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山形六日町教会

2020年6月7日

聖書:サムエル記上25章32~35節 ローマの信徒への手紙12章19節
「罪を犯すのを止めてくれた」波多野保夫牧師

説教シリーズ「気概を示す」の9回目です。聖書に登場する女性たちが苦難の中で示した神様への信頼、すなわち彼女たちの信仰を見ることで私たちの信仰を見つめ直す説教シリーズです。「波多野先生、現代は男女共同参画社会です。それなのに気概を示した女性ばかりを取り上げるのはおかしくないですか?」 もっともな指摘です。理由は2つあります。
1つは聖書が描く世界は、もちろん天地創造以来なのですが、原初史を除けば、宮廷に仕える書記たちが記録を残すようになった紀元前1000年頃から初代教会が整いを見せる紀元100年頃までのおおよそ1100年くらいを、キリストの十字架と復活の出来事を中心に描いています。その1100年くらいの間、パレスチナ地方は完全な男性中心の社会でした。女性は裁判での証人になれなかったそうですし、そもそも主イエス・キリストの系図は男性の家系で書かれています。そんな時代に生きた女性たちが示した信仰を神様は見逃しません。聖霊の働きによって聖書はちゃんと書き留めているのです。当時の女性たちが示した気概は、男女共同参画社会において男も女も受けとめるべきものなのです。
もう一つの理由は、日本のあるいは世界の多くの教会が女性たちによって支えられているからです。「男も頑張って主に仕えて行こう」ですね。お互いに励まし合って主に仕えて行く、こんな競争は喜びの競争です。

さて本日登場するのはナバルとその妻アビガイル。そしてダビデです。旧約聖書サムエル記上を読み進めて行くことになります。歴史的にはダビデが王位に着き全イスラエルを統一したのが紀元前1000年頃ですが、本日御言葉を聞くのはダビデがサウル王に命を狙われ執拗に追われ続けていた頃の出来事からです。ゴリアトを石投げ紐と小石だけで打ち倒したダビデの人気は上がる一方。「サウルは千を討ちダビデは万を討った」人々のはやし立てる声に、サウル王は嫉妬にかられダビデを殺そうとしたのです。サムエル記上17章18章が伝えています。19章20章はダビデとサウル王の息子ヨナタンとの美しい友情、21章から24章にはサウル王の追手から逃げ回るダビデの姿が、そして25章には「サムエルの死」という小見出しが付いています。
このサムエルは最後の士師と呼ばれます。士師は平和な時は各部族の指導者であり裁き人でありましたが、イスラエル12部族が一致して外敵と戦う必要が生じた時には、そのリーダーとなりました。既にこの説教シリーズで取り上げた、ルツとナオミ。旧約聖書ルツ記は「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲った。」この様に始まっていました。2週間前、デボラとヤエルの物語を聞きました。デボラは士師記に登場する唯一の女性士師です。神様への篤い信頼によって、当時最新鋭の鉄製戦車400両を持つ敵軍を破ることが出来たのです。
サムエル記上が伝える紀元前1000年の世界に戻りましょう。士師たちが指導者として活躍した時代から、王によって統治され強力な常備軍を持つ時代へと変わっていく転換期に、ダビデに油を注ぎ後ろ盾となっていたサムエルは死の時を迎えたのです。24章では温厚な姿を見せていたダビデが25章では荒々しい反応を示します。心の支えを失ってのことでしょう。
サムエル記上25章1節以下です。25:1 サムエルが死んだので、全イスラエルは集まり、彼を悼み、ラマにある彼の家に葬った。ダビデは立ってパランの荒れ野に下った。2 一人の男がマオンにいた。仕事場はカルメルにあり、非常に裕福で、羊三千匹、山羊千匹を持っていた。彼はカルメルで羊の毛を刈っていた。3 男の名はナバルで、妻の名はアビガイルと言った。妻は聡明で美しかったが、夫は頑固で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。聡明で美しいアビガイルの登場です。夫の名はナバル。ヘブライ語で「愚か者」という意味だそうですからあだ名だったのでしょう。不釣り合いな夫婦の様ですが、民数記36章によりますと当時の結婚は土地の所有問題と結びついていましたから、周囲の者が彼女の結婚相手を決めたのかも知れません。夫ナバルは非常に裕福で、羊三千匹、山羊千匹を持っていた。とあり、大勢の部下を持った地方の豪族でしたが、頑固で行状が悪かったのです。時は羊の毛の刈入れ時、働く者たちに大盤振る舞いの宴を催して働きに報いる習慣がありました。
一方、サウル王の追手から逃れる日々を送っていたダビデは自分に従う六百人もの部下達を養わなければなりません。ダビデはナバルの羊の群れや牧童たちを盗賊から守ってあげていたので、10名の部下を使いにやり食料を分けてくれる様に頼みました。10節がナバルの答えです。「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか。」確かに、ダビデはナバルと羊を保護する契約を結んだわけではありませんが、世話になったものに「毛刈りの振る舞い」をするのは当然でした。それを「ダビデは頼んでもいないことを勝手にやっただけだ。そもそも彼が主人のサウル王から逃げ出したのを見習って、最近奴隷たちが逃げ出すようになって迷惑している。ダビデなんてヤツにやるものはない!」こう言って追い返してしまったのです。
12節 25:12 ダビデの従者は道を引き返して帰り着くと、言われたままをダビデに報告した13 ダビデは兵に、「各自、剣を帯びよ」と命じ、おのおの剣を帯び、ダビデも剣を帯びた。四百人ほどがダビデに従って進み、二百人は荷物のところにとどまった。使いの者の報告を聞いたダビデは怒りに燃えました。プライドを傷つけられたからです。
さて、夫ナバルがダビデの使いの者を追い返した様子を聞いた聡明なアビガイルは危機的な状況を理解して直ぐに行動に出たのです。25:18 アビガイルは急いで、パンを二百、ぶどう酒の革袋を二つ、料理された羊五匹、炒(い)り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじくの菓子を二百取り、何頭かのろばに積み、19 従者に命じた。「案内しなさい。後をついて行きます。」彼女は夫ナバルには何も言わなかった。彼女は、400人を率い怒りに燃えてやって来るダビデに出会い、地にひれ伏して夫の非礼を詫びて言うのです。30節。主が約束なさった幸いをすべて成就し、あなたをイスラエルの指導者としてお立てになるとき、31 いわれもなく血を流したり、御自分の手で復讐なさったことなどが、つまずきや、お心の責めとなりませんように。主があなたをお恵みになるときには、はしためを思い出してください。
アビガイルの言葉に、ナバルとナバルに仕える男たち全員を殺すつもりだったダビデは言うのです。25章32節以下です。25:32 ダビデはアビガイルに答えた。「イスラエルの神、主はたたえられよ。主は、今日、あなたをわたしに遣わされた。33 あなたの判断はたたえられ、あなたもたたえられよ。わたしが流血の罪を犯し、自分の手で復讐することを止めてくれた。34 イスラエルの神、主は生きておられる。主は、わたしを引き止め、あなたを災いから守られた。あなたが急いでわたしに会いに来ていなければ、明日の朝の光が射すころには、ナバルに一人の男も残されていなかっただろう。」35 ダビデは、彼女の携えて来た贈り物を受け、彼女に言った。「平和に帰りなさい。あなたの言葉を確かに聞き入れ、願いを尊重しよう。」アビガイルの機転を利かした行動によってダビデは理性を回復し、怒りを収めました。ダビデは無益な殺戮が防がれたのは神様の計らいであることを悟ったのです。
私はこの話を読んで、山内一豊の妻の話が思い起こされました。15年程前に大河ドラマになりましたが、貧乏侍の夫に倹約して貯めてあったお金で名馬を買い与え、その馬に乗って信長の前に出た夫が注目され出世していく物語でした。妻千代の助けによって、夫は後に家康のもとで高知城主にまでなったのです。英知に満ちた奥さんの話と言うだけであまり関係がない様です。
それでは、私たちは今日の物語から何を読み取るのでしょうか。神様は旧約聖書を通して私たちに何を語り掛けていらっしゃるのでしょうか?
怒りについて考えてみたいと思います。怒りは脳の扁桃体と呼ばれる部分から分泌されるノルアドレナリンというホルモンが、神経を興奮させ、血圧や心拍数を上げて戦いの準備をする状態だそうです。本来は外敵に対する防御反応でした。
最近「キレる中高年」と言う新聞記事がありました。公共の場所でトラブルなどが起きた時、一見すると穏やかそうな年配の人がいきなり激高することが増えている。さらに摘発された刑法犯の内、65歳以上の高齢者が1989年には2.1%だったのが2018年には21.7%にまで増加しているそうです。大いに気を付けなければいけないと思いました。
ダビデの怒り、ナバル一統を皆殺しにしたいと思うまでの怒りの本質は侮辱、自尊心が汚された点にありました。自分が善意でナバルの羊や牧童たちを盗賊から守ったのだから、感謝して当然なのに恩を仇で返したナバルを許せない。こんな奴をそのままにしていたら正義が踏みにじられ道徳が地に落ちてしまう。自分の怒りを正当化していきます。ここまで来たらもう「私こそは正義の担い手だ。この世の悪を征罰してくれよう!」こんな感じになります。自尊心が傷つけられた腹いせを、正義を守る怒りにすり替えていくのです。そんなダビデ、「キレてしまった」ダビデに理性を取り戻させたのは、夫の非礼を詫びる為に命がけでダビデのもとに駆け付けたアビガイルでした。彼女は。「御主人様、わたしが悪うございました。お耳をお貸しください。はしための言葉をお聞きください。25 御主人様が、あのならず者ナバルのことなど気になさいませんように。名前のとおりの人間、ナバルという名のとおりの愚か者でございます。はしためは、お遣わしになった使者の方々にお会いしてはいないのです。26 主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。あなたを引き止め、流血の災いに手を下すことからあなたを守ってくださったのは主です。あなたに対して災難を望む者、あなたの敵はナバルのようになりましょう。」ダビデはアビガイルの言葉を素直に聞き入れそして答えました。25:32 イスラエルの神、主はたたえられよ。主は、今日、あなたをわたしに遣わされた。33 あなたの判断はたたえられ、あなたもたたえられよ。わたしが流血の罪を犯し、自分の手で復讐することを止めてくれた。34 イスラエルの神、主は生きておられる。主は、わたしを引き止め、あなたを災いから守られた。あなたが急いでわたしに会いに来ていなければ、明日の朝の光が射すころには、ナバルに一人の男も残されていなかっただろう。
日々の生活の中で、頭に来ることはキットあるでしょう。最近までコロナウィルス対策でStay Homeが続いたことから、いらだちを覚えることがありましたし、外国ではその為に暴動にまで発展したと伝えられています。コロナ問題が深刻さを増す以前においても、多くの人がより良い、より安定した生活を求めて努力を積み重ねてきた結果、社会全体の豊かさは平均値として確かに増した一方で、富の大いなる偏りが生まれましたし、ストレスの多い社会になってしまったと指摘されていました。そんな時代に住む私たちの怒りには2種類あります。社会の不健全さや不平等さに怒りを覚える。義憤と呼ばれます。祈りながら改善に努めるならば、主が喜んでくださいます。もう一つの怒りは私憤。これは厄介な面があります。自分の思いが叶わないこと、プライドが傷付けられたこと、理不尽な仕打ちを受けたことなどによって、怒ったり、恨んだり、イヤな人だと思うことは起こります。ダビデの様に「相手を皆殺しにする」とまで怒ることは無いでしょうし、あってはなりません。
しかし、皆さんおっしゃいますし私もそうです。嫌なひと、あるいは敵を愛し、祈ることは難しいのです。私はいつも言います。繰り返しましょう。「あの嫌な波多野さんが神様に近づきます様に! アーメン」この祈りです。真の和解はお互いが神様に近づく以外には不可能だからです。
さて、私たちにとって、今日アビガイルが示した気概は無縁なのでしょうか?
十字架の主イエスを知らないのであれば、即ち私たちに示された大いなる愛を知らないのであれば、今日の話は3000年前に起きた歴史上の一つの出来事にすぎません。しかし、私たちは聖書の証言によって主がどうなさったかを知っているのです。
私たちは残念ながら過ちを犯します。ダビデがそうでしたし、放蕩息子も、主の足に香油を塗った女もそうでした。私たちは彼らの性質を持っています。受け継いでいます。
その一方で主イエスは、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」この様に祈ってくださる方なのです。プライドが傷付けられた時、怒りを覚える時、あるいは仕返しの思いが心を支配する時。そんな時に神の独り子がどの様に耐え忍ばれたか、犠牲を払われたかを思い起こすことが必要です。
そのための最高の時と場所があります。ここに掲げられている十字架を仰ぎ見ながら信仰の友と守る礼拝です。
実際、私たちには忠告を与えてくれる人が必要です。もちろん一番確かな方は主イエスです。祈りの中でその声を聴くのです。
さらに信仰の導き手、信仰の友に相談して一緒に祈ると良いでしょう。「聖書に聞き、祈る会」はその様な場の一つです。
牧師である私は的確な示唆を与えることが来ないかも知れません。しかし、出来ることが有ります。主を指し示し、共に祈ることは出来ます。これは私だけではありません。皆さんにもできます。なぜなら必ずや聖霊が導いてくださるからです。
主はおっしゃいました。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5:9)山の上の説教の一節です。アビガイルはいのちの危険を顧みずに気概を示しました。彼女を支えていたのは主なる神への信仰でした。そして言いました。「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。あなたを引き止め、流血の災いに手を下すことからあなたを守ってくださったのは主です。」この彼女の信仰はダビデに怒りを乗越える勇気を与えました。もっと正確には神様に立ち返る力を与えました。
ダビデは言いました。「イスラエルの神、主はたたえられよ。主は、今日、あなたをわたしに遣わされた。あなたの判断はたたえられ、あなたもたたえられよ。わたしが流血の罪を犯し、自分の手で復讐することを止めてくれた。イスラエルの神、主は生きておられる。主は、わたしを引き止め、あなたを災いから守られた。あなたが急いでわたしに会いに来ていなければ、明日の朝の光が射すころには、ナバルに一人の男も残されていなかっただろう。」
先ほど司式の寒河江長老にローマの信徒への手紙12章19節を読んでいただきましたが、21節までをお読みして終わりたいと思います。12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。祈ります。