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山形六日町教会

2020年4月5日

聖書:イザヤ書53章3~10節 ローマの信徒への手紙5章6~11節
「わたしたちへの愛」波多野保夫牧師

本日は棕櫚の聖日と呼ばれています。イエス様がエルサレムの町にロバに乗って入城された際、人々が棕櫚の枝をもって 「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、 イスラエルの王に。」この様に叫びながら迎えた日だからです。しかし、この6日後の金曜日、人々はピラトの前で叫び続けました。「十字架につけろ、十字架につけろ」。
本日からの一週間は受難週と呼ばれますがイースター礼拝の前日までの7日間は特に受難週として、私たちの罪を負って十字架を負われた主イエス・キリストの大いなる愛を覚えて過ごします。明治生まれのクリスチャンだった私の祖母は、友人に誘われたお芝居、あるいはテレビなど、この1週間自分の楽しみを退けて過ごしました。毎年皆さんにダニエルの断食、これはダニエル書に出てくる美食を避ける断食ですが、自分の好きな物、私の場合はワインでしょうか、これを一週間遠ざけ、飲みたいなと思う度に主のみ苦しみを思うのです。人に「ワインを断っている」などと言う必要はありませんし、また願掛けでもありません。ただ主の苦しみが私を罪から解放してくださる為であったことを思い起こして感謝するのです。しかし、今年はこのダニエルの断食をお勧めしませんでした。今私たちがなすべきことは体力をつけて、リラックスが必要な時はくつろいで、心と体の健康を保つことだと考えたからです。
先週には新型コロナウィルスが山形にも迫って来ましたが、大都会や世界を見ればその深刻さが分かります。苦しみの中にある方々、ウィルスと戦っている方々の上に主の慰めと力添えを祈ります。そんな黒雲の立ち込める現在ですが、私たちは知っているのです。暗闇の先にある光を。見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。イザヤ書60章2節のみ言葉です。このことは確かなことです。

ご一緒に受難週に与えられたみ言葉を読んで参りましょう。最初に読んでいただいたイザヤ書53章は、全く罪を犯さなかった方が味わった苦痛とその末の死について語っています。その死は私たちの罪を負っての死、すなわち私たちの身代わりの死であったことを述べています。主イエス・キリストの十字架における死です。
イザヤ書53章3節から5節までの間に、「わたしたち」と言う言葉が9回出てきます。キリストの十字架が私たちの為であることをハッキリと語っているのです。「彼」と書かれているのを「主イエス」、「わたしたち」を「私」と変えてゆっくりお読みします。目を閉じて聞いていただくのがよろしいでしょう。53:3 「主イエス」は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。「主イエス」は「私」に顔を隠し 「私」は「主イエス」を軽蔑し、無視していた。4 「主イエス」が担ったのは「私」の病 「主イエス」が負ったのは「私」の痛みであったのに 「私」は思っていた 神の手にかかり、打たれたから 「主イエス」は苦しんでいるのだ、と。5 「主イエス」が刺し貫かれたのは 「私」の背きのためであり 「主イエス」が打ち砕かれたのは 「私」の咎のためであった。「主イエス」の受けた懲らしめによって 「私」に平和が与えられ 「主イエス」の受けた傷によって、「私」はいやされた。6 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主なる神は彼「主イエス・キリスト」に負わせられた。
当時、病にかかるのは「その人、もしくは家族が罪を犯したせいだ。」と言う因果応報の考えが支配していましたから、主イエスの苦しみはご自身が犯した罪のせいだと思っていましたが、実際はそうではなく「私の」「私たちの」罪を負って下さっての十字架の死でした。5節 「主イエス」が刺し貫かれたのは 「私」の背きのためであり 「主イエス」が打ち砕かれたのは 「私」の咎のためであった。「主イエス」の受けた懲らしめによって 「私」に平和が与えられ 「主イエス」の受けた傷によって、「私」はいやされた。6節に続きます。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主なる神は彼に負わせられた。
かつて千歳幼稚園で羊のメーちゃんが飼われていました。羊はふれあい動物園などで子供が直接触れることが出来る、穏やかで従順な性格をしています。しかし、知能は発達していて人の顔を見分けることが出来るそうです。しかし、警戒心が強くて臆病なので群れを作る習性があり「1頭を捕まえるより100頭を捕まえる方が楽」と言われています。羊飼いたちは何百頭もの羊を数人で、ある時は一人で草のある場所と囲いの間を移動させます。牧羊犬のシェパードは名前からして羊飼いですが、別の方法があり、それは羊の群れの中にヤギを一匹入れるそうです。ヤギは羊と同じウシ科に属する反芻動物ですが、独立心が強くリーダー的な性格をもっており、この一匹のヤギが羊の群れのリーダーになるそうです。ですから羊飼いは長い棒をもって、このヤギをコントロールすれば群れ全体を導くことが出来るのです。
マタイによる福音書25章31節以下よれば、主イエスが終りの日に群れの羊とヤギが分けられ、羊に対して『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』と言われ、ヤギに対して『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』この様にあります。羊飼いに聴き従う羊の従順さが褒められています。私たちが従うべきなのは、群れのリーダーになりたがるヤギではありません。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(10:11)この様におっしゃる、羊飼い主イエス・キリストだけなのです。
イザヤ書53章6節をもう一度お読みします。6 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主なる神は彼に負わせられた。これが私たちの姿であり、これが神様の愛であり、これが主の十字架における死の意味なのです。
53章7節から9節 は ゲッセマネの園でとらえられて以降の主の姿であり行動です。私たちは2週間前にピラトの妻の信仰をマタイ福音書を通して見ましたが、そこには裁判の席で沈黙を守られた主の姿がありました。ただただ神様のご計画に従ってピラトの裁判に耐え、鞭打ちに耐え、十字架の苦しみに耐えられたのです。私たちを愛するが故にです。
10節 主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。隣人を愛し、悪いことを止めて主なる神様に立ち返って幸せな人生を送る。これが主の望まれることです。主イエス・キリストに従う人生、クリスチャンとして歩む人生は、たとえ嵐の中にあても希望を失わない人生です。主が共にいてくださるからです。
新約聖書、ローマの信徒への手紙に進みましょう。イザヤ書の600年近く後、主の十字架と復活の出来事の30年程後に使徒パウロが書いた手紙です。5章6節 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。預言者イザヤから600年の時を経て、パウロはイザヤと同じことを述べます。さらに2000年の時を経て、私も同じことを言います。主イエス・キリストは罪の中にあり、しかも神様を信じ従いきれない不信心な私の為に十字架の上で死んでくださったのです。神様は聖なる方ですから、人の罪をいい加減になさることはありません。
確かに罪をいい加減になさらない怒りの神様がいらっしゃいます。なぜ神様は怒られるのでしょうか? 「聖なる方だから。」正解です。「全てを創造されたご自分に対して逆らい続けるからです。」正解です。しかし、もっと本質的な理由があります。それは「私たちを愛しているから。」です。
いつもこの聖書箇所を読みます。ガラテヤの信徒への手紙5章19節以下です。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、この辺までは自分と無関係とおっしゃるかも知れません。是非そうありたいと思います。まだ続きます。敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。いかがでしょうか、こんなことが私たちを幸せにするはずがありません。私たちを愛するが故に罪をいい加減にせずに怒る神様です。5章8節~9節。 8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もはや、このみ言葉の解き明かしは不要でしょう。キリストが十字架で流された血潮に依って、キリストに従う者を「義」すなわち正しいものと見なしてくださるのです。“神はわたしたちに対する愛を示されました。”
一つだけ付け加えれば、9節に神の怒りから救われる とあり、10節にも救われる とありますがこの「救われる」は未来形で書かれています。キリストに従うことでその愛の中に置かれている私たちは、終末の時、主が再び来られて裁きをなさる、その時の救いが保証されているのです。悪が完全に滅ぼされる時において私たちは「救われる」のです。
私はかつて聖書を読んでいて疑問に思ったことがあります。それは時間の順序です。私たちは「原因があってその結果が起こる。」世界に住んでおり、因果律と呼ばれます。私がホームランを打ったから窓ガラスがガチャンと割れるのであり、その逆はありません。バックトゥザフューチャーと言う映画がありましたが、タイムマシーンは空想の世界でのものです。
確かに2000年前の人にとっては、「罪びとだった」「主イエスが代わりに罪を負ってくださった」「自分の罪を悔い改めて主に従った者は、罪が赦され幸せな人生を送った」さらに「やがて必ずやって来る終末、裁きの時の救いも約束されている」。この順でした。
今の私を考えると、先ほどお読みしたガラテヤの信徒への手紙、悪徳表と呼ばれますが、これを読めば確かに私が罪人だと分かります。しかし、主の十字架の出来事ははるか2000年前の出来事なのです。イエス様の時代の人と順序が逆なことが気になりました。私が罪びとと自覚する前、いやそもそも生まれる前に赦しがあるのです。しかも私は今も罪を犯してしまうのです。どういったことなのでしょうか?
私が達した結論は、ものごとの前後を計る時間も神様の創造されたものだということです。すなわち、神様は時間を超越されているのです。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。ヘブライ人への手紙13章8節のみ言葉です。ですから、主イエスは今日も私のために十字架を負ってくださるのです。そして主に従う私は幸せな人生を歩むのです。
それでも、罪を犯し続ける私はどうなのでしょうか?私たちは週ごとに礼拝を守ります。説教は見えない神の言葉ですが、聖餐は見える神の言葉です。どちらも神様の愛を思い起こさせます。悔い改めへと導きます。私たちは立ち返るべきところを知った罪びとなのです。ですから礼拝はどんな形であれ、生きて行くのに欠かすことが出来ません。ともに集うことが出来なければ、時を覚えて祈るのです。
5章10節11節に「和解」という言葉が出てきます。辞書によれば和解とは「対立するもの同士が、お互いの主張を譲り合って,紛争を話合いによって解決すること。」とありますが、 パウロが言う「和解」とは違う様です。罪を犯し続ける私たちに神様が怒りを覚えられるのは当然です。「愛するゆえに」でした。しかし、「譲りあって」とありますが、譲ってくださったのは一方的に神様の方だけなのです。10節 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。この和解の出来事、一方的に罪を負ってくださった出来事、罪の重荷から解放していただき自由に生きる喜びを感じる出来事、この出来事は正に今も私に、あなたに、私たちに起きている現在進行形の出来事なのです。
これは迷信ですが、13日の金曜日は主の十字架の日とされ縁起の悪い日と言われることがあります。金曜日であることは復活された日が週の初めの日、即ち日曜日だと聖書にありますから確かですが、13日とは書かれていません。13という数字は、最後の晩餐が主とユダを含んだ12弟子の13人だったことから来ているという説もあります。それはともかく13日の金曜日が十字架の日だとすれば、縁起の悪い日どころか、素晴らしい日です。私たちを愛して止まない神様の愛がはっきりとしめされた記念日だからです。
私たちは金曜日の前日、木曜日に洗足の木曜日礼拝を10時から持ちます。当時奴隷の仕事とされていた、足を洗うことをしてまで、イエス様が私たちを愛し仕えてくださることを覚え、感謝する礼拝です。祈りの内に覚えてください。
私たちはこの受難週の一週間、コロナウィルスの黒闇の先にある光、終わりの日に至るまで輝き続ける光を見つめ、希望に生かされた日々を歩みましょう。キリストの愛は きのうも今日も、また永遠に変わること がないのです。祈りましょう。