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山形六日町教会

2020年5月24日

聖書:士師記4章8~9節 ヘブライ人への手紙13章7~8節
「先立って行かれる神」波多野保夫牧師

説教シリーズ「気概を示す」の8回目です。このシリーズでは毎回聖書に登場します女性を取り上げて、彼女たちの示した気概、即ち「困難や逆境の中にあって神様に導かれて歩んだ姿」を通して、神様が示された愛の御業であり、またそれを受け止めた女性たちの信仰を見ています。
本日は、旧約聖書士師記が伝えますデボラとヤエルに注目していきますが、2週間前には旧約聖書ルツ記によって、ルツとナオミの物語を聞きました。このルツ記は「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲った。」この様に語り始めていました。本日読み進めます士師記と同じ時代の出来事ですが、両者に物語上の接点はありません。しかし、ただ一つの接点。共通点があります。それは4人とも神様の愛の下にあったことです。

さて、士師たちが活躍した時代から始めましょう。旧約聖書は創世記において天地創造の御業に続いてアブラハムとの契約が語られます。一人息子イサクをも捧げるアブラハムの信仰を見た神様は、彼の子孫に大いなる恵みを与えると約束なさいました。イスラエル民族が持つ選民思想の原点がここにあります。もちろんアブラハムの末においでになった、主イエス・キリストによって選民思想は完結し、今や全ての人が招かれていることは明白です。
主はおっしゃるのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)
選民思想は終わり、私たちは信仰によって救いが与えられる時代に生きているのです。言い方を変えれば、私たちクリスチャンこそが現代における選ばれた民なのです。
士師の時代に戻りましょう。アブラハムから時代が経って出エジプトの出来事があり、モーセとヨシュアに導かれたイスラエルの民は40年の荒れ野の旅の末にカナンの地に定住するようになりました。士師が活躍したのは紀元前1200年頃から紀元前1000年ころまでの200年ほどとする学者が多いようです。この間イスラエルは12部族の連合体をなしていました。普段は部族ごとに暮らしているのですが、外敵が襲ってくるなど、共通の困難や危機に直面した時、普段は人々の争いを裁く仕事をしていた士師と呼ばれる指導者が、12部族全体を統率したのです。
紀元前1000年頃になると周りの国は王様が統治し、良く訓練された常備軍を持つようになっていました。強い敵国に悩まされたイスラエル12部族の人々は「王様を私たちに与えてくださいと願った」。このようにサムエル記上8章にあります。神様は、「王を持つと結局その王の奴隷になってしまう。」とサムエルを通して諫めるのですが、周りの国の軍隊を恐れる人々は言うことを聞きません。そこで神様はサムエルに言われました。「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。」(サム上8:22)こうして初代のサウル王が立てられ、2代目のダビデ王へと続いていくのです。
さて、出エジプトの旅の後もイスラエルの民は遊牧生活を送っていたのですが、カナンの肥沃な土地で次第に農耕生活へと変わっていきました。遊牧から農耕への変化は生活の安定をもたらすと共に、唯一の神への信仰がぐらつく原因ともなったのです。生活の安定や豊かさによって、それが神様の大きな恵みであることを忘れてしまう。いつの時代にも起こることです。
この士師記が伝える時代は、豊かさと安定した生活によって、唯一の神から離れて罪を犯すイスラエルの民。神に従う幸せな人生を思い起こさせるために、周辺の他民族の王たちを用いてイスラエルを攻撃させる神様。その攻撃によって神様の事を思い出し、罪を悔いて立ち返るイスラエルの人々。この様な出来事が繰り返されたのです。
士師記4章には「デボラとバラク」との小見出しが付けられています。4章4節に、女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁くようになったのはそのころである。このようにあります。デボラは神によって士師として立てられたのですが、その理由は4章1節です。エフドというイスラエルの士師の死後、イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行った。神を忘れ異教の神を礼拝したり、放縦に身を任せたのです。4章2節3節 主はハツォルで王位についていたカナンの王ヤビンの手に、彼らを売り渡された。ヤビンの将軍はシセラであった。イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。ヤビンは鉄の戦車九百両を有し、二十年にわたってイスラエルの人々を、力ずくで押さえつけたからである。
神様は、罪を犯し続けるイスラエルの民が立ち返る様にと、異教の国の王を用いてイスラエルを苦しめられました。戦車はあのベンハーの映画に出て来た馬に引かせるものですが、時代は青銅器文化から鉄器文化に代わろうとしています。いち早く鉄製の戦車900両を持っていた軍隊は強力でした。その敵の将軍がシセラだったのです。
さて、4章はイスラエルを苦しめる敵の将軍シセラとの戦いの様子を述べます。苦しみの中にあるイスラエル民の叫びを聞かれた神は、士師として立てられた女性預言者デボラに告げられました。7節。『行け、ナフタリ人とゼブルン人一万を動員し、タボル山に集結させよ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す』 この時イスラエル軍の指揮者として立てられたのがバラクです。その軍勢は一万人。凄い人数の様に思われますが、敵の将軍シセラの軍隊は最新の鉄製戦車900両を要する精鋭部隊です。それに比べると、ろくな武器も持たない集団だったのです。このような不利な状況でバラクが述べたのが8節。「デボラ、あなたが共に来てくださるなら、行きます。もし来てくださらないなら、わたしは行きません。」私一人ではそんな大変なことはできません。でも神様のご命令です。あなたが一緒に来てくださるのなら私は行きます。
私たちはここで立ち止って聞かなければならないことがあります。それは、神様は私に、そしてあなたに特定の事、他の人とは異なったご計画を持っていらっしゃると言うことです。
ですから、神様が自分に何を求められていらっしゃるのだろうか? この思いを持って物語を読み進めていただきたいと思います。それは、自分の力を越えており、一人では負いきれないと思える事かも知れません。バラクはデボラに同行を求めます。もちろんデボラの武力を期待したのではありません。祈る力、神様の御心を問う力を求めたのです。デボラは即座に答えました。「私も一緒に行きます。」どうでしょうか、私たちが困難に立ち向かう時、あるいは苦しい時、友が祈ってくれる、教会で祈っていてくれる。最大の味方であり武器です。なぜなら大きな困難や苦しみには、私たちを神様から離れさせてしまう危険があります。悪魔を喜ばせてしまう危険があります。
ヤコブの手紙5章16節です。主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。デボラに伴われて、イスラエル軍の指揮者バラクはタボル山に陣を張りました。そしてデボラは神様のご命令をバラクに伝えます。14節15節「立ちなさい。主が、シセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。」バラクは一万の兵を従え、タボル山を下った。主は、シセラとそのすべての戦車、すべての軍勢をバラクの前で混乱させられた。シセラは車を降り、走って逃げた。
山の上から攻め下ってくるバラクの軍勢です。川辺に陣を張っていたシセラ軍の鉄でできた重い戦車はぬかるみに嵌ってしまったのでしょう。神様のご命令、ご計画をキチンと聞き取ったデボラ、彼女が伝える神様の作戦に従って行動したバラク。イスラエル軍の大勝利です。14節のデボラの言葉「主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。」この言葉がポイントです。

本日の説教題としました。是非今日この言葉を覚えていただきたいと思います。今日、あなたが苦しみ、悩み悲しみあるいは困難の中にあっても「主が、あなたに先立って出て行かれる」のです。十字架を負うためにです。私たちの罪を担うために、私たちに先立ってすでに苦しみ、嘆き、蔑(さげす)みを担うために「主が、あなたに先立って出て行かれた」のです。あなたが今日喜び、楽しみの中にあるのならば「主が、あなたに先立って出て行かれた」のです。なぜなら主が苦しみや悩みや困難をすでに負ってくださったのですから、後に残るのは喜びだけなのです。「あなたに先立って出て行かれた」方についていく。これが幸せな人生を歩む秘訣なのです。

主イエスの言葉を一つお読みしておきましょう。マタイ福音書16章18節 あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。「あなたは生ける神の子です」と信仰を告白したペトロへの言葉です。私たちはこのペトロの信仰の上に建てられた教会に呼び集められている幸いな者たちです。陰府の力も立ち向かうことが出来ないのです。いつも申します。私たちが悪魔を恐れるのではなく、悪魔に完全に勝利された主に従うクリスチャンを悪魔が恐れるのです。

さて、戦いに敗れた敵の将軍シセラは一人でカナン人へベルの妻ヤエルのテントに走って逃げてきた。士師記4章17節です。ここから先に士師記が語ります敵の将軍シセラの行く末は、私たちの倫理観に合わない残酷なものです。戦争での中の出来事ですから、いつも残酷なのです。読み進めましょう。
4章20節21節。4:20 シセラは彼女に、「天幕の入り口に立っているように。人が来て、ここに誰かいるかと尋ねれば、だれもいないと答えてほしい」と言った。 だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の釘を取り、槌を手にして彼のそばに忍び寄り、こめかみに釘を打ち込んだ。釘は地まで突き刺さった。疲れきって熟睡していた彼は、こうして死んだ。
実はこの残酷な出来事は、4章9節でデボラがイスラエル軍の指揮を執るバラクに告げた言葉「わたしも一緒に行きます。ただし今回の出陣で、あなたは栄誉を自分のものとすることはできません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです」この言葉が実現したのですから、神様のご計画に違いありません。
今日登場した二人の女性です。デボラは預言者から民のリーダーである士師として立てられ用いられました。今でいうエリートです。一方のヤエルは社会の片隅にいた名もない遊牧民へベルの妻でした。神様はこの二人を用いられ、罪の中から神様に立ち返ったイスラエルの人々に、20年に渡って力ずくで抑えてつけられていた困難な生活から、40年間の平和を与えられました。しかし、残酷なシセラの死に様が心に引っかかるのではないでしょうか?ヤエルが用いた釘とハンマーは遊牧民がテントを張る際に用いる道具です。彼らの生活に欠かすことが出来ないものでした。

私たちは聖書が語るもう一つの釘とハンマーを用いた殺人の一部始終を知っています。私は毎年主の十字架の時を覚えて守る「洗足の木曜日礼拝」の時に太い釘を一本ずつ差し上げています。そして、「手の平に軽くその釘を押し当てて、主が十字架で味あわれた痛みを少しだけ味わってください。ただし、あまり強く押し当てないでください。」この様に申し上げています。そうです、人々は主イエスを十字架につける為に釘とハンマーを用いました。その釘を主イエスが受けてくださったのです。
今日私たちは神様がイスラエルの民を選んで、大きな愛情を注がれたことを見ました。今日私たちは戦争の残酷な姿を見ました。今日私たちは釘とハンマーで人を殺した出来事を見ました。私たちの持っている、平等意識や倫理観からは理解しにくいものがありますが、これは事実です。そこから不平等な神、残酷なことを命じる神様を非難する気持ちが湧くかもしれません。
しかし、忘れてはならないこと。それは2000年前に、主イエスが既にハンマーで打たれた釘を受けてくださっていることです。その主は私たちにおっしゃるのです。「あなたの敵を愛しなさい、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19,20)独り子主イエスを私たちの犯した罪を清算するために十字架に架けられた方は、それほどまでに、私たちを愛してくださる神様です。
まずはイスラエルの人々に愛を注いで、神様に従う者になる様に導かれた神様は、イスラエルの人々が繰り返す罪の数々の末に、全世界の人にお考えを知らせる、愛して止まないお考えを知らせる為に主イエスを私たちの所に遣わされました。
クリスマスに誕生された方の十字架での死によって、神様の愛の見え方が変わったのです。世界のすべての人が主イエス・キリストに従う信仰だけによって永遠の命が約束される様になったのです。
それでは私たちは今日、この二人の女性が示した気概ある行動から何を学ぶのでしょうか?もちろん戦争を導いたことでも、将軍を暗殺したことでもありません。神様のご命令、導きに素直に従ったことを学ぶのです。
先ほど、「神様は私に、そしてあなたに特定の事、他の人とは異なったご計画を持っていらっしゃる。神様が自分に何を求められていらっしゃるのだろうか? この思いを持って物語を読み進めていただきたいと思います。」このように申し上げました。
現在私たちは従来の延長線上に無い日々の中にあります。神様があなたに求められている事に思い当たるのであれば、勇気を出して行ってください。「神が先立って行かれます。」もしまだ思い当たらないのでしたら、私たちのために太い釘を打たれた主がおっしゃる「あなたの敵を愛しなさい、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19,20)このご命令と約束を出発点としてください。「神が先立って行かれます。」いずれの場合も私たちの出発点は祈りにあるのです。 祈りましょう。