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山形六日町教会

2020年6月21日

聖書:イザヤ書54章7~10節 ヨハネによる福音書14章6~7節
「イエス・キリストは真の神」波多野保夫牧師

説教シリーズ「祈るときには」の17回目になります。前回と前々回は主の祈りにあります「御国を来らせ給え。御心の天になるごとく地にもなさせ給え。」この祈りについて聖書のみ言葉を聴きました。もちろん完全な御国の到来、神様の御支配が地上にもたらされるのは、終末の時、主が再び地上に来られ、裁きを行われる時を待たなければなりませんが、キーワードは教会でした。主イエスの十字架と復活の出来事、そしてペンテコステの日に約束された聖霊が人々に与えられ教会が誕生したこと。この一連の出来事によって、神の国は既に教会において地上に到達しているのです。ですから教会はやがてやって来る終末の時、喜びの時の先駆けです。なぜなら、主イエス・キリストが頭として支配なさる所だからです。もし私たちの教会が人の思いによって支配されるのであれば、何本十字架を立てて飾ってみたところでむなしい装飾に過ぎません。
「御国を来らせ給え。御心の天になるごとく地にもなさせ給え。」世々の教会はこの祈りを祈りつつ、聖霊の助けのもとに、主の福音を宣べ伝えてきたのです。これが伝道であり、私たちは諸先輩の祈りと働きの故に、今こうして共に集い礼拝をまもることが出来るのです。神様のご計画を賛美し感謝したいと思います。
さて、私たちはこの「主の祈り」をひな型として、様々な時に様々な祈りをささげます。賛美の言葉、罪を悔いる言葉、感謝の言葉、そしてお願いの言葉。祈りの三要素は「ごめんなさい」「ありがとう」「お願いします」この3つだといつも申し上げています。
 
さて本日は祈りの言葉の最後にあります、「この祈りを主イエス・キリストのみ名を通してお捧げします。アーメン」「主イエス・キリストのみ名によってお願いします。アーメン」「主キリストによって。アーメン」。この言葉に注目します。 私は、まだかわいかったころに日曜学校の先生から「イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」この様に教えられました。しかし、マタイによる福音書6章6~13節にあります主イエスが教えられた祈りにはこれらの言葉だけでなく、「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。」この賛美・頌栄の言葉もありません。聖霊を受けて発展していった教会が信仰を告白し祈る中で自然に整えられたのです。「アーメン」は「その通りです」「そうであります様に」という意味のヘブライ語です。司式者の祈りの様な公の祈りでは、会衆が同意を表します。個人的な密室の祈りでは、確認の意味を持ちます。
では「主イエス・キリストのみ名を通して」あるいは「み名によって」という言葉はなぜ私たちの祈りにおいて大切なのでしょうか? 
私たちは全てを創造され、全てをご存知の神様、主イエス・キリストの父である神様に祈ります。先ほど祈りの要素は「賛美の言葉、罪を悔いる言葉、感謝の言葉、そしてお願いの言葉。」だと申しましたが、正確にはもう一つ、呼びかけの言葉があります。「天にまします我らの父よ」であり、単に「神様」と言う呼びかけの言葉で始まります。神様はその祈りに答えてくださいます。2つの「いいえ」と2つの「はい」そのどれかで答えてくださいます。「いまはその時ではない。あなたの恵みは十分だ。」二つの「いいえ」です。「やっと祈ったね、分かった。叶えてあげよう」「分かった、しかしあなたの願ったことより素晴らしいものをあげよう。素晴らしくかなえてあげよう。」 いつも申し上げているようにいる様にこの4つで答えてくださいます。
今から4000年も前に、世界最古の携帯電話を最初に使ったのはアブラハムでした。創世記20章17節にある彼の祈りです。それ以来、モーセもダビデもソロモンも、ヨブも、ダニエルも、イザヤを始めとする多くの預言者たちもこの携帯電話を使って神様との対話を絶やしませんでした。 ごめんなさい」「ありがとう」「お願いします」わたしたちと同じ祈りです。
しかし、新約聖書の時代以降、今日の礼拝の時に至るまで旧約聖書の時代とは大きな違いがあります。先日、聖霊の働きについて述べた時にお話ししました。
旧約の時代には、特定の時と場所において特定の人に聖霊が働きました。祈りの携帯電話も一般的ではなかったのです。ペンテコステの日以降、聖霊は教会を通して全ての時に全ての人に働いてくださいます。ですからすべての人に祈りの携帯電話が与えられているのです。ただ使い方が分からない人、せっかく持っているのに十分に使えていない人、与えられていることに気付いていない人、こんな人が大勢います。中には混線して神様以外の声を聴いてしまう人もいるのです。この携帯電話からは、聖書のみ言葉が聞こえてきます。正しく聞くマニュアルが信仰告白であり、説教は聖書のみ言葉を解き明かしてくれます。そしてさらに耳を澄ました時、神様の声が直接聞こえてくるでしょう。「どんな時にも、あなたを愛しているよ!」
 
今日のテーマは、祈りの最後の言葉。「この祈りを主イエス・キリストのみ名を通してお捧げします。アーメン」 この様に祈りを閉じる理由でした。司式の山口長老にヨハネによる福音書14章6節7節を読んでいただきました。 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」主イエスのこの言葉は私たちを神の国へと導くと共に、神様との対話を密度の濃いものにしてくださいます。先ほどの譬えで言えば、主イエスが携帯電話の声をハッキリと聴きとれるようにしてくださるのです。
主イエスを知ることで、父なる神のお考え、「どんな時にも、あなたを愛しているよ!」このお考えが正にこの私に語られていることを知るのです。ヨハネ福音書は  いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(1:18)この様に述べます。
主イエスは「イスラエルの家の失われた羊」すなわち、ユダヤ人たちがまず神様に立ち返ることを求められました。そして「罪の贖いの福音。すなわち、十字架での死によって、主に従う私たちを罪なき者と見なし、神様との正しい関係にある幸せな人生へと招かれる。」この福音の宣教を弟子たちに託され、神様の御許に帰られたのです。世界の人々に福音を伝える伝道の業は、いつの時代にあってもたやすくありません。寒い朝、布団の中でぬくぬくして起きる決断がなかなかつかない経験がおありでしょう。私たちが日常性というぬくぬくしたところから抜け出すこと、本当は「神様に従って生きる幸せ」に気付いていても、その決断は痛みを伴うことでしょう。しかし、それは新鮮な空気を吸って健康に生きるために避けることの出来ない痛みです。ぜひ「この祈りを主イエス・キリストのみ名を通してお捧げします。アーメン」 主の福音を伝えたい友のために、そして自分のために、この様に祈っていただきたいと思います。
弟子たちの伝道の業は大変厳しいものでしたが、彼らは様々な願い事と共に「この祈りを主イエス・キリストのみ名を通してお捧げします。アーメン」 この様に祈ったことでしょう。彼らの祈り、そしてあなたの祈りは主イエスご自身の祈りとなるのです。
もし私たちが罪の赦しを祈らなければならないのだとしたら、「この祈りを主イエス・キリストのみ名を通してお捧げします。アーメン」このように祈ります。その時主イエスは父なる神様に祈ってくださるのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)願い事でしたら、「この祈りを主イエス・キリストのみ名を通してお捧げします。アーメン」このように祈ります。その時主イエスは父なる神様に祈ってくださるのです。ヨハネ福音書14章13節14節。 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。主イエスが共に祈ってくださる。ここに先ほど申し上げた「神様は祈りを必ず聞いて下さり、二つの「いいえ」と、二つの「はい」で答えてくださる」根拠があります。
 
ここで皆さんに質問です。「あなたにとって主イエスとはどういうお方なのですか。」と問われれば、皆さんはなんと答えるのでしょうか?ペンテコステの礼拝でベサニー・ハミルトンさんを紹介しました。彼女はサーファーとしての将来を期待されていたのですが、ある日サメに襲われ左腕の付け根から先を食いちぎられてしまいました。エレミヤ書です。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」 これを聞いた彼女は言いました。「私は、この言葉を信じています。神様は、私の人生の計画を持っておられ、私を愛してくださっています。納得がいかないことが起こっても、すべては神様が最初から計画されたことであり、悪から善を生み出してくださると信じています。」「神様が私を愛して下さり私の生涯を計画の内においてくださっていることは、鮫も持ち去ることは出来ないのです。」恐怖を乗越えて再びプロのサーファーとして海に戻った彼女は言うのです。「サーフィンは、私にとって一番大切なものではありません。イエス様こそが一番大切です。私を前向きにさせてくださるからです。人生には、時に荒波が押し寄せます。見回してみれば、すべての人々の上に、様々な災いが起きています。しかし、私はとても恵まれています。私を励ましてくれる家族や、友人、祈ってくれる教会の友がいますし、なによりも神様との固い絆に支えられています。ですからイエス様が一番大切な方なのです。」 
「あなたにとって主イエスとはどういうお方なのか。」と問われれたら、私は何と答えるのか?  「一番大切な方だ」と答えます。しかし「いつもですか?」と問われると、怪しくなります。キリストが逮捕され十字架に架けられた時の弟子たちがそうでした。皆逃げてしまったのです。しかし、彼らは復活の主にお会いしたことで全く逆の道を歩む者となりました。私も、そして皆さんも主が復活なさったことを知っています。その私が、そしてあなたが問われるのです。物事が願う方向に進んでいる時、順調な時には「一番大切な方」と言うでしょう。しかしすべてが順調で思うがままに進んで行くのだとしたら、それが自分の才覚だとうぬぼれて「一番大切なのは自分」となりそうです。権力、地位、名誉、成績、お金、見た目、すべて悪魔が好んで用い、私たちを神様の愛から離れさせようと誘惑します。私たちはどっちにするのか決断を迫られることが有ります。そんな時、ベストの方法を教えましょう。「イエス様ならどうなさるのか」と考えるのです。そして祈るのです。終わりの言葉は、「この祈りを主イエス・キリストのみ名を通してお捧げします。アーメン」ですね。
最近、多くの教会で集合しての礼拝を休みましたが、休む時の決断に増して再開の決断は大変です。常にリスクが伴うからです。これは責任を負う多くの人がします。会社や地方自治体や国などのトップ、日本基督教団の議長やローマ教皇、俳句やコーラスサークルのリーダーもそうでしょう。その決断が大きな影響を与えるからです。2003年3月23日イラク戦争が始まって最初の日曜日でした。ある牧師はローマの信徒への手紙13章から説教しました。パウロが「全て上に立つ権威に従え」と命じます。この牧師は、「ブッシュ大統領が神様の御心を正しく聴きとり、判断できるように皆で祈ろう。」と説教を閉じました。何時の時代にあっても決断を下す人のために祈ることは大切です。「この祈りを主イエス・キリストのみ名を通してお捧げします。アーメン」このように祈ります。その時主イエスが私たちと共に、父なる神様に祈ってくださるのからです。
私たちが逆境に立たされた時、プロサーファーの道を歩んでいたベサニーがそうでしたが、あなたはどうするのでしょうか? 「主イエスは一番大切な方」であり続けるのでしょうか。
現在、お休みしています木曜日の「聖書に聞き、祈る会」では、月一回ヘブライ人への手紙を1章ずつ書き写し、そして御言葉を聞いています。10章まで来て止まっていますが、12章は厳しく信仰の成長を促します。神様は愛する子供として試練を与え鍛えてくださっているのだと述べます。感謝をして耐えなさいと言うのです。試みの時にあっても、いや試みの時であればこそ「主イエスは一番大切な方」であり続けるのです。確かに主の優しさは表面的な薄っぺらな優しさではありません。厳しさの向こうにある真の優しさです。
これもいつも申し上げています。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)という方はすぐに、私の軛を負って働きなさいと言われるのです。疲れはてた者にとって休みは必要です。しかし、そのままで元の生活に戻ればすぐにまた疲れてしまいます。主の軛を負う時、私たちはほとんどぶら下がっているだけでしょう。重荷のほとんどは主が負ってくださる。それにもかかわらず「良くやった」とほめてくださる。主の重荷を負う喜びを教えてくださるのです。リハビリを終えてこの世の生活へと戻してくださるのです。主の愛を人々に示すため、主と共に生きる素晴らしさを体で表すためです。
5月の月報で、かつて本郷教会を牧された長尾史人(フミト)牧師の『祈祷書』から「災に会った時の祈り」を紹介しましたが、今日は『苦痛に耐えるため』という祈りを紹介したいと思います。口語に訳して読みます。【 父なる神様。主イエスは「あなた方はこの世にある時には悩みが多い。」と語られました。そして、私たちが苦しみに弱いので、「我らを試みにあわせないでください。」と祈るように教えられました。私たち取るに足らない者の弱さを顧みてくださることを感謝します。 おそらく苦しみがなければ、私たちは傲慢に陥って神様のお考えに従うことを忘れ、罪を犯しながら尚あなたの審きを軽んじる者となるのでしょう。しかし、私たちは苦しみの中に置かれれば、あなたの愛を疑い、信仰を棄てる愚かな者であります。どうぞ苦しみの中に、あなたの恩恵を一そう深く見出ださせて下さい。自分の弱さを悟ることによって、深く祈る者とさせて下さい。そして祈ることによって聖霊のお力を受け、「患難をも喜ぶ」信仰に達することが出来るように御助けをお願いします。 主キリストによって。アーメン 】
最初に読んでいただいたイザヤ書54章10節です。  山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。祈りましょう。