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山形六日町教会

2020年2月16日

聖書:イザヤ書12章1~3節 ヨハネによる福音書4章4~33節
「その水をください」波多野保夫牧師

先週から新しい説教シリーズ「気概を示す」が始まりました。このシリーズでは、聖書が語り伝える多くの女性の姿を通して、彼女たちの示した信仰者の気概を見て行こうと思っています。
第一回は旧約聖書エステル記の主人公、ペルシャ王の妃になったエステルの示した気概、彼女は唯一の神を主と仰ぐ同胞の祈りに支えられ、同胞のために命を捨てる覚悟で、許可なく王の前に出ると言う気概を見せました。
そして、シリーズ第一回だったこともあり、併せて男性の示した気概にも触れました。説教の最後の部分を繰り返しましょう。
【シモン・ペトロは、主イエスの説教に耳を傾けることから、大漁という奇跡へと導かれ、神の独り子、主イエス・キリストを見いだし、すべてを捨てて従う気概を見せました。
私たちです。現代においてペトロたちのように、全てを捨てて主に従うことは極めて困難ですが、それでは、欲望や所有欲や自尊心など何も捨てないのであれば、礼拝に集うことも、祈りや献金や時間や奉仕をささげることもできません。もちろん捨てたものに勝る恵みは約束されていますし、皆さんすでにその経験をお持ちでしょう。ある牧師が以前語ってくれました。「波多野君、無理はしちゃいけないよ。だけど無理しなくちゃいけないんだよ。」私たちはどこに気概を見せるのでしょうか?神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ福音書3章16節のみ言葉です。】このように語りました。

さて、皆さんの一週間はいかがだったでしょうか。気概を持っての一週間だったでしょうか。この礼拝の時は、再び主の福音に目覚め「悔い改め」「感謝し」「思いを新たにする」時です。ご一緒にみ言葉に聞いて参りましょう。
司式の市川長老に読んでいただいた、ヨハネ福音書4章には「イエスとサマリアの女」との小見出しが付けられています。大変豊かな内容にあふれ、長い箇所ですが丁寧に読んで行きましょう。
主イエスはやがてユダヤ地方の中心都市エルサレムで、神様のお考えに従って十字架に架けられるのですが、今はまだその時ではありません。いったん故郷のガリラヤに帰られる際に通られたサマリアの町での出来事です。
皆さんはルカ福音書10章にあります「良きサマリア人の譬え」をご存知だと思います。強盗に襲われたユダヤ人を助けたのは、神殿に仕えるレビ人でも祭司でもなく、不純な信仰だと言って馬鹿にし、嫌っているサマリア人でした。主は「強盗に襲われた人の隣びとになったのは誰か?」と問われましたが、そこには「私もこれから敵を愛する。」すなわち私たちの罪のために十字架を負われる思いが込められていたに違いありません。
このサマリア地方は、ダビデ王が紀元前1000年にユダヤを統一した際に王国に加えられましたが、その息子ソロモン王が亡くなると紀元前926年にエルサレムを首都とする南ユダ王国と、サマリアを首都とする北イスラエル王国に分裂してしまい、その北イスラエル王国は200年後の紀元前723年にアッシリア帝国によって滅ぼされてしまいました。
その間、預言者エリヤ、エリシャ、アモス、ホセアなどが立てられ、王と民に対して、神様に立ち返る様に警告したのですが、彼らがそれを聞き入れることは無かったのです。
アッシリアが採った占領政策は、強制移住と他民族、すなわち他の神々を信じる者との強制結婚でした。サマリアに住むイスラエルの人々が再びアッシリアに歯向かわない様に、民族の純粋性を消し去ったのです。南ユダ王国の人々はそんなサマリア人を軽蔑しました。4章9節に ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。とあります。
6節以下です。正午ごろのことである。7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。水汲みは女性の仕事とされていましたが、出かけるのは、夕方涼しくなってからでした。井戸の周りは楽しい語らいの場であり、井戸端会議が持たれたことでしょう。暑い真昼間に水を汲みに来る人はいません。この女性には人目を避けたい理由があったに違いないのです。
10節 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」二人の話にずれが生じています。しかし今、聖書を読む私たちはこの女性の困惑の原因を知っています。それは正午ごろに歩き疲れて井戸端に座っている旅人が誰なのかを知らないからです。
しかし、11節で彼女は「主よ、」と呼びかけ、これ以降「主よ」と語り続けます。その理由は19節 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 物腰や風貌、語り口から権威ある方に違いない。もしかすると預言者の一人かも知れない。彼女が示した精一杯の理解です。11節12節でヤコブに触れます。アブラハム、イサク、ヤコブ。彼女も親から宗教教育を受けていましたから、ユダヤ人の祖先ヤコブが神様に忠実だったことは知っていました。
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」主がおっしゃる「命の水」「決して乾くことの無い水」が何を指しているのか、私たちは知っています。
しかし、彼女は理解していません。15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」私たちを常に生かしてくださるのが命の水です。それはあなたにとって何でしょうか? お金や食べ物や権力や学力や地位。その様なものが大切で無いとは言いませんが、やがては枯れてしまいます。第一天国に持って行くことはできません。
ルカ福音書12章に愚かな金持ちの譬えがあります。大きな蔵を穀物でいっぱいにして「さあ、これで安心だ。」と言った金持ちに、神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われました。
パウロの言葉を借りれば「命の水」は 信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(Ⅰコリ13:13)そうです、私たちの内に住んでくださる聖霊が与える「信仰と、希望と、愛」は決して渇くことがありません。いや私たちからあふれ出して、周りの人、隣びとを潤すのです。
ここでも二人の会話はかみ合わず意外な方向に向かいます。「人目を偲んで汲みに来なくて済むように、その水を下さい。」と言う彼女に16節 「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われます。答えは「わたしには夫はいません」。しかし、追求はやみません。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」過去に5度結婚をした経験があり、現在は別の男と同棲しているのでしょう。この事で町の連中に非難されており、彼女が真昼間に人目を避けて水汲みに来なければならない原因なのです。

ここで少し横道にそれます。私たちは2000年前、あるいは旧約聖書でしたら3000年前の出来事であったり、教えを2020年の現代にあって解釈します。聖書のみ言葉を聞き、現代において生きて働かれる聖霊の導きによって解釈し、理解し、実行します。
しかし、歴史的に様々な聖書解釈の仕方が提唱されてきました。聖書は一字一句正に書かれている通りとする解釈。極端な例では創世記の記述に反することから遺伝の法則を否定します。それと反対に寓喩的解釈。これは書かれていることが、具体的な事柄の譬えだと解釈することです。
他にも聖霊との出会いによって神の言葉となる。「全て聖書は私のことを証ししている」との主の言葉に基づいてキリストの十字架の出来事を前提に解釈する、などなど様々です。これ以外は間違いと言う方法はなく、聖霊の導きを祈り、他の聖書箇所も踏まえて、信仰告白の光のもとに理解するのが適切です。

さて、彼女の5人の夫に関しての寓喩的解釈、これは5つの民族のことを譬えているのだとするのです。週報に列王記下17章を記しました。24節から32節にアッシリアの取ったサマリアに他の民族を移住させ、結婚させる政策が記されています。29節以下をお読みしましょう。29 しかし、諸国の民はそれぞれ自分の神を造り、サマリア人の築いた聖なる高台の家に安置した。諸国の民はそれぞれ自分たちの住む町でそのように行った。30 バビロンの人々はスコト・ベノトの神を造り、クトの人々はネレガルの神を造り、ハマトの人々はアシマの神を造り、31 アワ人はニブハズとタルタクの神を造り、セファルワイム人は子供を火に投じて、セファルワイムの神々アドラメレクとアナメレクにささげた。32 彼らは主を畏れ敬ったが、自分たちの中から聖なる高台の祭司たちを立て、その祭司たちが聖なる高台の家で彼らのために勤めを果たした。41 このように、これらの民は主を畏れ敬うとともに、自分たちの偶像にも仕えていた。その子も孫も今日に至るまで先祖が行ったように行っている。
5人の夫は5つの民族の神々を表し、今連れ添っているのは夫ではない。と主が言われたのは、異教の神々と混じり合い純粋さを失ったサマリア人の信仰を表していると言うのです。古代において広く行われた聖書の解釈方法ですが、この場合は大変説得力があります。4章9節に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」と書かれている、原因がここにあります。そんなサマリア人は再建されたエルサレム神殿で礼拝することが許されなかったので、サマリアにあるゲリジム山で異教の神々と主なる神を同時に礼拝したのです。現代ならば、教会の礼拝が終わったら神社やお寺に行って参拝し、さらに幾つかの新興宗教の礼拝に参加するようなもので、全くあり得ないことです。
4章20節。 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。たしかに、これはユダヤ教の主張です。しかし、神の独り子主イエスに従うキリスト教は違います。
21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
救いはユダヤ人から来る たしかに主イエスだけでなく、12弟子やパウロも旧約聖書の時代に神様の民とされたユダヤ人でした。しかし、主イエス・キリストの十字架と復活、さらにペンテコステの日に聖霊が降り、教会が誕生したことによって、今、私たちはこの山形六日町教会で父なる神を礼拝しています。ですから、私たちは霊と真理をもって父なる神を礼拝するのです。しなければならないのです。聖霊に心を開き主イエスが指し示してくださった愛の神を信仰を持って礼拝する。これが私たちが為すべき礼拝です。
25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」サマリアにおいて、唯一の神と異教の神に対する信仰が混じり合った中に有ってもメシヤを待ち望む思いは消えていませんでした。主イエスはこの女性に「もう待たなくて良い、あなたの救い主は来たのだ。」と告げられたのです。
ここで町に食べ物を買いに行っていた弟子たちが帰ってきました。主がサマリアの女性と話しているのを見て驚いた、とあります。ユダヤ人が嫌うサマリア人、しかも当時社会的地位の低い女性と直接話されているのをみて驚いたのです。

本日、は説教シリーズ「気概を示す」の2回目として、ヨハネ福音書4章を読み進めてきました。実はこのテーマについてお話しする準備が27節までで整いました。この女性が示した気概。28節29節です。28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 
辞書に気概とは「困難や逆境に屈しないこと。自ら立ち向かって行くこと」とありました。彼女は町の人と絶対に顔を合わせたくないので、暑い真昼間に水汲みに来ていたのでした。その彼女が自分の方から町の人たちの所に行って、主イエスこそメシアだと告げたのです。苦しみの程度を比較することにどれほどの意味があるのか分かりませんが、サマリア人の苦しみはユダヤ人たちの苦しみに勝った苦しみだったでありましょう。なぜなら、ローマに絶対服従しなければならず、重い税金を負担していたことは、ユダヤ人もサマリア人も同じでしたが、それに加えて、異民族と強制結婚させられて民族の純粋性を失い、列王記下17章41節にあるように これらの民は主を畏れ敬うとともに、自分たちの偶像にも仕えていた。その子も孫も今日に至るまで先祖が行ったように行っている。すなわち宗教的純粋性も失っていると言ってユダヤ人に避難され迫害されていたのです。ですから、メシア、すなわちこの世の重荷から解き放ってくれるに違いない救い主を待ち望むことにおいて、ユダヤ人と同じ、いやそれに勝っていたと考えられます。

ここまでお話しすると、なぜサマリア人の彼女が絶対に顔を合わせたくない町の人の所に自分から進んで行ったのか、気概を示したのか、その原因は明らかでしょう。そうです、彼女は心を開いて主のみ言葉を受け入れ、恐れを乗越えるに十分な大いなる喜びを得たのです。井戸端で出会った主イエスの言葉によって、彼女は命の水、聖霊をくださる方を見出したのです。
さて、私たちです。今、霊と真をもってこの礼拝に集い、聖書の伝える主のみ言葉を耳にしています。「生きた水」「決して渇くことのない命の水」をくださる約束の言葉に接しています。そんな私たちも主に愛されている者として、気概を示しましょう。「困難や逆境に屈しないこと。自ら立ち向かって行くこと」。もちろん自分が抱える困難に立ち向かうこと。ぜひ祈りを持って立ち向かってください。主が生きた水を与えてくださいます。
困難にある家族、友人そして隣びとのために祈る。一人で祈るだけでなく、祈りの友を見つけてください。主は「決して渇くことのない命の水」を与えてくださいます。さらに、あなたの祈りから始まる隣人を愛する行動。主は共にいて下さり助けてくださいます。サマリアの女性が、そして私たちが気概を示すことが出来る。実はそれは心を開いて聖霊を受け入れるからです。まだ、洗礼を受けるに至ってない方にお勧めします。心を開き聖霊を受け入れる気概を見せてください。必ずや豊かな人生を過ごす者となります。絶対に確かです。主の十字架がその保証です。
さて、彼女の示した気概、自分を軽蔑する町の人にも大いなる喜びを届けた気概はどのように用いられたのでしょうか?主イエスが復活なさり、神様のもとに帰られ、ペンテコステの日に聖霊が降り教会が誕生しました。その後の教会の発展を伝えます、使徒言行録8章には、「サマリアで福音が告げ知らされる」との小見出しが付けられています。
十二弟子の一人フィリポは サマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。町の人々は大変喜んだ。フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。
さらに、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。このようにあります。サマリアの女性が気概を示した5~6年の後の出来事です。主イエスの弟子たちによってサマリアに主の福音が伝えられたことが聖書にはっきりと示されているのです。これは神様の大いなるご計画であり、聖霊の働きです。素晴らしいですね。同じ聖霊が私たちにも働いて下さっていることを感謝して、祈りましょう。