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山形六日町教会

2020年4月19日

聖書:イザヤ書40章10~11節 コリントの信徒への手紙Ⅰ15章3~9節
「復活の主」波多野保夫牧師

先週のイースター礼拝で受洗者が与えられました。この黒雲が立ち込めるような重苦しい日々の中にあって、聖霊の豊かな働きを見せていただき感謝いたします。

私がお世話になった牧師が次の様に言っていました。「信仰によって状況をすぐに変えることは出来ないかもしれない。しかし、信仰は私たちの受けとめ方と行動を変える。」確かに私たちは、主イエス・キリストが罪を負って十字架に架かり、もはやこの私を罪のない者と見なして下さる。大いなる愛のもとで豊かな人生が約束されている。これらを知る者です。そして主の大いなる福音を受け止めて従って行くこと、これこそが私たちの信仰だと知る者です。 たしかに「信仰によって状況をすぐに変えることは出来ないかもしれません。しかし、信仰は私たちの受けとめ方と行動を変えることはできます。」
先週、新型コロナウィルス感染拡大の中で私たちの取るべき行動について触れました。世界を創造された神様が優れた研究者たちに明かしてくださった科学的な知見に基づいて行動することが大切であり、「無防備でいることは神様を信頼することではなく、神様を試みることなのだ。」このマルティン・ルターの言葉をご紹介しました。その上でいたずらに怖がるのではなく、黒雲の向こう側に約束されている光、真(まこと)の光、復活の主イエス・キリストの愛に希望を託して行きたいと思います。

本日もご一緒に聖書のみ言葉を聴いて参りましょう。使徒パウロは第2回伝道旅行において、現在のギリシアに位置します当時大変栄えていた港町、コリントに教会を立てることが出来ました。教会と言っても、それは私たちがイメージするような建物ではなく、主イエスを中心として信者宅に集まる「家の教会」でした。
週報に略年表を記しましたが、西暦50年代前半の出来事と言われています。しかしパウロがこの教会を去りますと、人間的な思いが強くなり、彼が伝えた福音から離れて内部の分裂が始まりました。
さらにパウロが本当に使徒と呼ぶにふさわしい人間なのだろうかとの疑念も生まれたのです。主イエスがその頭および中心ではなくなった教会では今日においても容易に起こる事態です。コリント教会の状況に心を痛めたパウロが、おそらくは今のトルコに位置しますエフェソから、西暦54年頃に書き送ったのがこの コリントの信徒への手紙Ⅰ だと言われています。
そしてこの15章で彼は福音の神髄を語るとともに、語り伝える自分が主イエス・キリストによって立てられた正当な使徒であることを主張します。15章1節以下です。15:1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。
「私も受けたもの」とは、教会が伝えて来たもの、キリスト教信仰の神髄です。主イエスの十字架と復活の出来事と、それに続くペンテコステの日の教会誕生が西暦30年頃であり、パウロ、当時のサウロがダマスコの教会を迫害しに行く途上で復活の主に出会ったのが、西暦34年前後です。聖書学者たちが言うには、私たちが手にしています新約聖書の中で、一番早く書かれたのはパウロによる テサロニケの信徒への手紙Ⅰで、教会が誕生した20年後、西暦50年代前半だと言われています。4つの福音書が書かれたのはもっと遅くて一番早いマルコ福音書で70年頃、ヨハネ福音書は西暦100年近く。十字架の出来事の70年近くも後だと言うのです。 私は今から50年前に自分に起こったことをほとんど覚えていません。もちろん学生としてたくさん遊び、チョットだけ勉強し、教会学校の先生を続けていたことは覚えていますが、50年前に主イエスが語られたことを、福音書が語り伝えているように生き生きと述べることはできません。
ではなぜ通信手段も発達していない時代に、離れていた教会に伝えられた主の言葉や業が収められている、4つの福音書がこれほどまでに一致しているのでしょうか。それは、主イエスの出来事を知っている直接の証人たち、使徒や婦人たちの証言が、一つには語り伝えられ、一つにはメモの様な形で書きとどめられ、一つには信仰の中心、福音の中心が短い言葉で要約され伝えられたからです。
神学者たちはこの要約のことをケリグマと呼びますが、時代が下ってさらに整えられていったのが、使徒信条のもととなったローマ信条などです。 波多野先生「語り伝えられたって言いましたけど、それって結構いい加減じゃないですか。あの電報ゲームの時、最初の文章と最後の人の文章がまるで違ったりするじゃないですか。」 確かにそうですね。最初と最後の違いを楽しむのが電報ゲームです。
しかし、最初の教会には福音をぶれることなく、正しく伝えるもう一つの武器がありました。それは旧約聖書です。彼らは自分たちが経験した素晴らしい出来事、主の十字架と復活の出来事の光を旧約聖書に当てて、読み直したのです。

パウロの言葉に戻りましょう。15章3節以下です。3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
パウロが受けたもの と述べるのは各地の教会が語り伝えた出来事やケリグマです。クリスマスの出来事から始まり、数々の教えや力ある業もあったことでしょう。しかし、その中心は私たちの罪のための十字架の出来事でした。
聖書に書いてある通り三日目に復活したこと とあります。最初に、パウロがこの手紙を書いたのは十字架と復活の出来事から20年程が経った西暦54年頃と述べました。新約聖書はまだありません。旧約聖書です。しかし、旧約聖書は十字架と復活の出来事よりはるか昔に書かれたものです。 教会は旧約聖書の中に十字架の出来事に関しての預言を見出したのです。
先ほど読んでいただいたイザヤ書40章、さらに2週間前の受難週礼拝でお読みしましたイザヤ書53章などはその一例です。イザヤはバビロン捕囚の時代、紀元前500年代中ごろに書かれましたが、その当時、ほとんどの人は、この預言の意味が分からなかったことでしょう。しかし、誕生したばかりの教会に集う人達、十字架の出来事の証人たちにとって、その意味は明らかでした。週報に記しましたイザヤ書53章の最後の部分をお読みします。 彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。イザヤ書よりも200年程前の時代、ホセア書6章1節から3節。6:1 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。2 二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。3 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。」
最初の教会の人たちは、このみ言葉を主イエスの出来事として理解することが出来たのです。 十字架の出来事から40年以上後になって、教会に伝えられて来た出来事が書き留められたのにもかかわらず、主イエスの生涯、誕生から死と復活に至るまでの、言葉と業とそれらの意味するところを、福音書が正確に伝えている、その背景をお話ししました。それは、復活の証人たちの語り伝え。出来事のメモ。福音の中心を要約したケリグマ。そして文章化されていた旧約聖書をキリストの光の下で読み直した事です。
十字架と復活の出来事から5年程が経って、クリスチャンを迫害する者から、クリスチャンとして迫害される者に180度変えられたパウロ、彼が正確に主の福音を知ることが出来たのは、教会の存在があったからです。
わたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり この様にパウロが語る旧約聖書に書かれた預言が実現した出来事。
それは、 わたしたちの罪のために死んだこと、4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したことです。この出来事こそが、天地創造の始めからパウロの時代に至るまで、そしてパウロの時代から私たちの今に至るまで、さらに終末の時に至るまで、全ての時を通した真実なのです。変わることの無い神様の愛が示されているからなのです。
15章5節から9節にはその出来事の証人たちが並んでいます。復活の主にお会いした人たちです。しかし、これが不十分なリストであることに後で触れましょう。

現代に生きる私たちです。私たちは旧約聖書を持っています。新約聖書と共に「お前たちを愛している!」という神様の言葉を告げているのですが、なかなか理解が難しいところがあるのも事実です。
パウロは言います。わたしたちの罪のために死んだこと 神様は私たちを愛したくてしょうがないかたである一方、私たちは神様の愛から離れる、即ち罪に支配される者です。
律法がそのことを明らかにしてくれます。いつも言うように、罪に支配された人生が私たちを幸せにするわけがありません。
十字架の出来事、私たちの罪のためにご自分をささげてくださった主の愛、その光の下で、あるいはその愛を前提として、旧約聖書を読むのです。初代教会の人たちはそこに大きな慰めを見出しました。これは「聖書に書いてある通り」とパウロが言うことの意味です。
私たちは初代教会の人たちが持っていなかった新約聖書を持っています。マタイ福音書から始まり、ヨハネの黙示録に至ります。彼らにとって福音書は必要ありませんでした。ペトロやヨハネやヤコブを始め500人以上の兄弟たち。復活の証人たちが教会にいたのです。
今、私たちは初代教会と同じ主の福音に与るのです。私たちの罪のために死んでくださった方、そして三日目に復活なさった方を聖書によって正確に知り、聖霊の働きによってその方が共にいてくださることを感じるのです。日々の生活の場で。聖書に親しむ時に。祈りの中で。そして最も相応しいのが礼拝の時です。残念なことに現在、共に集っての礼拝が出来なくなり、それぞれの家庭で礼拝を守らざるを得ない教会が世界中で増えています。私たちにもその様な日が来るかも知れません。どんな状況にあっても、またどんな形であっても礼拝を休むことはありません。主の愛を見失わないために欠かせないからです。

先ほどパウロが示す復活の主にお会いした人のリストが不完全だと言いました。
それは第一にマグダラのマリアの名がありません。当時のユダヤが男性社会であり、裁判の証人は男性に限られていたからかも知れませんし、主の十字架の時に逃げ去ってしまったのが弟子たちであり、迫害する者だったパウロ自身が主に従う者へと回復していただいたのですから、大いなる罪びとが復活の主にお会いすることで変えられた、その事実を示したかったのかも知れません。
リストの不完全さの2番目は、私たちの名が載っていないことです。でもこれは安心してください。天に置かれている救われる者の名簿、そこには復活の主にお会いして洗礼を受けた方の名前が既に記されています。私たちの国籍は天に在るのです。まだ、洗礼に至っていない方、あなたのために名簿には空欄がとってあります。
十字架に架かってまで主が愛してくださる私たちです。そんな私たちは、主のご命令「神と自分と隣人を愛しなさい。」そして「主の福音を地の果てに至るまで述べ伝えなさい。」どんな時にあってもこのご命令に素直でありたいと思います。本日の説教題を「復活の主」としました。主イエス・キリストは死に勝利された方なのです。 祈りましょう。