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山形六日町教会

2020年3月29日

聖書:箴言15章28~29節 マルコによる福音書8章22~26節
「とりなしの祈りとは-2」波多野保夫牧師

説教シリーズ「祈るときには」の14回目です。説教題が「とりなしの祈りとは-2」となっていることにお気づきでしょうか?辞書によれば「とりなす」とは「もめごとの中に立って,仲直りをさせる。仲裁する。」と言った意味ですが、先々週3月15日の「とりなしの祈りとは-1」では、創世記18章22~33節と ヤコブの手紙5章15節16節を通して御言葉を聴きました。
罪にまみれ堕落の極みに達したソドムとゴモラの町を神様は滅ぼすとおっしゃいます。それを聞いたアブラハムが神様に申し上げる、すなわち彼の「とりなしの祈り」がそこにありました。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」主の答えです。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」アブラハムのとりなしの祈りはこれで終わりません。さらに、さらに祈り続けます。その度に主はおっしゃいました。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」「その四十人のためにわたしはそれをしない。」「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」そして、主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。
しかし、創世記19章によれば、ソドムとゴモラの町は滅ぼされてしまいました。正しい人が10人いなかったからでしょう。私たちはこの創世記の記事から次のことを読み取りました。神様は聖なる方ですから、罪をそのままにしておくことはなさいません。罪を犯し続けた者はその責任を取る必要があります。これが天地創造以来、現在まで、さらに終末の時に至るまでの大前提です。聖なる神様は罪に対して厳しい方です。
パウロは次のように言います。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」(ガラテヤ書5:19-21)
ソドムやゴモラの町には肉の業があふれていました。こんな生活が人を幸せにするはずがありません。ですから、神様は私たちが幸せな人生を送るために罪を悔いて主に立ち返ることをどれほど強く望まれ、どれほど長く待っておられるのか。
私たちは今、レントの時にあって、あらためて覚える必要があります。 私たちはアブラハムのとりなしの祈りに対しての神様の応答から、神様は罪びとを赦したくてしょうがない方だと知ります。
さらに、主のご受難の出来事、十字架におけるイエス・キリストの死は私たちの罪を私たちに代わって負ってくださった出来事でありました。そしてそれ以降、主に従う全ての者をあたかも罪のないもののように見なしてくださるようになったのです。
先ほど、「罪を犯し続けた者はその責任を取る必要があります。」と申しました。これは現代においても真理です。しかし、キリストに従う者は罪のない者、自由に生きる者とされるのです。主の福音、喜ばしい知らせとはこのことです。
ここまでお話しすると次のように言いたくなる自分に気付きます。「神様ってずいぶん不公平な方ですね。私は主の十字架の出来事で救われたのは感謝しますが、ソドムとゴモラの町の人はみんな滅ぼされちゃったんでしょう。」急に博愛主義者になって神様のことを非難し始める私がそこにいます。皆さんはどうでしょうか? 神様はなんであんな悪い奴を野放しにしておくのか? 何であんなかわいそうなことを? あるいは、なんで私が? なんで今?
確かに神様の御心が分からないことはたくさんあります。不合理なこと、不公平なこともあります? それは、イエス・キリストに従う者にも起こります。確かに理解を越えたことは起こります。「神様なぜですか?」と問わざるを得ないことは起こります。
これが私たちの人生だと言ってみても何も解決しませんではどうするのか? 確実な対処法が2つあります。
1つ目。自分の過去を振り返る事。そこに必ずや神様の愛の御業を見ることが出来ます。
2つ目。これは絶対に揺るがないものです。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ福音書3:16)この言葉を出発点として現実を見るのです。
「とりなしの祈り-1」では次の聖書の言葉をお読みしました。ヤコブの手紙5章15節16節。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。
そして、次の言葉で閉じました。「私たちは、互いのために祈り合っていきたいと思います。」それから2週間。とりなしの祈りを覚える時だったでしょうか?

再び御言葉を聞いていきましょう。マルコによる福音書8章22節です。8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。ベトサイダはガリラヤ湖の北の畔にあるペトロとアンデレの故郷です。8章1節以下で4000人の群衆にパンと魚の給食をなさった後ですから、その力ある業はガリラヤ地方一帯で評判になっていたことでしょう。
人々は主イエスのもとに一人の盲人を連れて来ました。それ自体が「とりなしの祈り」と呼ぶに相応しい愛の業です。彼らがどこまで確信を持っていたのかは分かりませんが、この盲人の助けとなればという純粋な気持ちからの行動でしたし、何よりも盲人を連れてきた相手が良かった事は確かです。「波多野先生。ただ連れてきただけじゃないですか。「愛の業」なんて少し大げさでしょう。」確かにそうかも知れません。しかし、「相手が良かった。」と言いました。主イエスのもとに人を連れてくる。これは現代の私たちにも強く求められています。「伝道」と呼ばれます。
イエスの所に連れてきて触れていただきたいと願った。私たちの洗礼式では牧師が水を頭につけます。滴礼と呼ばれます。しかし、実際洗礼を授けてくださるのは、主イエスが私たちの所に遣わしてくださった聖霊です。まさにこの時、主イエスが私たちの心に触れてくださるのです。主イエスが触れてくださる洗礼、素敵ですね。
人を連れてきて触れていただく際に「とりなしの祈り」は必須です。なぜなら祈りの伴わない行動は大変危険なものとなる可能性があるからです。
23節 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。主イエスは大勢の盲人の目を開かれました。このマルコ福音書では10章にバルテマイの記事がありますし、ルカ福音書7章には大勢の盲人をみえるようにしておられた。とあります。
パラリンピックの種目にブラインドサッカーというのがあり選手たちの俊敏な動きとファイト溢れるプレーには驚かされます。ですから、目の不自由な方は大変だと一方的に言って良いのかためらいもありますが、2000年前の社会的な支援制度がほとんどなかった時代です。
主イエスは慈愛の心から大勢の盲人の目を開かれていました。しかし、それは主イエスにとって危険を伴う事でもあったのです。聖書に、イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。(ヨハネ6:15)とあります。人々は主の力ある業を見、力ある言葉を聞いて、ローマ帝国の圧政から解放してくれる王の姿を見ていたからです。主イエスにはそのようなお考えは全くありませんでした。
現代の民主主義国家にあっては、為政者は選挙によって選ばれますから、政治家は当選したその日から次の選挙に向けた戦いが始まるのだと言われています。議員は「選挙落ちればただの人。」などと言われます。ですから、できるだけカッコ良く見える場面でマスコミに取り上げてもらい、自分を話題の中心に置く必要があるそうです。主イエスは、わざわざ盲人を村の外に連れ出して癒されました。
26節では、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。このように癒しの力だけがクローズアップされるのを嫌ってらっしゃいます。
慈しみの心、慈愛の心が燃え立つのを抑えきれなかったのですが、結果的にはこの民衆の人気が祭司長や律法学者たちの妬みを買い、十字架への道へとつながったのです。十字架を負ってまで、私たちを憐み、愛してくださる方なのです。
さて、目の治療法ですが「その目に唾をつけ両手をその人の上に置いて」とあります。旧約聖書は神様にささげる動物の頭に手を置いて祈る習慣を記していますし、主イエスも子供や病人に手を置いて祈られました。使徒言行録では使徒たちが手を置いて聖霊の働きを促しています。現代において、按手礼を受けて牧師としてたてられる際にも手を置いての祈りが献げられます。三位一体の神の働きを祈り願ってのことです。
一方「目に唾をつけ」の方は、私たちには奇妙に思われますが、唾液に薬効成分があると考えられていた時代に、この盲人にも分かりやすい方法を取られたのでありましょう。

注目すべきは次です。 盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。最初はぼやけて見えたのですが、イエス様が二度目に 両手を目に当てられるとよく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった のです。福音書は主イエスがなさった、奇跡と呼ぶのが相応しい癒しの業を多く記していますが癒しは即座に行われました。
マルコ福音書10章51節以下、バルテマイの場合です。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。バルテマイはすぐ見えるようになりました。ルカ福音書やヨハネ福音書の場合も同様です。
私たちはこのふたつの事実。「すぐに」と「最初はぼやけて、二度目にはっきりと」この二つから何を読み取るのでしょうか?それは、神様のなさる業は、すぐに表れる場合もあれば、時間がかかる場合もあると言うことです。祈りに関して言えば、すぐに叶えられる場合もあれば、時間が経ってからの場合もあります。
いつも申し上げている言葉で言えば「前から分かっていた。」と「今はその時ではない。」ですね。エジプトでの奴隷の苦しみから救い出されたのは40年後のことでした。信仰に関しては、パウロのようにクリスチャンを迫害する者から、クリスチャンとして迫害される者へ、一気に180度転換する場合があります。神学校にも洗礼を受けて2年目に献身して牧師の道を目指す人がいました。
一方、洗礼はクリスチャンとしての出発点ですが、比較的若い時に授けていただき、それから長い人生の中でキリストの愛の本当の広さと深さを知る方もいらっしゃいます。しかし、私は自分が本当にキリストの愛を受け入れることが出来るのは、神の国においてなのかも知れないと思ったりもします。皆さんはいかがでしょうか?
その一方で、すでに地上には「神の国のひな型」が置かれています。教会です。私たちは少なくとも教会において、本当のキリストの愛を知ることが出来るはずです。なぜなら週ごとの礼拝は、神と、信仰の友と言う隣人と交わる、大いなる喜びの時だからです。そんな喜びを知る私たちはどうするのでしょうか?
私たちは、それぞれが聖霊の導きに素直であれば良いのです。もちろん、聖霊の導きに素直であるとは、何もしないことではありません。必ずやクリスチャンとして奮い立つ機会が与えられます。その時に素直に従うのです。なぜなら、それはもっと幸せな人生への招きに違い無いからです。「わたしは、体が弱いから、年を取ったから、あるいは忙しいからクリスチャンとして奮い立って従うことはできない。」それはうそです!
隣人のために、家族・友人・職場や学校の同僚・山形の人・日本の人・世界の人、そして教会の友のために祈ること、特に「とりなしの祈り」を祈ることが出来ます。平安であり、癒しであり、幸せであり、そして何よりも信仰が与えられるように「とりなしの祈り」を祈るのです。

祈る際に大切なことをいくつかお教えしましょう。
1. すぐに祈る。友の話を聞いたら「祈っていますよ。祈りますよ。」ではなくできるだけその場で祈ります。それが難しければ「今晩祈ります。」と告げるのです。私は過去1年くらいの間に重荷を負った何人かの方からの電話を受けました。それぞれに重い話で私の力では負いきれません。そこで電話口で祈りました。電話の向こうとこちらで聖霊の助けを感じるものでありました。
2. 「神様は祈りを必ず聞いていてくださる。」この確信をもって祈るのです。友人のためのとりなしの祈りでも、自分の願いでも同じです。必ずやそれに答えてくださいます。
3. 神様の答えに耳を澄まします。神様の答えは大声とは限りません、心を研ぎ澄まして聴く、黙祷をすることもよいでしょう。それでもお答えが聞き取れなければしつこく祈るのです。不正な裁判官ですら、やもめの執拗な求めによって、公正な裁判を開きました。神様は必ず答えてくださいます。
4. この盲人がそうだったように、最初はぼんやりとしていた神様のお考えが、やがてはっきりと見えて来る事もあります。焦ってはいけません。独り子を与えてくださる程に私たちを愛していてくださる神様です。信頼して待つのです。
5. 祈ってくれるように、信仰の友に頼む。これも大切です。
最初に読んでいただいた箴言15章29節は言います。主は逆らう者に遠くいますが 従う者の祈りを聞いてくださる。ヤコブの手紙5章13節以下です。5:13 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。14 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。「正しい人」とは、キリストに従って生きるあなたのことです。十字架の主が、あなたの罪を負って下さり、あなたを「正しい人」と見なしてくださっているからです。互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。 祈りましょう。