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山形六日町教会

2020年6月28日

聖書:詩編34編9~15節 ルカによる福音書1章46~55節
「私は幸せな者です」波多野保夫牧師

説教シリーズ「気概を示す」の10回目です。このシリーズでは、毎回聖書に登場する女性たちが苦難の中で示した神様への信頼、すなわち彼女たちの信仰を見ることで私たちの信仰を見つめ直しています。6月7日の前回は旧約聖書、サムエル記が伝えますダビデとナバルの妻アビガイルの物語でした。裕福ではあるものの理性に欠ける夫ナバルのダビデに対する粗野な振る舞い。それに怒り戦いを挑み滅ぼしてしまおうとするダビデ。この危機を救ったナバルの妻アビガエル。彼女は怒り狂うダビデの前に危険を冒して出て行き、夫の非礼を詫びたのです。ダビデは言いました。25:32「イスラエルの神、主はたたえられよ。主は、今日、あなたをわたしに遣わされた。33 あなたの判断はたたえられ、あなたもたたえられよ。わたしが流血の罪を犯し、自分の手で復讐することを止めてくれた。34 イスラエルの神、主は生きておられる。主は、わたしを引き止め、あなたを災いから守られた。あなたが急いでわたしに会いに来ていなければ、明日の朝の光が射すころには、ナバルに一人の男も残されていなかっただろう。」
ダビデは神様がアビガエルに勇気を与え、復讐に燃える自分を思い留めてくださった事を悟ったのです。神様はアビガエルを用いられたのです。

さて、本日登場するのは新約聖書一番のヒロインと言って良いでしょう。主イエスの母マリアです。先ほど読んでいただいたルカ福音書1章46節以下には「マリアの賛歌」という小見出しが付けられています。1章26節以下で天使ガブリエルが神様からマリアのもとに遣わされて言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」、さらに「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」主イエスを身ごもることを告げる受胎告知の場面です。
「波多野先生、チョット待ってください。これってクリスマスの話ですよね。まだ、半年も先のことです。なんで今なのですか?」 そうですね。真夏のクリスマス。オーストラリアの教会では毎年真夏のクリスマスですが、なんで今頃なのか? 自然な質問です。 二つの理由があります。クリスマスが近くなるとみ子の誕生が中心となることは自然です。大いなる神様のご計画を称える時だからです。実はこの説教シリーズでは、来週とさらに数回、主イエスの母 マリアを取り上げ、聖書に示された彼女の気概、即ち信仰をじっくり見たいと思っているからです。もう一つの理由は、聖書に主イエス・キリストの誕生がヘロデ大王の時代であることは記されていますが、日付はありません。いろいろな説がありますが、古代ローマで冬至の日に祝われていた太陽神ミトラスの祭り、これは冬至の日を境にミトラスが力を得て復活することを祝う祭りだそうですが、その日を借用して12月25日に祝うようになったとの説が有力だそうです。
いずれにしろ、神の独り子主イエスがおとめマリアを通して、真の人としてこの世に来てくださった出来事は、私たちにとって大切な記念日であることに変わりはありません。以前もお話ししましたが、新たに心の中に主イエスをお迎えするのであれば、毎日がクリスマスとなるのです。

さて、マリアに戻りましょう。天使ガブリエルが告げる言葉「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」 マリアは突然現れた天使ガブリエルが神様の使いであることを感じとったことでしょう。幼いころから旧約聖書の語る出来事を学び敬虔な生活を送ってきた彼女です。様々な場面で神様のみ心が伝えられることは知っていました。しかし、彼女はこの言葉の意味が理解できなかったことでしょう。告げられたことの意味を少しずつ理解するとそれは恐怖へと変わっていきました。1章34節 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 ガブリエルの言葉を強く否定したのです。当時のユダヤにおいて、ヨセフと言う婚約者を持ちながら妊娠することは石打の刑に相当する重い犯罪でした。マリアの心は驚きから恐怖へと変わっていったのです。天使の答えです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。神にできないことは何一つない。」 マリアの答えです。1章38節 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。もしそんなことになったら私は石を投げつけられて殺されてします。マリアの大いなる心配に神様への信頼が打勝ちました。彼女の口から洩れた言葉は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」だったのです。彼女のこの変化の原因はどこにあったのか? そしてそれが私たちとどの様にかかわるの? この問いが今日のテーマです。実はこの問いには、根拠があるのです。
主イエスは30歳になって神の国の福音を述べ伝え始められましたが、その宣教の旅でのことです。マタイ福音書11章27節28節。イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」 私たちはもちろんマリアになることは出来ません。しかし、神の言葉を聞き、それを守る幸せな人にはなれます。しかもそれは十戒を始めとする律法を隅から隅まで、一点の欠けもなく守ることによってではないのです。
「神の言葉を聞き、それを守る」 これが私たちの信仰です。ですから先ほど残して来た問い、「マリアの心が恐れから希望へと変化した」原因は彼女の信仰に依ってだった。この答えに導かれます。当時の習慣からマリアは大体15~16歳だっただろうと言われています。その彼女の強い信仰、これは唯一の神に従うことを親から子へ、子から孫へとしっかりと受け継いできた家庭での信仰の継承にあったに違いないのです。しかし、信仰が人々の暮らしに根を下ろし、代々受け継がれてきた点に注目するのであれば、明治時代に日本のプロテスタント教会に信仰が伝えられてから150年程です。信仰の継承は始まったばかりの大きな課題です。この意味に置いて米沢教会も、山形六日町教会も、千歳認定こども園も大切な、しかも光栄ある務めを担っているのです。15歳ほどの、おとめマリアはその信仰の故に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」この告白に至りました。
私たちの山形六日町教会、米沢教会、それだけではありません、日本の多くの教会が、いや世界の多くの教会が女性の大きな働きによって担われている現実があります。私はしばしば教会の様々な重荷を負っていただく際に「恵まれた女よ、おめでとう」。と申し上げています。そうすると皆さん喜んで重荷を担ってくださることに感謝しています。
以前礼拝に広く用いられていた口語約聖書では「恵まれた女よ、おめでとう」と翻訳されていましたが、この新共同訳聖書では「おめでとう、恵まれた方。」です。ギリシャ語原典によれば「おめでとう、恵まれた方。」の方が正確です。口語訳聖書は明らかにそれがマリアに向けて語られているので「恵まれた女よ、おめでとう」と訳したのでしょう。男性にも「おめでとう。」と語りたいと思います。実はこの言葉「おめでとう、恵まれた方。」は全ての人に向かって語られている言葉なのです。マリアほど劇的でないとしても、あなたに、そして私に向かって語られているのです。神様はいつもあなたに向かって語り掛け、そしてそれぞれ一人一人に相応しい務めを与えられるのです。最初にアビガエルの場合をお話ししましたが、この時、マリアに対して告げられた務めは「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」でした。天使ガブリエルは彼女に「おめでとう、恵まれた方」さらに「あなたは神から恵みをいただいた。」この様に告げます。神様が与えてくださる恵み、それは、平穏で幸せな人生、健康、財産、家族友人、名誉名声、優秀な成績などなどが与えられることだけが恵みではないのです。
マリアにとって、婚約相手以外の者の子供を宿すことは死罪に値しました。しかし、それが神の与える恵みだと言うのです。今、私たちは聖書の証言によってそれが大きな大きな恵みであったことを確かに知っています。しかし、私たちは神様の与えてくださる恵みはスケールが大きく、私たちの常識をはるかに超えるものだと知るべきです。そして神様に信頼を寄せる、これが信仰なのです。
先週の礼拝説教の最後に長尾史人(フミト)牧師の『祈祷書』から『苦痛に耐えるため』という祈りを紹介しました。繰り返しましょう。【 父なる神様。主イエスは「あなた方はこの世にある時には悩みが多い。」と語られました。そして、私たちが苦しみに弱いので、「我らを試みにあわせないでください。」と祈るように教えられました。私たち取るに足らない者の弱さを顧みてくださることを感謝します。 おそらく苦しみがなければ、私たちは傲慢に陥って神様のお考えに従うことを忘れ、罪を犯しながら尚あなたの審きを軽んじる者となるのでしょう。しかし、私たちは苦しみの中に置かれれば、あなたの愛を疑い、信仰を棄てる愚かな者であります。どうぞ苦しみの中に、あなたの恩恵を一そう深く見出ださせて下さい。自分の弱さを悟ることによって、深く祈る者とさせて下さい。そして祈ることによって聖霊のお力を受け、「患難をも喜ぶ」信仰に達することが出来るように御助けをお願いします。 主キリストによって。アーメン 】
マリアの示した気概と私たちに求められる気概の姿を結んでくれる祈りではないでしょうか。復活された主が天の父の御許に帰られる際、弟子たちに告げられた言葉です。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。 わたしたちといつも共にいてくださると言う主のお約束、この方に信頼してついていくこと、これこそが私たちの信仰なのです。マリアの信仰、これをうたい上げたのが先ほど市川長老に読んでいただいた「マリアの賛歌」です。親類のエリザベトを訪ねた時の歌ですから、彼女は落ち着きを取り戻し、事態を冷静に受け止めることが出来ました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、 わたしに偉大なことをなさいましたから。「はしため」とは「召使の女性」という意味ですが、「神様にお仕えするへりくだった者」と理解するのが良いでしょう。
その御名は尊く、 その憐れみは代々に限りなく、 主を畏れる者に及びます。御名は神様の全人格、神様の全てを意味します。ですから、貴い方、あなたの憐みすなわち私たちに対する愛は、いつまでも変わることなく、あなたを敬い従う者に注がれます。マリアの信仰告白であり、私たちの信仰告白です。主はその腕で力を振るい、 思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、 身分の低い者を高く上げ、 飢えた人を良い物で満たし、 富める者を空腹のまま追い返されます。 マリアは主への信頼を歌います。ここで主が話されたたとえ話が思い起こされました。マタイ福音書25章31節以下です。「正しい人たちが王に『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。』」と答えるのに対して「王は『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」とおっしゃいます。そして思い上がる人たちは言うのです。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』。王は答えます。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 神様のご計画に素直に従うことで大きなリスクを負ったマリアは傲慢や、反対におじけづくこと、人の目を気にすることとは無縁です。
そして、1章54節以下へとマリアの賛歌は続きます。その僕イスラエルを受け入れて、 憐れみをお忘れになりません、 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」実は ここには時代遅れと言いますか、現代の私たちとのずれがあります。キリストが誕生される以前であり、十字架と復活の出来事の以前であり、聖霊が降り教会が誕生する以前ですから当然なのですが、現代においてこの様に言い直すのが適切です。「私たち主イエス・キリストに従う者を受け入れて、 憐れみをお忘れになりません、 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、 アブラハムとその子孫、ダビデ王、主イエスそして復活の主イエスが約束された聖霊を受けて誕生した主の教会に連なる者に対してとこしえに。アーメン」「恵まれた女よ、おめでとう」ではなく「おめでとう、恵まれた方。」男性も同様ですね。この天使の言葉は、マリアだけではなくあなたに、そして私に向かって今日も語られています。どの様に受け止めるかは本日のテーマでした。
ローマの信徒への手紙8章28節。 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。そうです、私たちは神様に愛され、ご計画に従って召されたもの、呼び集められた者であり、日本の人口の1%に満たない者なのです。ですから、神様は私たち一人一人に「おめでとう、恵まれた方。」と呼びかけ、特別の使命を与えられています。あなたの特別な使命、恵みに満ちた使命を是非はっきりと認識してください。家族のために、将来を担う子供たちのために、コロナウィルスと戦うために。それぞれの者に違いが有ることでしょう。しかし、それら全ては、共に礼拝し、祈り、聖書にみ言葉に接することから始まります。これらを欠いた愛の業は危険です。私たちは『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 このようにお答えするおごり高ぶりの危険と隣り合わせだからです。
週報の裏のページにエフェソの信徒への手紙1章3節以下を記しておきました。今ご一緒に読む時間はありません。後ほどお読みください。大きな重荷を負う中で神の愛を知ったマリアの思いは「私は幸せな者です」との告白でした。本日の説教題としました。私たちもこの思いをもってご一緒に主の大いなるご計画、大いなる愛の中を歩んで参りましょう。 祈ります。