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山形六日町教会

2020年4月26日

聖書:イザヤ書52章7~10節 ローマの信徒への手紙10章13~15節
「良い知らせを伝えよう」波多野保夫牧師

山形六日町教会は4月から新年度に入っていますが、週報の年間主題は2019年度の「神の知恵を知る者として歩もう」がそのまま記されています。この一年、皆さんは神の知恵を知る者であったでしょうか? 
私は、確かに神の知恵、神の恵み、神の導きを感じ知る者でありました。少なくともクリスマスの頃には、この平穏な日々がずっと続くものと思っていました。現在はその驕りを知るとともに、神の知恵、神の恵み、神の導きを求める者としての思いを強くし、祈りを深くしています。
そんな日々にあって、礼拝後に持たれます2020年度教会総会において、年間主題「良い知らせを伝えよう」との提案を皆で受け止め、そして新しい歩みを始めたいと考えています。

本日の説教題としました。主題聖句はローマの信徒への手紙10章13節から15節。教会総会に先立つこの礼拝でみ言葉をご一緒に聞いて参ります。13節 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。使徒パウロは旧約聖書ヨエル書から引用してこのように宣言します。
預言者ヨエルが神様の御心を伝えたのがどの時代なのか、実はハッキリしません。年代を明らかにする言葉がないからです。しかし、イナゴが異常発生して全ての穀物を食べつくすと言う、大きな自然災害の時であったことを1章は語ります。
現在、私たちが経験している大きな自然災害の時と通じるものがあります。しかし、その大いなる災いの向こうに神様の愛の業を語るのがヨエル書3章1節です。その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。 大いなる災いの後に聖霊が降り老人は夢を見、若者は幻を見る。と言います。老人はどんな夢を見、若者はどんな幻を見るのでしょうか? そして私たちは?
ヨエル書3章5節の言葉がヒントになります。 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。 「主のみ名を呼ぶ」とは私たちにとって、主イエス・キリストの名を呼ぶ、即ち救い主と信じて従うことです。主の愛の中を歩む者は「救われる」との宣言です。老人は主に従って歩む幸せな夢を見ます。若者は主に従って歩む幸せな幻を見ます。皆さんはどんな夢を、あるいは幻を見るのでしょうか?
ヨエル書の引用がこのローマの信徒への手紙の他にもう一つあります。使徒言行録2章14節から21節です。復活の主が神様の御許に帰られた昇天の日から10日後のペンテコステの日、今年は5月31日になりますが、2000年前のこの日に、イエス様が約束された聖霊が与えられ教会が誕生しました。様々な地方からエルサレムにやって来ていた人たちは、出身地の言葉で聖霊が語らせる賛美の言葉を聞き、あっけにとられていた時です。ペトロが立ち上がり、声を張り上げ預言者ヨエルを通して神様が告げられた言葉を伝えました。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」 この言葉です。
それでは本日与えられましたロマ書10章13節以下はどんな状況の下でパウロが神様の御心を伝えたのでしょうか?8節から見て行きましょう。では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。「では、なんと言っているか。」 旧約聖書はなんと言っているのかとの問であり、実際申命記30章14節の言葉をパウロは引用して述べます。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。私たちの近くにある言葉、それは愛の言葉です。
ヨハネ福音書1章1節は 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この様に語り始め、神様のみ心を正確に伝える、主イエス・キリストが私たちの近くに共にいて下さる。私たちの心に住んで下さる。その時、私たちの口から信仰の告白と福音の言葉があふれ出るのです。
10章9節 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。私たちは2週間前のイースター礼拝で聖霊の豊かな働き、洗礼式に立ち会いました。具体的に言えば、日本基督教団信仰告白によって主イエス・キリストへの信仰を公に告白し、洗礼を授けられた者は自分の罪が赦され、自由が与えられ、そして永遠の命が約束されるのです。10節 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。 
義とは正しい者、イエス様が私の罪を負って下さり正しい罪のない者と見なしてくださることです。信仰によって「義」すなわち正しい者と見なしてくださる。「信仰義認」と言います。良い行いによるのではなく、ただ信仰だけによるのです。しかし、ヤコブの手紙は善い行いを求めます。それが一番幸せなのだと言うのです。この一見矛盾する二つの教えについて以前お話ししました。繰り返しましょう。
パウロは救いは行いによらないで信仰だけによって与えられると言います。ヤコブは救われた者の信仰がさらに深まる道筋、聖化の道筋では救われた者の感謝の印として、善い行いが自然に出てきてしまうと言うのです。確かに罪を赦して下さった十字架の主への感謝。この感謝に溢れた人生を送れば、善い行いが自然に出てきてしまうでしょう。私にも想像できます。

ここで、「罪」とは何かを復習しておきましょう。それは神様の命令、私たちが幸せな人生を送るために守るべき愛のご命令、「神様と自分と隣人を愛すること」ですね。ここから離れることが「罪」でした。神様を愛することとは神様を礼拝すること。隣びとを愛するとは、自己中心的な考え行動の真逆にあります。そして究極の隣人愛は自分の受けた最高のもの、信仰を分け与えること。いつも申します。信仰は分け与えると減るのではなく増えるのです。
自分を愛すること。聖書にはいくつか悪徳表があるのですが、本日はコリントの信徒への手紙Ⅰ 5章11節をお読みします。不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者 このような者が幸せになるはずがありません。自分を愛する、大切にするとは主に従って生きること。その力を与えてくださる聖書に親しみ祈る生活であり、週ごとの礼拝において愛する兄弟姉妹と共にみ言葉を聴き、賛美し祈り献げることなのです。
しかし、残念ながら私たちは来週から共に集って主を礼拝することが出来ません。試練のただなかにいるのですが、それぞれが置かれた場所において主を礼拝する時を持ちたいと思います。そして再び兄弟姉妹が共に集って主を礼拝する日が回復できます様に祈りを合わせたいと思います。
11節 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 そして13節 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。私たちの救い、具体的には洗礼を受けクリスチャンとして歩む人生は失望に終わることがない。神様の愛の中を歩むのだから。この様に語った彼は一転して言うのです。
10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
イエス様が十字架を負うことで私たちに示してくださった神様の愛、決して失望に終わることはありません。この福音は、全ての人に述べ伝えられなければなりません。これはイエス様の私たちへのご命令です。すでに大いなる恵みを受けた私たちはその福音を自分のものだけにしておいてはいけないのです。
マルコによる福音書16章15節以下です。15 そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。16 信じてバプテスマを受ける者は救われる。今年度の山形六日町教会主題を「良い知らせを伝えよう」この様に教会総会で提案します。例年次の年度の教会主題は1月頃から考え始めます。当時は新型コロナウィルスの問題もほとんど中国での話でした。実は、現在のこのような状況の中で「伝道をしよう。主の救い、主に救われた喜びを伝えよう!」この様な教会主題を提案して良いものかどうかためらいました。 皆さんはどうお考えでしょうか?私が祈りの内に達した結論は、「人々が強い不安を抱き恐怖が心を支配するような時こそ、絶対的に信頼して間違いのない方、主イエス・キリストの愛を伝えることこそが隣びとを愛するのに最も相応しい。」という真理でした。もちろん、今キリスト教講演会や伝道集会を開くことはありません。不安や悲しみの中にある方、ウィルスとの戦いに疲れている方、お母さんお父さんであり、学校や園や施設の先生や職員の方、医療関係の方、人に接する仕事の方、あるいは身近な家族や友人や知人のために。さらに、国や地方公共団体の指導者たちが正しい判断ができるために。そして家で多くの時間を過ごさなければならない子供たちのために。それぞれのために祈るんです。
そして、機会を見つけて不安を覚える方に2メートル以上離れたり、あるいは電話やメールで寄り添ってください。聖書の一節を書いた手紙やはがきも素敵です。これが現在の状況において良い知らせを伝える者なのです。さらにお互いに励まし合うこと、祈り合うことは欠かせません。今は一緒に礼拝に集うことが叶わなくても、あなたの足音、主の福音を運ぶ足音は心に響くはずです。
2020年年間主題に「良い知らせを伝えよう」を提案します。実はこの足音はいつか聞いた足音に違いありません。私たちが洗礼を受けた時、必ず祈っていてくれた人がいたのです。これは確かです。まだ洗礼に至ってらっしゃらない方。ご一緒に主イエス・キリストの愛の中にある人生を歩みましょう。ぜひ良い知らせを伝える者の足音を聞いてください。その方の、あるいは教会の祈りが聞かれたのです。聞かれるのです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。祈りましょう。