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山形六日町教会

2020年2月23日

聖書:詩編139編23~24節 ルカによる福音書5章12~16節
「独りになって祈る」波多野保夫牧師

説教シリーズ「祈るときには」の11回です。前回2月2日には「命に至る香り」と言う題で説教しましたが、最後に【私たちがいただいた最高の贈り物、信仰ですね、その信仰を届けたい3人の人を思い浮かべてください。そして、あなたを通して香(かぐわ)しいキリストの香りを届けられるように祈って下さい。これは今日の宿題です。】この様に申しました。いかがだったでしょうか。
忘れてしまった方、初めて聞く方は今日実行してください。祈ってくださった方は続けてください。パウロは信仰と、希望と、愛はいつまでも残ると証言します。友のために祈り続けることは信仰であり、希望であり、そして愛に違いありません。

さて、ルカによる福音書5章12節から16節までを読んでいただきましたが、本日の中心聖句は16節です。主イエスが祈りの人であったことを覚え、私たちも祈りの豊かさの中に日々の生活を置く者でありたいと思います。
12節から14節を丁寧に読み進めることから始めましょう。イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この「重い皮膚病」は2000年前のユダヤ地方において、極めて過酷なものでした。旧約聖書レビ記13章45,46節です。「13:45 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。 46 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」
ヨハネ福音書9章1節以下に本日の聖書箇所と同じように主のなさった癒しの出来事が記されています。9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。この当時、ハンディキャップを負っていたり、重い病に侵されているのは、「犯した罪に対して神様が罰を与えられているのだ。」と考えられていたことへの主イエスの回答です。この様な時代ですから、重い皮膚病を患った人は肉体的にも霊的にも汚れているとみなされ、町に入ることは禁じられ、当然神殿での礼拝に加わることもできませんでした。ですから家族や友人との交わりなど人間関係のみならず、神との関係も断たれていたのです。全くの孤独の中で、しかも多くの人は病変によって働くことが困難でしたから、家族などが町の外の住む場所に届けてくれる食料にすがって生きていたのです。
ある日、この重い皮膚病を患っている男はひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願いました。ここで注目したいのは、「主よ」と呼びかけている点です。この言葉は、すべてを支配なさる方、すなわち神様を意味する他に、尊敬をこめて先生と言った意味で使われることもありました。町はずれに住む彼の耳にも、イエス様が力強く福音を語り、病人を癒しておられることは届いていました。ひれ伏す行為は今も昔も絶対的な服従を表します。ではなぜ、「主よ」と呼びかけたのでしょうか。二つの可能性があります。
1.力ある業をなさっていることは、町の外で生活している自分にも伝わってきた。この方は神の子に違いないと思い「神様」と呼びかけた。
2.病気を治してくれればもうけもの。少しおだてて「先生」と呼んでおこうか。
この男は「神様」と呼びかけたに違いないのです。なぜなら12節は「イエスがある町におられたとき」と語ります。
先ほどレビ記をお読みしました。重い皮膚病の者は、家族から離れて町の外にある宿営に住まなければなりませんでした。これは律法の命令ですから、もし破るならば死を覚悟しなければなりません。命の危険を冒して町に出て来たのです。そしてひれ伏して「神様、あなたは力ある方です。もしそれがお心にかなうならば、私の汚れを拭い去り、私を清い者にすることがおできになります。」この様に願ったのです。彼は「私の病気を癒してください。」ではなく、「汚れを清めてください。」と願っています。これは、「私の罪を除いてください。」との祈りです。イエス様は手を差し伸べてその人に触れられました。
この重い皮膚病の男の友となってくださった瞬間です。家族・親戚・友人から隔絶され町の外に住まなければならなかったこの男に、人との関係が回復された瞬間でありました。神殿での礼拝が禁じられていたこの男に、神様との関係が回復された瞬間でありました。そして「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去ったのです。
14節です。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」先ほどお読みしました、旧約聖書レビ記13章に続きます14章には、祭司が重い皮膚病が治ったと判定した後に行う「清めの儀式」が事細かに記されています。そこには贖いの儀式、すなわち罪が献げものに移され焼き尽くされることで赦される儀式が含まれていました。この「清めの儀式」によって、神との関係が回復する、すなわち神殿での礼拝に参加することが許されます。
さらに町の人々が清くされた事実を知り、交わりが回復されるのが律法の定めでした。 しかし、この男はイエス様が手を差し伸べてその人に触れられ、「よろしい。清くなれ」とおっしゃられたその時に、すでに病は癒され、神との関係、人との関係が回復されました。主イエスが与えてくださる福音は律法をはるかに超えるのです。
本来、人が神と自分と隣人を愛して豊かで幸せな人生を送るために与えられた律法を、律法学者やファリサイ派の人々は、人から自由を奪う縄目としてしまっていました。そんな律法を主は成就されたのです。ですから今、私たちの罪は主に従う信仰によって赦されます。ですから、焼き尽くす献さげものは私たちの礼拝には全く必要ありません。現代における、神との正しい関係、人との正しい関係の回復。教会はまさにこのために存在しています。
なぜなら教会は、主イエスに出会い、その愛に触れることが確実にできる場所だからです。さらに週ごとの礼拝はその頂点にあると言って良いでしょう。主の愛の内を歩む兄弟姉妹が、共に神のみ言葉を聞き、賛美し祈り献げる喜びの時だからです。誤解を恐れずに言えば、キリスト教は「究極の御利益宗教」です。最高の喜びが与えられるからです。
さて、ルカ福音書5章14節で主は男に厳しくお命じになりました。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、町の外に住まざるを得ない者の栄養状態が良い訳が有りませんし、特効薬の無い時代です。重い皮膚病が治ったとなれば、テレビやSNSがなくても、噂は瞬く間に広がって行きました。15節。 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。 極めて自然な成り行きです。確かに主は様々な場所で病気を癒されました。
もちろん、人々の苦しみを理解してくださる方ですから、未熟な医療体制の時代にあって、苦しむ人に同情されたのは事実です。しかし、様々な癒しを与えられた人たち、この重い皮膚病を癒していただいた人を含めて、やがては全員神様の御許に召されました。死をまぬかれることは有りませんでした。
癒しの目的。それは週報に記しましましたが、“あなたの信仰があなたを救った”との主の宣言に注目する必要があります。ルカ福音書7章50節は涙で足をぬらし、髪の毛で拭い、頭にオリーブ油を塗ってくれた罪深い女に対して“あなたの信仰があなたを救った”とおっしゃり、8章48節は12年間出血が止まらなかった女に。17章19節は今日の聖書箇所と同じように重い皮膚病を患った人に。18章42節は盲人に対して言われました。苦しむ人に安らぎを与えることを大切になさったのですが、人々が信仰を持ち神様に立ち返えらせる事こそが、ご自分の使命と考えられていたのです。 そして、その極みが私たちの罪を負っての十字架における死であったことを私たちは知っているのです。“あなたの信仰があなたを救った”この様に言っていただける私たちでありたいと思います。
5章16節 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。大勢の人から慕われており、神様のお考えを力強い言葉と業で示す絶好のチャンスににもかかわらず、なさったことは「人里離れた所に退いて祈ること」でした。 聖書原典によれば「人里離れた所」と訳されている言葉は複数形になっており、しばしば祈られたことが分かります。
週報にはルカ福音書から5か所週報に記しておきました。後でお読みになってください。この他にも6章12節には そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。とあり、十二人の使徒を選ばれました。9章12節以下は5000人の給食。賛美の祈りを唱えてからパンと魚を分け与えられました。
22章では最後の晩餐での聖餐式の制定に際して。さらに、ペトロに、間もなく私を裏切ると告げられた時におっしゃいました。22:32 わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。同じ祈り、信仰が無くならないようにとのイエス様の祈りに、私たちは支えられているんですね。
24章ではエマオ途上で出会った弟子たちの家で食事を共にされた時に祈ってくださいました。「その時二人の目が開け、イエスだと分かった」とあります。食事の度に繰り返す祈りに、緊張感と喜びをあらためて感じます。
もう一つ大切な祈りがあります。十字架の時を直前に控えたオリーブ山での祈りです。22:42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。 主イエスがいかに父なる神との対話の時、祈りの時を大切になさったのか。しかも私たちを愛する故に。私たちは、祈りの末に神様が与えられた答えに対して、イエス様が素直であったことを覚える必要があります。聖書通読でルカ福音書に来ましたら「祈りの人、主イエス」を意識しながら読み進めてください。大いなる主の愛をさらに感じることでしょう。

5章16節に戻りましょう。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。 本日の説教題を「独りになって祈る」としました。私たちは「礼拝」での祈り、「聖書に聞き、祈る会」での祈り、様々な集まりや友と祈ること。大きな恵みであり喜びです。
しかし、「独りになって祈る」大切さを学びたいと思います。なぜなら、主がしばしばそうなさったからです。 私たちは、多くのことに囲まれ、多くのことに心を配り忙しく日々を送ることが多いのではないでしょうか?仕事、勉強、家事、子育て、買い物や趣味の時間、教会での奉仕や聖書通読の時間 やること、やらなければならないこと、やりたいこと。ほとんどの時間が埋まってしまっているのが現代人の特徴かも知れません。豊かな時間の流れに身を任せることが出来るとすれば、それは主に感謝すべきでしょう。
忙しさの中でなお「独りになって祈る」ことが必要です。なぜでしょうか?それは、自分が何者であり、何のために存在しているのか? 人生の目的は何なのか? 忙しく時間に追われっぱなしでは、心の中に聖霊のためのスペースを作ることはできません。
パウロは言います。邪悪な時代にあって、悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。(エフェソ6:10-19)
もし私たちの心の中に聖霊の火が燃え続けていないのであれば、悪魔の格好の餌食となるでしょう。誘いは巧妙です。最初は、そのくらいいいだろう、みんなやっている。いつもやる訳じゃないし。この様な誘いに思い当たることがない方。神様に感謝してください。
独りになって静かな祈りの時間を持つ必要がもう一つあります。それは全て身の周りにあるもの、起こっていることを、主イエスを基礎として、考え直し、並べ直すことです。自分の価値観を主イエスの価値観で置き換えるのです
「イエス様ならばどう考え、どう行動なさるのか?」と問うのです。独りになって、自分が毎日つけている仮面を外し、自分の素顔を鏡に映します。そして祈ります。その時、かならず聞こえてくるささやきがあります。「あなたのことを、愛しているよ!」「あなたのことを、愛しているよ!」
最初に読んでいただいた詩編139編23,24節。139:23 神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。24 御覧ください わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを とこしえの道に導いてください。とこしえの道とは、神様の愛の中を歩む人生です。永遠の命につながっています。
私の祈りに続いて1分間心の中で祈ってください。最初にお願いした心に浮かぶ3人のために祈るのも良いでしょうし、聖霊の導きを願うことも大切です。 祈ります。父なる神様、私たちは今週の水曜日からイースタに向けて40日間のレントの時、主の十字架と復活の時を特に覚えて、我々の罪を贖ってくださった感謝の日々を過ごしてまいります。どうぞ豊かな聖霊の導きを与えてください。私たちの歩みを主イエスを基礎として、並び変え、幸せな人生を歩むものとしてください。その為に私たちの心の中に聖霊が宿ってくださいますように願います。
どうぞ1分間の祈りを持ってください。  
これらの祈り主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン