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山形六日町教会

2020年5月31日

聖書:イザヤ書42章5~7節 使徒言行録1章6~8節
「あなたの王国がきますように」波多野保夫牧師

本日、この礼拝堂に集って皆さんとご一緒にペンテコステの礼拝を守れますことはおおきな喜びです。共に主に感謝したいと思います。 学校や園で元気に駆け回る子供たちの姿を見ますと、日常性の回復がこんなにも喜ばしいことであり、同時にその日常性が神様の多いなる恵みであったことをあらためて思います。コロナウイルスの影響で苦しみの中におられる方が慰められます様に。医療や介護や教育・保育の現場で戦ったり、ワクチンや治療薬開発を進めたり、そして子供たちも含めて、今までの日常を越えた所で頑張っている大勢の方々がいらっしゃいます。聖霊の豊かな慰めと励ましと力添えとを祈って参りたいと思います。今後、第2波、第3波の流行もあり得ると警告されています。私たちも十分な注意を払いながら週ごとの礼拝を守って行きましょう。様々な事情で共に集えない兄弟姉妹と祈りを共にし、皆が喜んで集う礼拝の回復を願いたいと思います。

さて、今日はペンテコステ、五旬節です。これは50番目の日と言う意味ですが、ユダヤの暦ではその日を一日目と数えますから、今年のイースター4月12日から7週間後の今日が50日目に当たります。復活された主は40日間に渡って弟子たちの所に来られ、そして神様の御許へ帰られました。その際に語られた言葉です。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ24:49)
主のお言葉に従って11人の使徒と他の弟子と女性たちはエルサレムに留まっていたのです。そしてその10日後、ペンテコステの日に、主が約束された「助け主」・聖霊が与えられたのです。使徒言行録2章はその時の様子を次の様に語ります。 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。劇的な情景を伴って彼ら、彼女らに聖霊が与えられました。
しかし、聖霊の働きはこの日に始まった訳ではありません。創世記の冒頭部分です。1:1 初めに、神は天地を創造された。2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。三位一体の神、聖霊は天地創造の時から父なる神、み子なる神イエス・キリストと共におられました。
旧約聖書出エジプト記(31:3,35:31)で神様は、幕屋の工芸品を作るベツァルエルと言う人に神の霊を満たす とおっしゃり、民数記(11:17)ではモーセに わたしはそこに降って、あなたと語ろう。そして、あなたに授けてある霊の一部を取って、彼らに授ける。そうすれば、彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。 この様に語られます。モーセの後継者 ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。(申命記 34:9)のであり、士師記の語ります士師たちにも主の霊が働きました。主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエル記上16章13節です。イザヤ書11章は次の様に語ります。1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。メシア預言の一節です。そしてルカ福音書は次の様に伝えています。主がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカ 3:22) イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。(4:1)イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。(4:14)聖霊は天地創造から主イエスに至るまで、ずっと働いていらっしゃることを聖書は証言してます。「波多野先生。それでは、ペンテコステの日の前後で何も変わらないじゃないですか。」大変良い指摘です。確かに聖霊がその本質を一つにする三位一体の神であることは全く変わりありません。私たちを愛して止まない神である事は全く変わりません。では、何が変わったのか。それはペンテコステの日以前において、聖霊は特定の時、特定の人だけに働き神様のお考えを表しました。モーセであり、ダビデであり、そして主イエスです。
ペンテコステの日に起きた一大変化。それは教会の誕生です。使徒言行録は2章14節以下に聖霊を受けたペトロの説教があります。14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。ペトロはヨエル書や詩編、さらに主イエスが語られた言葉、私たちが今福音書を通して聞くみ言葉によって主の福音の説教をしました。2章40節以下です。40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
教会の誕生です。聖霊によって教会が誕生し、教会を通して聖霊が働かれる時代が2000年後のこの時に至るまで続いているのです。もちろん、聖霊は自由ですから教会の外において特定の時、特定の人に働かれることは変わりません。しかし、教会に集う私たちに向かってパウロは次の様に語ります。コリントの信徒への手紙Ⅰ6章19,20節。19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。主イエス・キリストの肉と血と言う代価でもって、罪の奴隷であった私たちは買い取られ、キリストに従う自由な者としていただきました。その私たちの内に聖霊が宿って下さると言うのです。キリストに従う私たちの罪は赦されており、聖霊が私たちの心を満たしてくださっているので悪魔の入る余地はありません。しかし、私たちが様々なこの世の誘惑に負けて、十字架の主から目をそらした時、目ざとく狙っている悪魔が入りこむのです。私たちを神様の愛から離れさせることを最高の喜びとするのが悪魔です。そんな時は必ずあるでしょう、私にもあなたにも。では、どうすればよいのでしょうか?難しくありません。主の十字架をチャント見つめ直すのです。そして祈の時をもちます。信仰の友と祈れれば最高です。共にいてくださる主を共に覚えるからです。しかし、私たちは最も素晴らしい時と場所を知っています。そうです、主にある兄弟姉妹と共に礼拝に集うのです。
私たちは3週間に渡って、この様に共に集って礼拝することが叶わない時を経験しました。そんな時にあっても、それぞれの場所で限られた形ではありますが礼拝の時を持っていただきました。礼拝の時が聖霊に満たされる時だからです。私たちがより良く生きて行くために必要だからです。「でも、波多野先生。普段は神様が共にいてくださる。あるいは共にいてくださるイエス様と言っているのが、ペンテコステだと聖霊になっちゃうのですか?」確かに今日、普段よりも聖霊を強調していることは事実です。主イエスの約束された聖霊が与えられて教会が誕生した喜びの日だからです。しかし、三位一体の神、父・子・聖霊はその本質が一つです。聖なる方であり、私たちへの愛を注ぎ、私たちを守り導き、罪を諫めて下さる。この本質は一つなのです。ですから、神様が共にいてくださる、イエス様が、聖霊が。どう呼んでも全く変りません。安心してください。

さて、本日は説教シリーズ「祈るときには」の16回目ですが、説教題を「あなたの王国が来ます様に」としました。主の祈りの一節は「御国を来らせ給え」ですが、翻訳されたのは1880年、明治13年ですから、現代に語る説教に相応しい訳にしました。さて、主イエスは30歳になってガリラヤで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」 この言葉で宣教活動を始められました。「神の国」、「御国」、「あなたの王国」、そしてマタイ福音書は「天の国」と呼びますが、全て同じです。神様のお考え、即ち神様の愛が私たちを完全に支配する場所であり、時です。ですから、御国が私たちの所に来るのであれば、続く祈り「御心の天に成る如く、地にも成させ給え」。この祈りも同時に叶えられます。しかし、この「神の国」がどの様なものであるのか、その理解が問題でした。
使徒言行録1章6節で使徒たちは問います。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。使徒たちだけでなく、他の弟子たちや民衆の描いていた「神の国」の実現。それはあのダビデ王の時代の繁栄と権威を神様が取り戻してくださることでした。イスラエルの歴史はダビデ王、ソロモン王の時代を頂点として、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマとその時代の覇権国に翻弄され続けて来ましたから、その思いは切実でありまた歴史の必然でもありました。
しかし、主イエスが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」とおっしゃる「神の国」は全く違ったのです。先ほど申しました様に、全ての者が神様の愛の中を生きる、幸せに満ちた王国の到来だったのです。私たちは今、その思い違いが人類の歴史における最大の犯罪、神の独り子を十字架につける犯罪へとつながったことを知っています。そして同時に、十字架の出来事が罪からの解放であることを聖書の証言によって知っています。私たちの罪を罪のない方が負ってくださったことで、その方に従う私でありあなたは神との愛の関係を取り戻すことが出来るのです。これが神の愛のご計画なのです。これが福音です。だとしたら、私たちは「御心の天に成る如く、地にも成させ給え」この祈りをどの様な思いで祈るのでしょうか?2週間前の5月17日、集合しての礼拝を持つことは出来ませんでしたが、「お考えを地上に実現してください」との説教題を掲げて聖書の語るみ言葉を聴きました。「御心の天に成るごく地にもなさせ給え」です。すべての人を愛して止まない神様お考えが、この地上に実現する時、本当の平和が実現します。
預言者イザヤの語る平和です。11:6 狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。7 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。(イザヤ書11:6-8)素晴らしいですね。イザヤはこれこそが主イエスが地上にもたらされる真の平和だと言うのです。そして「主の祈り」を祈る私たちに主イエスは求められます。「神様と自分と隣人を愛する」ように求められます。
2週間前の礼拝では、「善いサマリア人」の譬えから普段自分たちを蔑み嫌っていたユダヤ人に惜しみない慈愛を注いだ一人のサマリア人の姿を見ました。このサマリア人の姿を主イエス・キリストに重ねることは極めて適切です。「誰が強盗に襲われた人の隣人になったのか」と問われ、「このサマリア人です」と答えた律法学者に主はおっしゃいました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 私たちが行って隣びとに愛の業を行う時、主が喜んでくださいます。困っている人に寄り添い、やさしくすることは当然ですが、それだけではありません。2週間前に申し上げました。今日も言いましょう。忘れてはならない隣人を愛することは、私たちの受けたもの、私たちのいただいた最高のものを差し上げることです。信仰です。信仰は分かち合うことで減るのではなく増えるのです。
私たちが祈る「御国が地上に来ます様に」との祈りは、多くの人がキリストの福音を知り、共に教会に集うことによって前進します。そして伝道の働きは教会に、そして集う一人一人に委ねられているのです。使徒言行録1章5節には ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。とあります。私たちはクリスマスに洗礼式を持ちました。洗礼は牧師が執行しますが、聖霊に導かれた教会の業です。この事実から分かります様に、伝道の働きは教会の業であり、集う一人一人に委ねられているのです。

ここで、一人の女性を紹介したいと思います。現在30歳になる2児の母です。彼女は8歳からサーフィンを始め、類まれな才能と努力の結果、有望なプロ・サーファーへの道を歩んでいました。しかし13歳のある日、海での練習中に4メートルを超える巨大ザメに襲われて左腕を付け根から食いちぎられてしまったのです。迅速な手当てによって一命をとりとめることが出来ました。エレミヤ書29章11節に次の言葉があります。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」彼女は言うのです。「私は、この言葉を信じています。神様は、私の人生の計画を持っていて、それに私のことを愛してくれています。納得がいかないことが起こっても、すべては神様が最初から計画されたことであり、悪から善を生み出してくださると信じています。」「神様が私を愛して下さり私の生涯を計画の内においてくださることは、鮫も持ち去ることは出来ないのです。」彼女はその後、恐怖を克服して海に戻り、片腕のプロ・サーファーとして活躍しました。そして神様の大いなる愛のご計画を証し続けています。
私たちの人生にも大きな試練の時は有るでしょうし、乗越えてこられたことでしょう。ぜひそれを語っていただきたいと思います。最初は自分の心の中で。そして、主の愛を伝えたいと思い祈っている人に。彼女、ベサニー・ハミルトンさん程劇的でなくてかまいません。豊かな主の愛の経験は最高の伝道の道具として用いられるのです。さらにそれを言葉にする時、自分が神様に愛されていることをあらためて知るのです。
私たちは主の祈りを祈ります。「み国を来らせ給え、御心の天に成る如く地にもなさせ給へ」と。もちろん完全な主の支配が約束されているのは終末の時です。しかし、私たちはこの世界の多くの者に先だって聖霊が与えられた主の教会に連なり、神様の愛を知る者です。既に教会には「神の国」が到着しているのです。なぜならキリストの愛が全てを支配するからです。しかし、現実の教会が人の思いによって支配されることは往々にして起こります。罪の故です。」もし人間の思いが教会を支配するのであれば、それは聖霊を汚す行為であり、改めなければなりません。礼拝の中で「主の祈り」を祈る時、私たちは聖霊の豊かな働きに思いをはせるのです。祈りましょう