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山形六日町教会

2020年2月2日

聖書:エレミヤ書29章4~7節 コリントの信徒への手紙Ⅱ2章14~17節
「命にいたる香り」波多野保夫牧師

先週に続いてコリントの信徒への手紙Ⅱからみ言葉を聞いていきます。2章14節です。神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。パウロは勝利の行進について語りますが、ローマの凱旋パレードをイメージしていたのだろうと言われています。しかし、パウロが活躍したのは紀元50年頃であり、ローマ帝政時代に当たります。この時代の凱旋式は実際に戦争を勝利に導いた将軍ではなく、最高司令官の地位にある皇帝を軍事的、政治的、宗教的指導者として賛美するものとなっていました。ですからパウロは将軍の凱旋パレードを実際に見たのではなく、少し前の共和政ローマ時代の華やかなパレードの様子を伝え聞いて、そのイメージを勝利者キリストに重ねたのでしょう。
ローマ市内を練り歩いたパレードは時代によって変遷があったのですが、ファンファーレに続いて、鎖につながれた捕虜たちが歩かされ、豪華な戦利品や略奪物が続き、その後に元老院の議員たち、そして4頭立ての馬車に乗った凱旋将軍が月桂樹の冠を付けて登場しました。行列には竪琴を手にした楽士たちや、香炉を振り回して行進する祭司たちの姿もあり、立ち上る香りは、間もなく処刑されたり戦争奴隷としての運命が待っている捕虜たちにとっては死の香りであり、一身に栄誉を受ける将軍にとっては喜びに満ちた命の香りだったに違いないのです。
これは余談になりますが、中世の修道院で修道士たちの朝の挨拶の言葉、「メメント・モリ」これは「汝死すべきことを覚えよ」ですが、これが毎朝の挨拶だったのです。スゴイですね。何時かは必ず死が訪れる私に新しい朝を与えてくださった。感謝の一日を始めよう。」このような意味でしょうか。しかし、この言葉は、凱旋将軍が4頭立ての馬車に奴隷を載せて言わせたのが起源だと言われています。ローマ市民から大歓迎される英雄はまた、元老院議員たちの逆怨みによっていつ貶(おとし)められるか分かりません。「いい気になるな。油断するな。」でしょう。「メメント・モリ」はまた「食べ、飲め、歌え、陽気にやろう。我々は必ず死ぬのだから!」この様にも解釈されました。
21世紀に入ってスティーブ・ジョブズは有名なスタンフォード大学での卒業講演で、「死を見つめた時、様々なしがらみから解放されて本当にやりたいこと、やるべきことが見えてくる。」この様に述べました。もちろん私たちは死に勝利され復活された主イエス・キリストに従う時に永遠の命に与ることが約束されています。ですから、 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。ローマの信徒への手紙14章8節のみ言葉です。
さて、それでは私たちに「メメント・モリ」「汝、死すべきことを覚えよ!」はどの様に響くのでしょうか?「新しい朝を感謝して一日を精一杯生きる」のか、「謙虚さを忘れない様にする」のか、「快楽を求めるのか」。それとも、私たちにとってやるべきこと、「神と自分と隣人を愛すること」への思いを篤くするのでしょうか。
本日与えられた聖書に戻る前に、先週の復習を少ししておきましょう。週報に記しましたコリントの信徒への手紙Ⅱ3章18節をお読みします。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。「栄光から栄光へ」と言う説教題で、キリストの似姿へと変えられていく幸せをお話ししました。10年前、あるいは5年前の自分を思い起こしていただき、「聖化」の道を主と共に歩んでいる恵みを思い起こしていただきました。
主イエスの似姿へと変えていただく「聖化」の道は人によっては劇的変化であり、人によっては極めてゆっくりとしたものです。しかし、礼拝を共にし御言葉に接し、祈り賛美し告白し献げ奉仕することで、より「神と自分と隣びとを愛する」者へと変えられる。礼拝の約1時間が、一週間の残りの167時間に何らかの変化をもたらしているハズなのだ。この様に申し上げました。
あなたにとって、この167時間、あるいは先週礼拝に出られなかった方は335時間はいかがだったでしょうか? この間、神様はあなたに何を語り掛け、具体的に何を求められたのでしょうか?私たちは、この礼拝の1時間程をこれからの167時間の備えとして大切にしたいと思います。なぜなら、神様は「あなたのことを愛しているよ!」「わたしと自分と隣人を愛しなさい。」この様におっしゃっているからです。
これも週報に記しました。エフェソの信徒への手紙5:1-2です。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

本日の聖書箇所、コリントの信徒への手紙Ⅱ2章14節以下には「キリストを知ると言う知識の香り」「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香り」「滅びる者には死から死に至らせる香り」「救われる者には命から命に至らせる香り」この様にあります。本日の説教題を「命に至る香り」としました。
旧約聖書の出エジプト記、レビ記、民数記などに、犯した罪を贖っていただくための「焼き尽くす献げ物」があります。これは雄の家畜を焼き尽して、神様だけにその香りを献げると言う、イスラエル民族がまだ遊牧生活をしていたころから伝わる礼拝形式だと言われています。
現在、私たちの礼拝では、動物を焼くことで罪を赦していただく様な事はしません。これは、私たちが罪を犯さない人間だからではありません。主イエス・キリストがすでに十字架によって私たちの罪を負ってくださり、神様との正しい関係を回復してくださったからです。焼き尽くす献げ物は今や全く必要ないのです。
15節にあります、「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」は、私たちは本来犯した罪。いつも申し上げます様に、神と自分と隣人を愛し尽くすことが出来ない私は、その罪の故に、裁かれるべき者なのですが、「キリストを知る知識」すなわち信仰によって良き者、香(かぐわ)しい香りを放つ者とされているのです。
「チョット待ってください。15節にある、私たちが、キリストによって神に献げられる良い香 だと言うのは“キリストによって”に重心を置けば、分かる気がしますが、滅びの道をたどる者にとっても、良い香りだと言うのはチョットへんじゃないですか?」良い質問です。これは14節から17節までを通して理解する必要があります。
パウロは14節で わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。この様に言います。「キリストを知る知識」とは信仰だと言いました。キリストの生涯を研究する学問ではなく、キリストが神の独り子であり、十字架の死の3日後に復活なさった方であり、信じ従う時に、私に永遠の命を与えてくださる。そのことを信じて従う信仰です。私たちを通じてとは、主の福音を述べ伝える私たちです。キリストの働き人として伝道する山形六日町教会であり、集う一人一人です。
16節 このような務めにだれがふさわしいでしょうか。キリストの福音を伝える伝道の務めに相応しい者はおそらくいないでしょう。パウロ自身も わたしは、その罪人の中で最たる者です。(テモテⅠ1:15)だと言い、わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。(ローマ7:19)と言うのです。
しかし、相応しくないパウロであり、皆さんであり、私を主が用いてくださる。神様の福音を伝える喜びの務めへと導き用いてくださるのです。16節 滅びる者には死から死に至らせる香りであり とありますが、まず第一に言えることは「滅びる者」がいてはいけないと言うのが、神様の御心なのです。人が滅びるかどうかはキリストが再びこの世界にいらっしゃる時、すなわち終末の時に行われる裁きによります。この時、「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」(ローマ10:13)と聖書は語ります。キリストに従う信仰を持ったものは、苦しみに会っても負けない幸せな人生を送り、裁きの時にも生かされる。すなわち永遠の命が保証されるのです。全ての人がこの安心感、すなわち信仰を持って豊かな人生を過ごす。これこそが神様のみ心であり、望まれるところです。そして、その為に私たちに伝道の務めが委ねられているのです。
終末、キリストに従うクリスチャンにとって終末は世の終わりではありません。すべての悪がキリストによって裁かれ滅ぼされる希望の時です。しかし、キリストの十字架と復活・昇天の時から2000年が経ちましたがまだ終末は到来していません。もちろんその時は神様だけがご存知なのですが、ペトロの手紙Ⅱ3章9節です。 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。私たちクリスチャンの、そして教会の働きが鈍いので忍耐して待ってくださっているのだと言うのです。
キリストの愛を拒絶する者にとって、香(かぐわ)しいキリストを知る香り、すなわち信仰は残念ながら邪魔なもの、無い方が良いものに思えることでしょうし、教会もそこで献げられる礼拝も価値の無いものでしょう。しかし、そのような者をも神様は愛してくださる。裁きの時を遅らせてまで、すなわち信仰を持った人を待たせてまで、福音の素晴らしさに気付く時を待ってくださっている。
パウロは「滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」と言います。私たちクリスチャンは、信仰をまだ持つに至っていない人にとって、キリストのよき香りを届ける者なのです。そのためにはまず自分自身が喜んでいる、神様に愛されていることを喜んでいるのでなければよき香りにはなれません。聖書は いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(テサ5:16-18)この様に告げています。これもいつも申し上げています。「家族に伝道したいと思ったら、家に帰って牧師の悪口を言っちゃだめですよ! そんな悪い奴のいるところに誰が行こうと思いますか。ですからそんな時は悪い牧師の為に祈ってください。」
神様が私たちに求めていらっしゃることは「神と自分と隣人を愛する。」ことです。そして、先週も言いました。私たちがいただいた最高のもの、信仰を分かち合うことは隣びとを愛する最高の表現なのです。皆さんはこの一週間、すなわち先週の礼拝以降の167時間において、何人の隣人の為に祈ったでしょうか?
アメリカの作家であり起業家であったジム・ローンは、コカ・コーラやIBMのコンサルタントも務めましたが、彼は『5人の法則』を唱えたことで知られています。これは、「人は最も多くの時間を共に過ごす5人に似た者となる。」と言う法則です。あまり良い意味では用いられませんが「朱に交われば赤くなる。」と言いますし、飼い主に飼い犬が似る、あるいは飼い主が飼い犬に似ると言うのもこの類でしょう。 どんな人と一緒に多くの時間を過ごすのかによって人生の豊かさや、満足度が左右されるのだと言うのです。ですから、自分がこんな人になりたいと思ったらそんな人の傍に行き、一緒に過す時間を増やすことが有効だと言います。どうでしょうか、そんな5人が思い浮かぶでしょうか? 5人でなくてもかまいません。そうしたらぜひ今日の内に、その中のせめて3人の為に祈ってください。その3人にあなたが、あなたを通して香(かぐわ)しいキリストの香りを届けられるように祈って下さい。これは今日の宿題です。
さて、あなたが多くの時間を共に過ごしたいと思った5人ほどの人です。その中に主イエス・キリストが入っていることでしょう。もしまだでしたら、ぜひあなたのリストに加えてください。ジム・ローンさんの法則によれば、必ずやあなたはキリストに似た者へとなっていきます。その為に必要なことは、最も多くの時間を共に過ごすことだといいました。どうやってキリストと共に過ごす時間を増やすのか。
祈ること。絶対に必要です。祈りは神様との対話の時間です。一人で祈る。主にある友と一緒に祈る。喜びの時です。今日の宿題、3人の為に祈ることを忘れないでください。週報には、『平和の祈り』を記しました。800年間人々の心に響き続ける祈りです。
礼拝に出席する。絶対に必要です。主イエス・キリストが招いて下さっています。
聖書に親しむ。元旦の計に聖書通読をお勧めしました。ひと月経ちましたがいかがでしょうか? 私は一日1章、3年かかるペースです。説教準備の為に深く聖書に接してきた日々でしたが、通読からはしばらく遠ざかっていました。あらためて1章を続けて読む豊かさを日々味わっています。まだ、通読表が余っていますのでぜひお持ちいただければと思います。
17節。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。パウロがコリントの教会を後にしてから現れた者たちで、律法遵守を迫り教会に集う人から豊かな喜びを奪う者たちに対して こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。 (Ⅱコリ11:13) 誤った福音を告げる者に対しては、こんな激しい言葉で非難します。
私たちはキリストに結ばれた者として少なくとも3人の方の為に祈りたいと思います。そして祈りが聞かれ3人の方と共に礼拝を守る日が来ることでしょう。これが希望です。

次の礼拝が始まります2月9日午前10時15分までの167時間。「命に至る香り」、キリストの香(かぐわ)しい香りを放つ者でありたいと思います。2章14節 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。 アーメン 祈りましょう。