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山形六日町教会

2020年3月15日

聖書:創世記18章22~23節 ヤコブの手紙5章15~16節
「とりなしの祈りとは」波多野保夫牧師

正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。
先週の水曜日3月11日には、発生から9年目を迎えました東日本大震災の記念礼拝が天童教会で開催されました。長谷川衛牧師が「日々新たに」との説教題で未来に希望を託す説教をして下さり、皆で祈りを共にする時でありました。
今、また新コロナウィルス感染症が世界に広がる状況にある重い空気の中で、レントの時を過ごしていますが、その向こうには主の十字架が光り輝いていることを知る私たちです。
様々な災害、私たちの思いを越えた出来事の中で、苦しんでいる方、重荷を負ってらっしゃる方、労しておられる方、それぞれを励まし力づけてください。さらに私たちが思い上がりを捨て出来事に対して希望を持って真摯に立ち向かうことが出来ます様に聖霊の助けを祈ります。アーメン

本日も主のみ言葉に耳を傾けてまいりましょう。説教シリーズ「祈るときには」の13回です。すべての祈りの基本は主イエス・キリストが教えてくださった祈り、「主の祈り」にありますが、私たちは様々な時に、様々な状況で祈ります。
礼拝での「公同の祈り」は、司式を担当してくださる長老さんが良い準備をして祈ってくださいます。献金の感謝の祈りも当番の方が祈ってくださいます。信仰の友と祈りを分かち合う時、これは楽しいものです。
一人になっての「密室の祈り」。心に移り行く様々な思いを神様に聞いていただき、そしてその答えを聞く。悲しみの時には共に悲しみ、喜びのときには共に喜んでくださいます。私たちの教会では、自分の言葉で祈る「自由祈祷」が多いのですが、良く練られた「祈祷書の祈り」を口に出して読むこともまた素晴らしいものです。
この説教シリーズ「祈るときには」の第1回から12回までの説教題をお読みしてみます。説教の内容を思い出してくださいとは言いませんが、祈りの豊かさに思いを馳せながら聞いてください。「願う前から」。「どんなことでも」。「山を動かし谷を埋める祈り」。「御心を聴く」。「神の沈黙」。「一人になって」。「静けき祈りの時」。「神の武具を身につけなさい」。「栄光から栄光へ」。「命にいたる香り」。「独りになって祈る」。「素直になる」。いかがでしょうか。皆さんの日々の祈りに重なる部分が多く有ったに違いありません。祈りについて何度も申し上げたことをもう一度繰り返しておきましょう。
1つ目は祈りは聞かれるです。2つの「いいえ」か2つの「はい」をもって答えてくださいます。「いいえ、あなたの恵みは十分だ。」「いいえ、今はその時ではない。」「やっと願ったね、前から分かっていたよ。はい、かなえてあげよう。」「はい、分かった。しかし、願ったよりももっと良いものをあげよう。」この4つの答えです。もし神様の答えがなかなか聞こえてこないのならば「しつこく祈るのです。」必ずや答えてくださいます。しかし、自分の願ったことと違うからと言って、神様の答えを無視することはだめです。自分の望んだ目がでるまで、サイコロを振り続けることは許されません。「何を祈ってもかまいません」が、いただいた答えに対しては従順でなければだめです。
2つ目は、みなさんにとって、「苦手な人」あるいは「嫌な奴」がいるのではないでしょうか。罪びと同士の間に起こりがちなことです。しかし主は「敵を愛しなさい。」「敵の為に祈りなさい。」この様におっしゃるのですが、皆さんいかがでしょうか。次の祈りをお勧めしています。「あのいやな波多野さんが神様に近づきます様に!アーメン。」 敵対して三角形の底辺で離れていたあなたと、いやな波多野です。しかしこう祈ることで波多野はやがて、神様に近づく違いありません。あなたも敵のために祈ったのですから、神様に近づきます。この時三角形の底辺で遠く離れていた、二人は三角形の頂点にいらっしゃる神様に、それぞれの辺に沿って近づきますから、あなたと波多野の距離も近づきます。さらに言えば、やがて頂点にいらっしゃる神様の御許で一緒になるのです。祈りに関してこれら二つのことを覚えて実行していきたいと思います。

さて、本日は「とりなしの祈り」についてです。辞書によれば「とりなす」とは「もめごとの中に立って,仲直りをさせる。仲裁する。」この様にあります。司式の市川長老に読んでいただいた創世記18章23節以下には、神様とアブラハムとのやり取りが記されていますが、ここに至る背景からお話ししましょう。
創世記はこの世界の全てを神様が創られた天地創造の物語から語り始め、アダムとエバが邪悪な蛇の誘いに乗って神様に逆らう者となっていく様子を伝えます。原罪と呼ばれますが、罪が幾重にも重なっています。「園の中央の木の実だけは食べてはいけない。」との神様のご命令を破りました。そしてエバは「蛇がだましたので、食べてしまいました。」と蛇のせいにし、アダムは「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」と神様のせいにしたのです。自分の犯した罪を人のせいにする。それどころか神様のせいにする。私の原点が創世記にチャント書かれているんですね。彼らの犯した罪が「原罪」、全ての人が抱えている罪の性質とでも言うのでしょうか、こう呼ばれることが良くわかります。
そして創世記4章は、エデンの園を追放されたアダムとエバの息子たち、カインとアベルの物語です。昨日の夕礼拝ではこの物語を読みました。兄カインが弟アベルを殺してしまう人類最初の殺人事件です。原因は兄の弟への嫉妬でした。この性質もまた今日に至るまで受け継がれています。
それから何世代か経った後の世界。創世記6章5節6節です。6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。ノアの洪水の物語が続きます。方舟の中で洪水を逃れたノアから何世代かが経ち、再び地上に増えていった人類が為したことは、バベルの塔の建設。自分たちを神様に並び立つ者、あるいは神様を越えようとする人類のおごりです。いちいち言うのが嫌になりますが、これもまた私たちの中に容易に入り込む罪です。
さらに何世代かが経って12章においてアブラム、後のアブラハムの登場です。少しホッとします。彼は神様に選ばれたイスラエル民族の父と呼ばれる、信仰深い人だからです。彼はソドムとゴモラの町が見渡せる所に来ました。この町については創世記13章10節以下に次の様に記されています。アブラハムが甥のロトと別れる場面です。13:10 ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。11 ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。12 アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。13 ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。ソドムとゴモラはヨルダン川流域にありましたから、農耕に適した肥沃な土地であり、町は繁栄していました。生活の安定、豊かさ、貧富の差、そして高慢と退廃と言うお決まりのコースをたどっていました。【エゼキエル16:49参照】「現代においても」とあらためて言う必要はないでしょう。13節 ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。こんな町に対して主はおっしゃいます。18章20節。 「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。21 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」 主が見て確かめられればその結果は明らかです。そこでアブラハムは神様に話しかけます。
神様とアブラハムの対話ですから、これはアブラハムの祈りです。23節以下です。18:23 アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。24 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。25 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」26 主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」 
アブラハムは一生懸命ソドムの町のためにとりなしの祈りをします。50人の正しい人がいる時に、神様は町全体を滅ぼされるのですか?悪い者も正しい者も一緒に滅ぼされるのですか?45人ではどうでしょうか? 40人では? 30人、20人 10人では? 主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」 主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。 
この物語はアブラハムの交渉術をたたえるのでもなければ、神様がお考えを簡単に変えられる方だと言うのでもありません。私たちは、まずアブラハムのとりなしの祈りが真剣なものだったことを見るべきです。神様がいら立って顔をそむけてしまわれても不思議ありません。彼の目的は何とかしてソドムの町の人たちを神様の怒りから助け出したい。その一点でした。アブラハム自身が何か利益を得るためではなく、ソドムの町の人を愛するが故の行動と言って良いでしょう。
最初に「何を祈ってもかまいませんが、いただいた答えに対しては従順でなければだめです。」この様に申しました。そして説教シリーズ「祈るときには」の説教題を12回分お読みしました。
ところで、祈りの中で、自分のための祈りはどれほどの割合を占めるでしょうか? 私の場合は相当に高いと思います。祈りの持つ力を知るほどに他の人、隣人のために祈る割合が多くなると言われていますが、いかがでしょうか?「波多野先生。神様はご自分の思うがままになさる方であり、またそのことが私たちにとって一番幸せなことなのだと頭で理解しています。だったらなぜ祈る必要があるのですか?」 自然な疑問ですね。
考えてみましょう。私たちは神様の愛が大きすぎて、それを見誤ったり見えなくなったりすることが往々にして起こるのではないでしょうか。そんな時、私たちがいつも見ることが出来るあるものを思い出すのです。
そうです、主の十字架です。神様が独り子に十字架を担わせることで、私たちを罪のない者と見なしてくださる。こんなことを考えた人は一人もいませんでした。
もう一度繰り返しましょう。「神様はご自分の思うがままになさる方であり、またそのことが私たちにとって一番幸せなことなのです。」だったらなぜアブラハムはこれほどまでに真剣にとりなしの祈りを祈り、神様はアブラハムの祈りに誠実に答えられたのでしょうか?これは、なかなか難しい質問です。33節には 主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。この様にありますが、神様は10人の正しい者、神様に従う者を見出して、約束された通りにソドムの町を滅ばされなかったのでしょうか?そうであって欲しいと、アブラハムは願いましたし、私もそう願います。現代の日本の、あるいは世界の状況と重ねてこの言葉を聞くからです。

創世記19章には神様がソドムに住んでいた、アブラハムの甥にあたるロトだけを正しい人と認めて、救い出してくだった記事があります。27節以下です。 19:27 アブラハムは、その朝早く起きて、さきに主と対面した場所へ行き、28 ソドムとゴモラ、および低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた。29 こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。アブラハムのとりなしの祈りは完全には聞かれなかったようです。救われたのは正しい者と認められたロトだけでした。ソドムの町に正しい人、神様に従う人が10人に満たなかったのでしょう。
さて、この一連の出来事を私たちはどの様に解釈したらよいのでしょうか? 全てをご存知であり、全てを支配なさる神様がなぜとりなしの祈りを求められるのでしょうか?あるいは祈ることを求められるのでしょうか? 私たちが祈りを大切にしなければならないのは、神様がそのことをご存知ないからではありません。
先ほど申し上げた「祈りは聞かれる」4つのパターンの中に「やっと願ったね、前から分かっていたよ。はい、かなえてあげよう。」がありました。神様は全てをご存知なのです。それでもなお、私たちは祈る必要があります。なぜなのでしょうか? それは「祈る私の、あなたの、そして私たちの心と行いとを整えてくださるためなのではないでしょうか。」
真剣に祈る時には、必ずや罪の思いと謙遜さが生まれ、そして大いなる恵みと希望が見えて来るに違いないからです。週報に記しました、ヨエル書2章12~14節 には「主の慈しみ」と言う小見出しが付いています。2:12 主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。13 衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに富み くだした災いを悔いられるからだ。14 あるいは、主が思い直され その後に祝福を残し あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を 残してくださるかもしれない。14節に「主が思い直され」とありますが、祈りによって私たちが罪深さに目覚め、謙遜になり神様の本当のご計画、神様の愛が見えてくる。神様の愛はどんな時でも変わることは有りませんから「主が思い直される」とは神様のお考えが変わるのではなく、正しく神様の愛が見えてくる。
すなわち私たちが変わるのです。私たちが愛の神様を正しく見つめることが出来る様にしてくださる。これこそが正に「主の慈しみ」なのです。
アブラハムはへりくだった態度で、ソドムとゴモラの為に真剣に祈りました。必要な正しい人の数を50人から10人まで減らすことに成功しました。その際彼は、神様がすべての人を愛しておられ、人々が幸せな人生、神様の愛の中を歩むことをいかに望んでいらっしゃるのかを知ったのです。
ではなぜソドムの町は、正しい人、ロトを除いて滅ぼされてしまったのでしょうか? これも週報に記しました。歴代誌下7章14節 もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。ソドムとゴモラの人々は罪を悔い神様に立ち返ることをしなかったからです。神様は罪をいい加減になさる方ではありません。厳しい方なのです。私の、あなたの、私たちの罪に対してどれほど厳しいのでしょうか? 独り子を十字架に架けるほど、罪に対して厳しい方なのです。

本日はとりなしの祈りがテーマです。究極のとりなしの祈りがあります。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」十字架上での主イエスの祈りです。私は、6年前六日町教会に遣わされて以来、「噂話禁止」と言ってきました。噂話がもとで崩れて行った教会を知っていたからです。しかし、「友の様子を尋ねて祈る。祈りが伴うのであればそれは噂話ではありません。」とも言い続けています。
最初に読んでいただいたヤコブの手紙5章15節16節。 5:15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。 16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。私たちは「互いのために祈り合っていきたいと思います」祈りましょう。