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山形六日町教会

2020年1月26日

聖書:出エジプト記34章34~35節 コリントの信徒への手紙Ⅱ3章7~18節
「栄光から栄光へ」波多野保夫牧師

先ほど読んでいただいたコリントの信徒への手紙Ⅱは、多くの聖書学者によれば、使徒パウロが現在のギリシャにありますコリントの教会に宛てて、エーゲ海を挟んで現在のトルコにありますエフェソから書き送った手紙だと言われています。来週もまたコリントの信徒への手紙Ⅱ からみ言葉を聞きたいと思っていますので、パウロのコリント伝道の次第から始めたいと思います。

コリント教会の誕生に関しては使徒言行録18章に記されています。紀元49年に、ローマからのユダヤ人追放命令が皇帝クラウディオによって出され、ギリシャ南端の港町、コリントへと逃げてきたアキラとプリスキラと言うユダヤ人夫妻との出会いに始まりました。彼らの家に招き入れられ、ユダヤ人たちに「イエスこそ救い主だ」と粘り強く教えたのですが、彼らは口汚く罵るばかりでした。
そこでパウロは一大決心をしました。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」(使徒18:6) 異邦人、すなわちユダヤ人以外の人に福音を伝える決心です。私たちは当然異邦人ですから、パウロの決断は結果的に喜ぶべきものでしょう。しかし、これはパウロ個人の決断によるのではなく2000年前も、そして今も教会に働き導いて下さっている聖霊の御業によると理解すべきです。
さてコリント教会に戻りますと、この地はアジアとローマを結ぶ重要な港町として栄えており、これは現代に於いても言えますが繁栄と退廃はつきものでした。さらにギリシャの神々の像が立ち並ぶアテネからも遠くありません。そんな街に主の福音を伝える困難さは想像に難くありません。主はパウロに語られました。 「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒18:9-10)
1年半に及ぶコリント滞在において人々に神の言葉を伝え、大勢の人々を洗礼へと導くとともに、誕生したばかりのコリント教会を訓練しました。次の伝道地へと向かった彼はコリントの教会が主の教会として健全さを保ちながら成長していくことを篤く祈り求めていました。しかし、繁栄を誇っていた地に建てられた教会です。彼が去ると教会の内部にも世俗の風習にまみれた人が目立つようになりました。
パウロが書き送ったコリントの信徒への手紙Ⅰ 5章11節です。「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。」 兄弟とは教会に集うクリスチャンです。さらに教会員同士の訴訟沙汰も起こりましたし、性的な乱れもありました。(Ⅰコリ6:1-11)教会には金持ちもいれば奴隷もいました。当時の教会では、我々の言う聖餐と愛餐の区別が必ずしも明確ではなかったのですが、金持ちグループは先に教会に来てさっさと始めてしまい、きちんと仕事を終えてからでないと教会に来ることが出来ない、身分の低い人や奴隷は十分に食べることが出来ない、そんなことも起きていたのです。(Ⅰコリ11:17-22)皆さんはこんなコリント教会の様子を聞いてどのように思うでしょうか。「そんなのは教会じゃない!」全くその通りです。私たちの教会にそのような欠片(かけら)すらあってはなりません。
パウロは真のキリストの教会の姿、また真のクリスチャンの姿を語ります。愛の賛歌と呼ばれ、結婚式でも良く読まれます。新約聖書317ぺージ コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章1節以下です。わたしはあなたがたに最高の道を教えます。 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。キリストの愛に生かされ、キリストの愛が満ちている。こんな山形六日町教会であり、私たちでありたいと思います。
パウロがこの手紙を書き送った後も、残念ながらコリントの教会が主の教会として立直り、力強く歩むことは無かったばかりか、パウロとの関係も悪化してしまいました。彼は再度コリント教会を訪問したり、また弟子のテトスを派遣したりしたのですが、教会との関係改善に確信が持てないままにこのコリントの信徒への手紙Ⅱ を書き始めたのです。

この様な背景のもと、本日与えられました3章には「新しい契約の奉仕者」との小見出しが付いているように使徒職が、生ける神の子キリストに仕えることだと語り始めるのです。コリント教会との関係がもとに戻せるのか、その不安に勝って、キリストに仕えることの素晴らしさであり、喜びを語るのです。多くの困難を経験しながらなお落胆しない、あきらめてしまわないパウロ。その秘密を聖書から読み取って行きたいと思います。なぜなら、私たちの人生においても、パウロ程ではないにしろ、あるいはパウロと同じ位に、さらにパウロにもまして、落胆や失意の時は必ずや起こるからです。「努力しても思いが叶わない、なぜ私が、私だけが、そしてなぜ今。」このようなことは起こるからです。
さて、ここで皆さんに質問があります。あなたは10年前、あるいは5年前の自分と比べて何か、あるいは何が変わっているでしょうか?皺の数を聞いているのではありません。肉体は成長し、やがて衰えるものです。10年前は2010年、「はやぶさ」が「小惑星いとかわ」から貴重なサンプルを持ち帰って話題となりました。5年前、2015年には二人の日本人、大村智・北里大特別栄誉教授がノーベル医学生理学賞を、梶田隆章・東京大宇宙線研究所長がノーベル物理学賞をそれぞれ受賞し大きな話題となりました。しかし、このような世間の出来事は「ああそんなこともあったね。」位にしか覚えていない私です。しかし、個人的な事。私は10年前に東京神学大学4年で寮生活をしていました。5年前は、伝道者2年目。皆さんの祈りに支えられて必死に歩いていました。
皆さんは10年前、5年前に比べてどの様に自分は変わったと思いますか?なぜ、このような質問をするかと言えば、コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章18節です。 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
そうです私たちは主イエス・キリストに似た者に変わっていくハズなのです。ですから10年前や5年前の自分と比べていただきました。私たちが礼拝を守り祈り聖書に親しむ、その時私たちは必ずやキリストの似姿へと変わっていくハズなのです。
さらにこの問いは過去に関してだけではありません。今日、この礼拝を終えて家路につく時、今晩、明日同じように問われることでしょう。なぜならキリストの似姿へと変わっていくことこそが、私たちに幸せな人生をもたらしてくれるからです。
私たちが変えられていく。神学用語では「聖化」と言いますが、週報に関連する聖句をいくつか記しました。ローマの信徒への手紙8章28節以下を読みます。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。キリストの似姿とは心の思いと行動です。そしてキリストの似姿へと変わっていくこと、「聖化」の道を歩むことこそが、私たちに幸せな人生を約束してくれるのです。ですから、主の愛、すなわち福音が語られる教会の礼拝が、私たちに何の変化ももたらさない、重い心、満たされない心に希望の光をもたらすことなく、悪魔の誘惑、主の愛から私たちを離れさせる罪の誘惑に対して何の抵抗も示さないで終わるのであれば、それはむなしい礼拝でしょう。
礼拝は説教者の力不足を乗越えて聖霊が働いて下さり、共に聖書を読み、み言葉の解き明かしを受け、賛美し祈り告白し献げ奉仕する、喜びの時だからです。ですから、礼拝の約一時間は、一週間の残りの167時間に何らかの変化をもたらしているハズなのです。この時、神様はあなたに語り、そして求めていらっしゃるのです。
最初に読んでいただいた出エジプト記34章はモーセがシナイ山で十戒を授けられ、山を下りてきた時の様子を語っています。この時、彼の顔が栄光に輝いており人々の前では顔を覆っていたとあります。

本日の説教は、パウロが1年半に渡って滞在し主の福音を伝えたコリントの教会との関係が覚めてしまい、回復が思わしくない中にあってもなお落胆しなかった、落胆せずにコリント教会の為に祈り続けたその秘密を知ることにありました。3章8節 霊に仕える務めとは、パウロの場合は福音を伝え教会を立ち上げることでしたが、私たちにとっては聖霊の導きに従って主に仕えることです。具体的には「神と自分と隣びとを愛する」ことだといつも申し上げています。周りの人を教会にさそうことは「隣びとを愛すること」なのだといつも申し上げています。なぜなら、自分のいただいた最も素晴らしいものの分かち合いだからです。
9節 「人を罪に定める務め」とは、律法の働きです。罪とは神様の戒めに反することですが、何が神様の御心に反するのかは、律法が明らかにしてくれます。「人を義とする務め」とは、神様の福音を伝えること。牧師は聖霊の助けによって長老会の見守りの内に、み言葉を語り聖餐を執行し洗礼を授けます。義とする務めです。
しかし、隣人、すなわち家族や友人や周りの人、すなわち隣人を教会にさそうことも大切な人を義とするための務めです。それもまた隣人を愛することだと先ほど申しました。ですから人を義とする栄光に満ちた務めは、山形六日町教会に集う一人一人が担います。そしてそのリーダーは主イエス・キリストお一人なのです。
10節11節は少しわかりにくいのですが、かつてモーセに与えられた十戒を中心とする律法は、今やキリストの十字架によって示された大いなる愛の前にはむなしいものだと言います。なぜなら、本来律法は人に罪を教え神への立ち返りを求める神様の愛に根差したものですが、当時の宗教指導者たちはそれを歪めて人々を縛りつけるものとしてしまっていたからです。

かつて、牧師会でこんな話を聞きました。礼拝に幼稚園児を二人連れたお母さんが出席しました。最初は良かったのですが、長い説教の途中で子供たちがぐずり始めたそうです。お母さんは一生懸命子供たちを静かにさせようとするのですが、静かな礼拝中ではかえってそれが目立ってしまいました。礼拝が終わると長い幼稚園教諭の経験を持った長老さんが、親子の所に行って礼拝中の態度を叱ったのです。他の方は黙ってそれを見ていたそうです。次の週の礼拝にはその親子の姿はありませんでした。皆さんはどの様に思われるでしょうか? 先日SNS上で、東京から新大阪まで騒ぎ続けた子供を親が放置したことが話題になっていました。その長老さんは、キチンとした礼拝態度をその場ですぐに教えてあげることこそが正しい行動だと、長年子供に接してきた経験から考えられたのでしょう。耳が聞こえにくくなってくると騒音ばかり聞こえて肝心な説教が聞き取れなくなると考えてのことだったのかも知れません。親子室についても、部屋に押し込めてしまうのは失礼だ、いやそれが無いとお母さんがかえって気にしてしまう。など賛否があります。お母さんが礼拝に来なくなったことでこの長老さんを非難すれば、長老さんが教会を離れる可能性がありますし、そのままにすれば同じことが繰り返されるでしょう。
こんな時、どうすれば良いのか、「隣人を愛する」ことの応用問題として考えていただきたいと思いました。ちなみに六日町教会では3年程前、130年記念事業を考えた際、2階と礼拝堂の間をアクリル板で塞ぎスピーカーを設置して親子室に改造することを検討しました。しかし、イエス様の言葉。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ18:16-17)この言葉が思いおこされ、「子供たちの声が聞こえる礼拝が良い。その代わり聞きとりにくい方の為にパナガイドの台数を増やそう。」このような結論になりました。私は、子供連れで礼拝に参加してもらい、もう少し子供たちの声が聞こえる礼拝でありたいと思っているのですが、なかなかそうできなくて残念に思っています。

本日の聖書に戻りましょう。パウロはモーセが神から与えられた十戒を様々に呼びます10節「かつて栄光を与えられたもの」11節「消え去るべきもの」14節「古い契約」15節「モーセの書」。律法は本来神様が与えてくださった、人を幸せにする良いものなのですが、人の持つ「罪」の性質がそれを分かりづらいもの、覆いの掛かったものとしてしまっている。3章16節17節。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。あるいは14節 今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。今日に至るまでとは、パウロがこの手紙を書いた紀元50年代を指しますが、私たちは「2020年に至るまで」と読むのです。主イエス・キリスト、あるいは主が遣わしてくださった聖霊を見失い、主の愛から離れた時、私たちの顔には覆いがかかってしまい、主の似姿へと変えていただく、喜びに満ちた幸せな人生を歩むことが困難になるからです。
パウロが多くの困難の中でなぜ落胆することがなかったのでしょうか? この疑問にお答えしましょう。16節です。主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。パウロは何を見たのでしょうか? 主の方を向けば何が見えるのでしょうか? だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章17節です。彼は主の十字架の出来事が示す大いなる愛だけを見つめて主に仕えたのです。そして、栄光から栄光へと幸せな人生を歩んだのです。私たちは、来週の礼拝までの167時間。主に似た者へと変えられていく。その栄光の時間を、主と共に歩みたいと思います。「神と自分と隣人を愛したい」と思います。先ほどの「隣人を愛する」ことに関する問題に直面した教会はどうしたのでしょうか。とにかく祈った、様々な機会に祈ったのだとお聞きしました。祈りましょう。