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山形六日町教会

2020年5月3日

聖書:ルツ記2章12節 ヨハネによる福音書6章38~40節
「主が報いてくださる」波多野保夫牧師

山形六日町教会と私が先月から代務を務めさせていただいています米沢教会では、本日からしばらくの間、礼拝堂に集っての礼拝を見合わせることとなりました。大変残念なことですが、今は耐え忍ぶべき時です。大きな声で賛美を共にすることの回復を祈り求めて参りましょう。しかし、教会は礼拝を休むことはありません。共に集うことは許されませんが、それぞれが置かれた場所においてみ言葉を聴き祈り賛美し献げる時を覚えていただきたいと思います。
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。(ヨハネ福音書4:24) このみ言葉にしっかりと立って行きたいと思います。
説教シリーズ「気概を示す」では聖書が語ります女性に焦点を当て、彼女たちの示した気概、すなわち「困難や逆境に屈しないで自ら立ち向かって行った」その姿に注目して、私たちの信仰を見つめ直しています。

本日は旧約聖書ルツ記を開きます。新共同訳聖書では4章、7ページほどの短い物語です。ルツを中心とした主な登場人物は、亡くなった夫の母であり姑のナオミと、やがて再婚することになる親戚のボアズです。物語を追っていきましょう。1章の1節は「士師が世を治めていたころ」と語り始めます。ダビデが全イスラエルの王となったのが紀元前1000年ころ、先立つサウルがイスラエル初代の王となったのが紀元前1020年ころと言われています。それ以前の時代には士師たちがイスラエル12部族を治めていました。
飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。 モアブの地は死海の東側に広がる異邦人の土地で、唯一の神に仕える地ではありませんでした。飢饉の激しさを知ることが出来ます。ルツ記1章は語ります。移り住んだ地で、ナオミの二人の息子はモアブ人の嫁と結婚したのですが、10年後に夫も二人の息子も亡くなり二人の嫁だけが残ったのです。故郷から飢餓の時が過ぎ去ったと聞いたナオミは、ユダへ帰る決断をします。その際、ナオミは息子の嫁たちに自分の故郷で幸せに暮らすように告げるのですが、ルツはナオミを離れようとしません。異教の地にあっても、唯一の神への信仰を守り通したのでしょう。彼らは家庭礼拝と日々の祈りを欠かすことはありませんでした。ルツはこのころまでに、現在の私たちと同じように、主イエス・キリストの父である神への信仰を与えられていたのです。
ルツ記1章16節以下です。  16 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神。17 あなたの亡くなる所でわたしも死に そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」2章はベツレヘムに戻ったナオミを助けるルツの姿を告げます。彼女はナオミとの生活を支えるために落穂ひろいに出かけたのですが、その畑はナオミの亡き夫、エリメレクの親戚にあたるボアズの畑でした。
旧約聖書は人々が唯一の神様を賛美し幸せに暮らすための戒め、十戒を告げますが、さらに、日々の生活の中で守り生かしていくための細かな戒めを語っています。その一つです。畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。(レビ23:22)生活の手段を持たない貧しい人や外国人のために落穂を残しておきなさいと言うご命令です。現代で言うセーフティーネットでしょう。いつの世にあっても、神様から与えられたものを独り占めしてはいけないのです。身一つで異邦人の地から戻ったナオミを一生懸命働いて支えるルツの姿はやがて畑の所有者ボアズの目に留まります。ある時彼はルツに告げるのです。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。 どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」(ルツ2:11,12)実はこのボアズはナオミの亡くなった夫、エリメレクの親戚筋に当たる者でした。
3章の小見出しには「婚約」とありますが、申命記25章の定めに従って「レビラート婚」という習慣がありました。子供がいないまま夫が死亡した場合に、夫の兄弟が未亡人と再婚する習慣です。家名を絶やさないためであり、また未亡人の生活を保障する意味を持ち、大家族制度をとる地域で広く行われて来ました。ボアズはナオミの夫エリメレクの親戚でしたが、亡くなったルツの夫の兄弟ではありません。ベツレヘム地方では「レビラート婚」の掟が広く解釈されていたのでしょう。4章でボアズとルツは結婚に至ります。町の女たちはナオミに言いました。14節15節です。4:14 女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。15 その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。」
最初に申しましたようにこのルツ記は4章だけの短い物語です。異教の神からの改宗者が故国を旅立ってまで姑に仕え勤勉に働いて生活をささえる。そしてよき伴侶を与えられるハッピーエンドの物語です。旧約聖書に登場する多くの女性の中で、このルツが一番人気だそうですが、それでは、私たちはこの短い物語から何を読み取るのでしょうか? この物語は聖書の中にあって何を語っているのでしょうか?
まず、ルツ記1章が語る、ナオミの失ったものがなんであったのかを見ることから始めましょう。彼女は飢饉によって故郷を離れ異教の地モアブに逃れなければなりませんでした。家や土地や友人や安定した生活の全てを失いました。移り住んだモアブの地において、安定した生活を取り戻したころ彼女は夫と二人の息子を失いました。
年老いたナオミの残された生涯を守ってくれるものは何もありません。失意の底にある彼女が失った最大のもの、それは希望だったのです。モアブの地でなんの希望も持ちえない彼女は、故郷を襲った飢餓が去ったことを知り、故郷に帰ることを決心しました。そして二人の嫁に故郷モアブに留まって幸せを取り戻すよう説得したのですが、ルツは別れを拒んでナオミと共にベツレヘムに向かったのです。
この様に始まるルツ記は実は「失った希望を回復する」物語なのです。自分の祖国を捨ててまで、故郷に帰る年老いたナオミに寄り添うと言って譲らないルツです。自分も痛みを感じナオミと同じ様に重荷を負おうとするルツです。ルツが負ったこの重荷がどんなに重かったのでしょうか。
モアブの人にとって、ルツは故郷を捨てた者であり、再び戻ることは許されません。ナオミと一緒にベツレヘムにやって来たルツは異教徒の国からやって来た人間です。ナオミの生活を支える為に一生懸命落穂ひろいをしているルツを見たボアズはわざわざ言うのです。「若い者には邪魔をしないように命じておこう。」 ボアズが与えてくれるまで、ルツのそばに腰を下ろした農夫たちは、炒り麦を分けてくれませんでした。さらにボアズは刈り取った束から落ちた穂をルツが拾うのを「とがめてはいけない。」と命じています。外国人の彼女に冷たくする者たちがいたのです。律法が貧しい者や寄留者に落穂ひろいを許す様に命じているにも関わらず、邪魔をする者がいたのです。いわゆる「差別」であり「いじめ」です。「いじめ」や「差別」は、ことあるごとに頭をもたげるようです。最近では医療関係者とその家族がつらい立場に置かれているとのニュースが報じられており、心が痛みます。
さてボアズです。先ほど家系を絶やさないために律法が命じる「レビラート婚」の話をしました。しかし、ボアズとルツが結婚するにはもう一つ乗越えなければならない問題がありました。異邦人との結婚です。出エジプト記34章、申命記7章そしてエズラ記10章には異邦人との結婚を禁じる律法があります。「レビラート婚」か「異邦人との結婚禁止」か、どちらの律法の定めが優先するのかは町の長老たちが判断したのですが、口さがない連中の噂話は広まるものです。ボアズもまた大きな犠牲を払うことで気概を示したのです。二人の示した気概は失意のどん底にあったナオミに生きる希望を与えるものでした。実際ナオミはルツとボアズの間に生まれたオベドを養い育てました。新し命をはぐくみ育てることでナオミは生き返ったと言って良いでしょう。

新約聖書ヨハネによる福音書6章38節以下の主イエスのみ言葉をお読みします。6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。
ナオミは失意のどん底から新しく生きる望みと喜びが与えられました。すべての財産と肉親を失ってモアブの地で死んでいたナオミの心が生き返ったのです。これを復活と呼ぶことは相応しいことです。しかし、主の言葉は私たちにさらに大きなことを約束してくださっています。私たちが死に勝利なさった方に従う人生を歩む時、私たちも肉体を持って復活することを約束してくださっているのです。凄いことです。この世の悪、これは私たちの周りにある悲しみや苦しみ痛みだけではありません。自分の心を支配する利己的な思い、自己中であり、また怠惰(たいだ)や、妬(ねた)み、嫉(そね)み、恨(うら)み、などなどこれらも悪です。主の愛から私たちを引き離そうとする、悪魔の働きと呼ぶことが出来ます。そんな諸悪によって死んでいる私であっても、主に従う時に、あるいは主に従う時だけに、大いなる喜びに満ちた人生を歩むことが出来るのです。
現在私たちは重く立ち込める黒雲の中を歩むことを強いられています。そのような中にあって、私たちは主イエス・キリストの愛を見失ってはなりません。失意のどん底にあったナオミにはルツとボアズが気概を見せて寄り添うことで希望を取り戻すことが出来ました。私たちは主が寄り添ってくださることを十字架の出来事によって知る者です。だとしたら私たちは失意の中にある方、重荷を抱えている方苦しんでいる方に寄り添おうではありませんか。それらの方のために祈ることから始めようではありませんか。そして主の福音を伝えようではありませんか。その相手は身近にいるのです。
このルツ記は神様の御許に身を寄せる者に対する豊かな導きと慈しみを伝えます。最初に3人の主人公として、ナオミとルツとボアズを上げました。しかし、この4章7ぺージ程の物語の本当の主人公は神様なのです。ルツ記の4章17節にボアズとルツの子供はオベドと名付けられ、オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。この様にあります。
主イエス・キリストはこのダビデの子孫としてベツレヘムに誕生されました。これが神様のご計画であり神様の語られる物語なのです。現代の私たちに至るまで人を愛し続けるご計画であり、私たちは神様の語られる物語の登場人物に選ばれた一人なのです。もう一度ヨハネ福音書6章40節にある主の言葉をお読みします。40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。この約束はどんな時にあっても真実なのです。祈りましょう。