代医学によって治癒率が飛躍的に上がっていることは事実ですが、コロナウィルスの出来事によって人間の力の限界を知らされたことも又事実です。以前、「エホバの証人輸血拒否事件」と言うのがありました。エホバの証人は、三位一体の神を認めない異端の新興宗教団体ですが、聖書にあります「血を避けるように」との言葉を絶対視して、子供に輸血を拒否した事件です。現代医学を拒否する必要はありません。いや積極的に用いるべきでしょう。なぜなら、全てを創造された神様が、自然の仕組みのほんの一部を優れた医者や薬の研究者たちに明かされたのが現代医学であり薬学だからです。神様は現代において癒しの奇跡を現代医学を用いてなされるのです。しかし、現代医学を絶対視するのも正しくありません。直すことが出来ない病気はたくさんあります。さらに、輸血についても、C型肝炎やAIDSが良く知られていなかった時代には、残念なことにそれによって感染が広まってしまったそうです。私たちは常に謙虚であらねばなりません。私は六日町教会に赴任する前にアメリカの教会でインターンとして研鑽の時を与えていただきました。その際に、Healing Service 癒しの礼拝とでも訳すのでしょうか、病や痛み苦しみを癒していただくことを中心にした礼拝を経験しました。聖書のみ言葉を解き明かす説教や賛美に続いて、小さいグループに分かれて癒しを求める人の話をよく聞きます。そして、特別に祈りの訓練を受けた人が、頭痛が去らない人や四十肩に悩む人の患部に、その方の許可を得てから手を置いて、主の御業を称え、そして癒しが与えられるように祈ります。その前に牧師は必ず現代医学によって診察してもらうことを勧めます。なぜなら神様は癒しの多くを現代医学を用いてなされるからです。しかし、現代医学を越えたものも絶対に存在するのです。もう一つ、癒しを祈る時にお金を要求することがあったら注意する様に述べます。現に「治らないのはささげものが足りないからです。」などと平気でお金をせびる輩もいるからです。私はそこで、主を信頼し癒しを祈ることの素晴らしさを味わう者でありました。しかし、御利益としての癒しを売り物にする新興宗教が多い今日の日本において、癒しの礼拝をおこなうことは誤解を招く恐れが多分にあります。その様な誤解は主イエス・キリストのみ名を高めることにはなりません。
ではどうするのでしょうか? ヤコブの手紙5章16節は語ります。5:16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。“正しい人”とは“絶対に正しい方”主イエス・キリストに従う人です。神様が“罪のない人・正しい人”と見なしてくださいます。ですから牧師や長老だけではありません。皆さんのことです。皆さんの祈りには大きな力があるのです。私は、望まれるのであれば「手をおいて」祈ります。皆さんにもできます。「主キリストによって。アーメン」この祈りです。御心ならば、「現代医学を越えた奇跡が与えられるでしょう。週報に長尾牧師の「病む者のため」の祈りを記しました。後ほど味わっていただきたいと思います。 祈りましょう。