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山形六日町教会

2020年4月12日

聖書:詩編88編11~13節 マタイによる福音書28章1~10節
「恐れることはない」波多野保夫牧師

イースターおめでとうございます。主イエスはこの朝、復活なさいました!この事実を私たちは知り、そしてこの事実に生かされている者です。しかし、例年に比べて心なしか声が小さくなってしまう、そんな私であります。主イエスが私たちの罪を負って十字架に架かってくださった。その結果、神様は私たちを罪のない者と見なしてくださる。そして主は三日目に死に勝利なさり復活された。さらに、主イエス・キリストに従う者に永遠の命を約束してくださる。
この事実を強く覚えて感謝を新たにすることは変わりません。去年のイースターと全く変わりません。私の場合は70年間全く変わりませんし、教会の2000年の歴史において常に真実でありました。これからも、主イエスが再び地上に来られる日、終末の日に至るまでそれは変わりません。これが聖書が語る神の愛、即ち福音の神髄だからです。
しかし、現在私たちは、いや世界の教会、世界の人々は、新型コロナ・ウィルスの大きな黒雲に包まれております。その出口が見えない中にあって多くの方が苦しみ、悲しみ、もだえている現実があります。本日の説教題を「恐れることはない」との主のみ言葉にしました。
実は「恐れることはない」という言葉ですが、私たちの新共同訳聖書では、旧約聖書に15回、新約聖書に11回、併せて26回も出てきます。ということは逆に私たちがいかに「恐れに」支配されているかを意味しているのではないでしょうか。神様は私たちの心が「恐れ」に支配される危険性をご存知なので、何度もおっしゃるのです。人が恐れに支配される時、それは悪魔にとってまたとないチャンスです。なぜなら神様の愛を忘れ、神様以外のものに頼ろうとするからです。主イエスの弟子たちはガリラヤ湖を渡るボートの上で、突然襲ってきた嵐に恐れおののきました。傍におられた主イエスは嵐を静められ、そしておっしゃったのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。(ルカ8:25)
しかし、主に信頼することと、科学的知識を捨てて無防備になることとは全く違います。なぜなら科学的な知見は、全てを創造された神様が優れた研究者や学者に自然の仕組みの一部分を明かされたものだからです。海外の話ですが、大勢の集会が禁止されている中、数百人の礼拝を強行した牧師が逮捕されました。実は2000年に及ぶ教会の歴史において、感染症との戦いが何度もありました。本日お配りした4月度の月報に、神戸改革派神学校・吉田校長の論文の一部を掲載しました。1517年の宗教改革のころ、全ヨーロッパの1/3の人々が死に至ったと言われます、ペストが襲った際のマルティン・ルターです。お読みします。
【(2)不必要なリスクを避けよ ルターは、隣人を愛する行動をとる一方で、死の危険や災禍に対してあまりに拙速かつ向う見ずな危険を冒すことの過ちについても述べています。それは神を信頼することではなく、神を試みることであると。むしろ理性と医学的知見を用いて、次のように考えなさいと諭します。 私はまず神がお守りくださるようにと祈る。そうして後、私は消毒をし、空気を入れ替え、薬を用意し、それを用いる。行く必要のない場所や人を避けて、自ら感染したり他者に移したりしないようにする。私の不注意で、彼らの死を招かないためである…。しかし、もし隣人が私を必要とするならば、私はどの場所も人も避けることなく、喜んで赴く。 このように考えることこそ、神を恐れる信仰の在り方であると。ただし、実際の現場においてどのように判断し行動するかは、各自が考えるべきこととしています。】 この様に吉田校長は述べています。
私たちが主を信頼して危機の中を歩むとは、科学的な知識を無視することではありません。科学的な防御策を取らないのであれば、それは神様を試みることだと言うのです。最大限の防御をして自身を守る。感染症を侮らないことが「真に恐れる」ことであり、その上で隣人を助けることが「主への信頼、主への信仰」なのです。科学的な知見を無視したり、逆にパニックに陥ったりしてり「主を愛し、隣人を愛する」ことから離れるのであれば、「あなたの信仰はどこにあるのか」とおっしゃられることでしょう。

さて、本日は説教シリーズ「気概を示す」の五回目です。このシリーズでは毎回聖書が語る一人の女性を取り上げ、彼女の信仰を通して、主の愛を受けている私たちがどの様に歩むべきなのか、み言葉を聞いています。
本日はマグダラのマリアです。彼女は4つの福音書全てに登場します。マグダラはガリラヤ湖北西の漁業の町で、塩漬けにした魚を遠くローマにまで輸出して栄えていました。マグダラ出身のマリアです。福音書の伝える彼女の姿を見て行きましょう。
マタイ福音書27章45節以下には「イエスの死」と小見出しがあります。 27:45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。55 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。56 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。マグダラのマリアは主イエスの十字架での死の証人でした。27章57節以下には「墓に葬られる」との小見出しがあります。61節 マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。 彼女は葬りの証人でした。そして先ほど読んでいただいた28章1節には、さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。とありました。そうです、彼女は復活の証人となったのです。十字架と埋葬と復活の証人となったのは、主が国家反逆罪で死刑になった直後ですから、危険な行動でした。驚きと悲しみ、そして愛する主のためにという思いが恐れを覆いつくしていたのでしょう。主が裏切られ逮捕された時、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。(マタイ26:56)と聖書は記しています。
マグダラのマリアの過去について聖書は一つの事だけを証言します。ルカによる福音書8章1節以下です。8:1 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。2 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。 7つの悪霊が何かは良く分からないのですが、重い精神的な病だったと信じられています。当時精神的な病は悪霊の仕業と考えられていました。ガリラヤで宣教を始められた主に出会い病を癒していただいてから、ずっと主イエスや弟子たちと共に宣教の旅を続け、エルサレムまでやってきました。その間、彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。のです。十字架、埋葬、復活の証人として婦人たちの名が挙げられる時、いつも最初に彼女の名が書かれています。その信仰は誰もが認めるものだったのでしょう。しかも、ヨハネ福音書では復活の主が「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」と最初に声をかけられたのはペトロではなく彼女でした。ガリラヤで主イエスに癒していただいて以来、主に仕えるすなわち「神を愛し」続けて来た彼女です。そんな彼女に主は言われました。28章10節  イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 神を愛し続けてきた彼女へのご命令は、兄弟たちに主の復活を告げ、ガリラヤに行く様に告げることでした。主の復活の事実を告げることを私たちは福音の伝道と呼びます。隣びとを愛することの極致です。ガリラヤは、ペトロやヤコブやヨハネなど弟子たちの出身地、即ち信仰の原点です。
そこで私に出会うことになる。主が逮捕された時、「次は自分たちが」との恐れから逃げ去ってしまった弟子たちです。その弟子たちに信仰の原点、主イエスとの最初の出会いに戻りなさい。「そこで私に会うことになる」復活の主にお会いし、力と勇気が与えられるのです。「恐れることはない。」これがイースターの日の主のお言葉です。
苦しみ、悩み、恐れの時にあって、私たちは与えていただいた信仰の原点に戻るのです。そこで必ず主イエスにお会いできます。ですから「恐れることはない」のです。
この後、私たちは洗礼式を持ちます。受洗者が与えられるのは何時であっても本当に嬉しいことなのですが、この様な状況で聖霊の豊かな働きを見せていただくことは私たちに勇気を与えてくれます。主の御業を賛美いたします。残念ながら歓迎会を開いて、楽しく語らい食事を共にすることはできません。早くその様な時が来ることを願っています。
私たちはいたずらに恐れることはしません。悪魔が喜ぶからです。しかし、神様が教えてくださった自然の仕組み、科学的な知識を用いながら適正に対応して行きたいと思います。復活の主は私たちと共にいてくださる方だからです。祈りましょう。