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山形六日町教会

2020年2月9日

聖書:エステル記4章5~8節 ルカによる福音書5章1~5節
「逆境にあって」波多野保夫牧師

司式の山口長老の祈りにありました様に、神保智子さんが2月4日主の御許へと召され、昨日葬儀が行われました。近年は礼拝を共にすることが叶いませんでしたが、長い間、山形六日町教会のために、また千歳幼稚園のために祈り支えてくださいました。2週間前にみんなで訪問し祈りを共にできたことは大きな喜びでした。その生涯に亘る、主の豊かな恵みと導きとを感謝いたします。

さて私たちは、説教シリーズ「信仰に生きるとは」で、ヤコブの手紙を読み進めましたが、20回を持って1月19日に終了しました。主の兄弟ヤコブはクリスチャンに対して、すなわち主イエス・キリストに従うことで幸せな人生と永遠の命が約束された者に対して、「聖化」聖なる者へと変わっていく、正確には変えていただく、その幸せを述べました。そして信仰の実践、すなわち「神と自分と隣人を愛する」行いを求めるのでありました。
ヤコブの手紙2章14節が彼の勧めを良く表しています。 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。いかがでしょうか、皆さんはこの一年ヤコブの手紙を読み続けることによって、自分に起きた変化に何か気づかれたでしょうか?あまり意識していなくても心配はいりません。礼拝でみ言葉を聞き続けることは、必ずや私たちを聖なる方、主イエス・キリストの似姿へと変えて行くからです。「聖化」は聖霊の働きによって起きるのです。

さて、本日から新しい説教シリーズ「気概をしめす。」が始まります。気概とは、辞書には「困難や逆境に屈しないこと。自ら立ち向かって行くこと」とあります。
以前、アメリカの作家、レイモンド・チャンドラーの言葉を紹介しました。「強くなければ生きられない。優しくなれなければ生きている価値がない。」なかなかの名言だと思うのですが、クリスチャンにとって「強い」とは、権力や財力、あるいは強靭な肉体を意味するのではありませんし、学校の成績でもありません。もちろんそれらがあって悪いわけではありませんが、私たちをおごり高ぶらせる危険が常にあります。 確かに複雑化した現代においてある種の強さは必要でしょう。パウロは言います。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。(エフェソ6:10)
旧約聖書ヨシュア記には わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。(ヨシュア1:9)週報に記しました。私たちクリスチャンの本当の強さ、それは共にいてくださる主に感謝し、依り頼むことにあるのです。「強くなければ生きられない。優しくなれなければ生きている価値がない。」この名言をはいたレイモンド・チャンドラーは男性ですが、説教シリーズ「気概をしめす。」では、主に聖書に登場する女性の示した気概、すなわち信仰に生きた姿を通して私たちの信仰を見つめ直そうと思います。
旧新約聖書の背景にあります2000年前、3000年前のパレスチナ地方は明らかに男性優位社会であり、女性や子供の社会的地位は大変低かったと言われています。
しかし、現代に於いては日本の多くの教会、いや世界の多くの教会が女性たちによって支えられている現実があります。私たち山形六日町教会においても多くの重荷を負ってくださっています。私はしばしば「恵まれた女よ、おめでとう!」と口語訳聖書で、天使がおとめマリアに告げた言葉を用いて感謝の意を伝えていますが、現代は国の方針として、男女共同参画社会の構築を目指している時代です。現在、六日町教会の婦人会は活動を休止していますが、これは教会において、男女共同で重荷を負って行こうとの意味を含んだ休会です。
旧約聖書にも、また新約聖書にも大勢の女性が登場します。マリアだけでも、主イエスの母マリア、ガリラヤ湖西岸の町マグダラ出身のマグダラのマリア、マルタとラザロの妹、ベタニアのマリア。イエス様の十字架刑に立ち会ったクロパの妻マリア、その他にも数名のマリアが登場します。
そんな女性たちの中で一番人気はと言えば、旧約聖書に登場しますルツだそうです。彼女を始めとする女性たちが示す「気概」すなわち「困難や逆境に屈しない、あるいは自ら困難を負っていく」姿を見て行こうと言うのがこの説教シリーズです。繰り返しになりますが、私たちの2020年は男女共同参画社会です。ご一緒に聖書の語る女性像を見て行きたいと思います。

第1回の今回、まず取り上げるのはエステルです。しかし、このエステルは絶世の美女であったせいかどうか分かりませんが、特に保守的なクリスチャンには人気がありません。その理由は、ユダヤ人は律法によって異教徒との結婚を禁じられていたにもかかわらず、ペルシャ王クセルクセスの王妃になり、しかも王宮で豪華な暮らしをしたからだそうです。果たしてそうでしょうか?
エステル記の4章5節から8節を読んでいただきましたが、エステル記は10章12ページほどの物語です。聖書通読で出会っていただきたいと思います。先ほど申しました様にエステル記は一つの物語を構成していますので、ストリーを追うことから始めましょう。
エルサレム神殿がバビロニア帝国によって破壊され、多くの人が捕虜としてバビロンに連行されたのが紀元前587年のことでした。バビロン捕囚と呼ばれます。その50年後バビロニアの覇権はペルシャへと移り、多くのユダヤ人は故郷へと帰ることが許され、エルサレムに戻った人たちは、破壊された神殿を再建しました。ソロモン王が献げた神殿に比べて簡素なものでしたが第2神殿と呼ばれます。
しかし、ユダヤ人の中には故国に戻らずペルシャに留まる者もおりました。エステルもその中の一人です。彼女は両親を失っていたため、従兄弟に当たるモルデカイが自分の娘として引き取って育てました。ユダヤ人の家庭ですから、しっかりとした信仰教育、唯一の神に祈りを献げ律法の教えを守ることは当然でした。
エステル記1章2章は、そのエステルがひょんなことから、ペルシャ帝国の王クセルクセスの王妃となっていく次第を語ります。この時エステルはモルデカイの忠告により、異国の民ユダヤ人であることを秘密にしました。
3章ではユダヤ人モルデカイが大臣ハマンの恨みを買うようになります。王宮の門を出入りする大臣ハマンに皆がひざまずいて敬礼するのですが、モルデカイだけはそうしないのです。自尊心が高くうぬぼれていたハマンにとって、それは耐え難い侮辱と映りました。それではなぜ、モルデカイはひざまずかなかったのでしょうか? それは「ひざまずいて頭を低くするのは神様だけ。」と言うユダヤ人の気概です。大臣ハマンの怒りはペルシャ帝国に住む全ユダヤ人へと広がって行き、 クセルクセス王に取り入ってユダヤ人絶滅の触れ書きを出すに至ったのです。
4章はエステルの命を懸けた行動が描かれます。5章6章は多くのユダヤ人たちの祈りに支えられた王妃エステルの機知に富んだ行動。7章8章では大逆転がおこり大臣ハマンは失脚。
10章はモルデカイがペルシャの宰相となって平和と繁栄をもたらしたことが語られます。
しかし、9章はユダヤ人の復讐です。先日の夕礼拝では、この聖書箇所を次の様に語りました。【モルデカイとエステルが行った復讐劇は、当時の道徳基準から外れていません。神に従うユダヤ人を抹殺しようとした者には、その罪の責任をとらせるのです。一方、私たちは主イエスの愛、十字架の道を歩まれた愛を知っています。もしこの愛を知らないとしたら、抹殺することは別にして悪を懲らしめることは十分正当化できるでしょう。しかし、わたしたちの罪の為に十字架の道を歩まれた方の言葉です。 わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタイによる福音書5章44節です。敵を愛することは敵の為に祈ることから始まります。】

エステル記4章を読み進める準備が整いました。ユダヤ人絶滅の危機に際しての、「王妃エステルの命を懸けた行動」と言いました。4章8節です。モルデカイは ユダヤ人絶滅の触れ書きの写しを託し、これをエステルに見せて説明するように頼んだ。同時に、彼女自身が王のもとに行って、自分の民族のために寛大な処置を求め、嘆願 するように伝言させた。この伝言を受け取ったエステルは2つの理由で困惑しました。1つはもちろん、ユダヤ人が絶滅の瀬戸際にあることですが、もう1つは王の所に行って民族のために寛大な処置を求めなければならないことでした。 当時の王宮では、たとえ王妃といえどもお呼びなくして王の前に出ることは死罪に値したからです。これは王が雑務に煩わせないためであり、また暗殺の危険を避けるためであり、さらに王の権威を高めるためでありました。 この時エステルはクセルクセス王の不興(ふきょう)を買って30日間もお呼びの無い状態が続いていました。「私はお呼びも無いのに王の前に出ることはできません。」これに対するモルデカイの返事は鋭いものです。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」あなたが今王妃であるのは神様のご計画ではないのか! この様に詰め寄るのです。
最初に、エステルは保守的なクリスチャンに人気がないと申しました。その理由の一つは、このエステル記には一切、神とか主と言う言葉が出てこない点にあります。異教の国のなかで子供たちに信仰を受け渡し主を信頼し迫害に耐えて生きた人々です。太平洋戦争中の日本においても同じような状況が有ったと聞きます。私たちは、逆に「主よ、主よ、」と言う不信仰も知っています。
ルカ福音書6章46節以下の主イエスの言葉です。週報に記しました。わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。 しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。私たちの人生における洪水。様々な困難や悲しみ苦しみが押し寄せる時にあっても、み言葉を聞いて行う者。礼拝に集い聖書を読み祈る者。人それぞれに神様が期待される行いは異なるでしょうが、基本は「神と自分と隣人を愛する」ことにあります。

エステルの行動に戻りましょう。モルデカイに送った返書です。4章16節17節  「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」 そこでモルデカイは立ち去り、すべてエステルに頼まれたとおりにした。
断食は神様に強く心を向けるための行為です。大いなる祈りです。エステルは言うのです。「私は命を懸けて、唯一の神を愛する同胞のために王の所に行きます。皆で祈りを一つにして神のご加護を祈ってください!」彼女の見せた気概は神に従う多くの者たちの祈りに支えられていたのです。エステルとモルデカイ、さらには異教の国ペルシャに住むユダヤ人の祈りが聞かれたことは、エステル記5章以下が伝えています。

さて、男女共同参画時代です。ここで男性の見せた気概に触れるべきでしょう。主イエスが30歳になられた時、神の国について語り、力ある業を示し、人々に悔い改めて神様に立ち返る様に求められての旅、宣教の旅を始められました。
ルカ福音書5章は、その初期にガリラヤ湖の漁師だった、シモン・ペトロ、仲間のゼベダイの子ヤコブ、そしてヨハネの3人を弟子とされた様子を伝えています。ここに、気概を示した漁師たちの姿が語られています。
4章からたどれば、主イエスは悪魔の試みに勝利した後ガリラヤ地方に帰られ、神の国について力強く教え人々の尊敬を集めました。しかし、自分の故郷で受け入れられることはありませんでした。小見出しを追えば31節「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」。38節「多くの病人をいやす」。42節「巡回して宣教する」。
そして、本日与えられました5章1節です。 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 この頃には、大勢の追っかけが生じていました。そこで漁師のシモンに舟を出してもらい、そこから岸に集まった群衆に神様の国と神様の愛、すなわち福音について語られたのです。イエス様は舟のへさきの方に腰掛け、シモン・ペトロは舟の艫(とも)の方にイエス様と向き合う様に座ったのでしょう。ですから彼は、いわば特等席で主の恵みの言葉を聞いたのです。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 夜通しの漁は不良であり、網は既に洗って片付けていた。それでもイエス様を乗せる為に舟を出しました。疲れ切っていたペトロになおも「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われる主イエス。真昼間に沖に魚がいないことは漁師にとっては常識です。それでも彼は「馬鹿なこと言うんじゃないよ! こちとら疲れているんだし不漁でイラついてるんだ。」とは言いません。彼は言いました。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。
何がそう言わせたのでしょうか? 何が彼にこんな無理、すなわち理屈に合わないことをさせたのでしょうか? 主イエスが多くの病人を癒された噂は彼も耳にしていたことでしょう。しかし、彼は何時突風が吹き下ろすかわからないガリラヤ湖の漁師です。自分で見て聞いて判断することで身を守り、また大量の獲物を得てきたのです。だとしたら唯一考えられる原因は、舟の中の特等席で聞いた主の福音の言葉、説教と言って良いでしょう。福音の言葉が彼の常識を乗越えて「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」この様に言わせたのです。私はこんな説教が出来ると良いと思っています。説教者は聖霊の助けを祈り準備し語ります。皆さんは聖霊の助けによって語られた言葉を理解します。ですから、語る者受ける者双方がお互いのために、聖霊の導きを祈る必要があります。
5章6節以下です。 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。5節で「先生」と呼んでいたシモンが「主よ」と呼んでいることに注目してください。彼は神の独り子、主イエス・キリストを見たのです。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。3人のキリストの弟子が誕生しました。彼らは気概を見せたのです。
すべてを捨ててイエスに従った。と言うのは私たちにとって、確かに難しいでしょう。しかし、何も捨てないで主に従うはできません。この後、讃美歌522番「キリストにはかえられません」を賛美しますが、「世の楽しみよ、され、世のほまれよ、行け。」とあります。ただし、ここで「され!」と歌うのは「世の楽しみ」です。キリストに従う楽しみ、キリストに用いていただく楽しみ。大いに楽しみたいと思います。
エステルは唯一の神を主と仰ぐ同胞の祈りに支えられ、同胞のために命を捨てる覚悟で、気概を見せました。
シモン・ペトロは、主イエスの説教に耳を傾けることから、大いなる奇跡へと導かれ、神の独り子、主イエス・キリストを見いだしました。すべてを捨ててイエスに従う気概を見せました。

私たちです。欲望や自尊心など何も捨てないのであれば、礼拝に集うことも、祈りや献金や時間や奉仕をささげることもできません。もちろん捨てたものに勝る恵みは約束されていますし、皆さんすでにその経験をお持ちでしょう。ある牧師が以前語ってくれました。「波多野君、無理はしちゃいけないよ。だけど無理しなくちゃいけないんだよ。」私たちはどこに気概を見せるのでしょうか? 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ福音書3章16節のみ言葉です。 祈りましょう。