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山形六日町教会

2020年1月19日

聖書:列王記上16章36~39節 ヤコブの手紙5章13~18節
「信仰は祈りを生み、祈りは信仰をはぐくむ」波多野保夫牧師

説教シリーズ「信仰に生きる」の20回目になりました。私たちはこの説教シリーズ「信仰に生きる」と説教シリーズ「祈るときには」の二つのシリーズから、大体月に2度ずつ聖書のみ言葉を聴いて来ました。この2018年11月4日に始まりましたこの説教シリーズではヤコブの手紙を順に読んできましたが、今回20回で終了します。これは、すでにシリーズの中で何回か繰り返し申し上げたのですが、最後にもう一度繰り返しておきたいと思います。そもそもこの手紙は、クリスチャンが厳しい迫害の中にあった時代に、各地に逃げて行かなければならなかった者たちを勇気づけイエス・キリストに信頼と希望を置いてクリスチャンらしく生きるようにとヤコブが書き送ったものです。
ヤコブは、主の兄弟と呼ばれ、主イエス・キリストの弟にあたり、使徒ペトロの後を継いで、エルサレム教会の指導者となっていました。しかし彼は紀元62年に、主イエスを十字架刑へと送った同じユダヤ人たちの手によって神殿の頂きから突き落とされ、さらに石を投げつけられて殉教したと伝えられています。
そんな彼が書き残したこのヤコブの手紙ですが、1517年に始まりました宗教改革の時代に、マルチン・ルターは、価値の無い書「藁の書」と呼んで聖書から排除しようとしたと言われます。
その理由は、宗教改革の一つの旗印「信仰義認」にあります。これは「人が救われるのは信仰、すなわちキリストに従って生きる信仰だけによるのであって、その人の行いは関係ない。」との主張です。当時のカトリック教会が贖宥状、すなわち免罪符を買うなど「良い行いが救われるためには必要だ。」としたことにプロテスト、すなわち反対したのです。 実際使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙2章16節で次のように言っています。 人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
これに対して、ヤコブは次のように言います。ヤコブの手紙1章22から25節です。1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
パウロは人が「義」すなわち神様に正しいものと認めていただき救われるのは信仰だけによるのだと言い、ヤコブは「行う人になりなさい」と言うのです。どちらが正しいのでしょうか? 答えは、どちらも正しいのです。パウロがローマの信徒への手紙10章9節10節で言います。 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。私たちが洗礼式において、日本基督教団信仰告白を告白する意味がここにあります。それではヤコブの言う行いとは何でしょうか?それは救われた者、具体的には聖霊によって洗礼を授けていただいたクリスチャンの生き方です。「神と自分と隣人を愛する」生き方を生涯にわたって実践する。これは「聖化」、漢字で書けばヒジリとバケルと言う字ですが、「聖化」は、私たちが聖なるものに変えられていく、あるいは変わっていく幸せな人生を歩むことを意味します。ですから、パウロの言うことと、ヤコブの言うことは全く矛盾しないどころか、両方が幸せな人生にとって不可欠なものなのです。
そして、信仰とはイエス・キリストが十字架の死と復活によって明確に示してくださった、神様の愛を受け入れることです。ですから、信仰は「希望」と「愛」を生みます。クリスチャンが「信仰」と「希望」と「愛」の中でどの様な生活、どの様な人生を送るのか、そこに焦点を当ててこのヤコブの手紙は語っているのです。
20回に及んだこの説教シリーズです。その説教題を並べて申し上げますからどんな内容なのか思い起こしてみてください。そして後ほどヤコブ書を読んでください。ここから聖書通読を始めるのも良いと思います。
「試練の中で喜ぶ」から始まりました。そして「信仰を持って願う」。第3回は「二つの厄介なこと」。これは貧しさと富んでいることに関してでした。「良いおくりものは上から来る」。「誘惑にあう時」。と続いて第6回は「怒りに遅く」感謝に遅く、怒りに早い自分を思わされました。さらに「御言葉を行いなさい」。「清く汚れのない信仰」。「人を分け隔ててはなりません」。第10回は「律法の一点一画」。「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」(ルカ16:17)とおっしゃった主イエスは「神と自分と隣人」を愛することこそが律法の中心だと教えられました。そしてヤコブはその実践を求めるのです。なぜなら、それこそが私たちを幸せにするからです。次は「役に立たないもの」。私のことではありません。口先だけで行いの伴わない信仰のことです。しかし、私は体が弱くて何も出来ないとおっしゃる方に申しました。祈ることが出来るじゃないですか。祈りの伴わない行い程危険なものはありません。第12回は「舌を制する」。噂話禁止と言っていますが、友の安否を問うことは噂話ではありません。祈りを伴うからです。13回は「勝利の約束された戦い」この時、ヤコブ書4章をお読みしました。「「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」。第14回は「兄弟を裁いてはならない」。15回「誇り高ぶるな」。16回は「悪魔はなお生きている」確かに私たちを様々に誘惑し、神様の愛から離れさせようとする悪魔は元気です。しかし、イエス・キリストは既に悪魔に勝利されましたから、私たちが主イエスに従ってゆく時、この世の悪・悪魔を恐れる必要はありません。悪魔がクリスチャンを恐れるのです。勝利の主が共にいてくださるからです。17回「たった一つの目的地」。18回「イエスの涙」。19回「神の誓い、人の誓い」私たちの約束、誓約、誓いは残念ながらうつろいやすいものです。しかし、神様の約束、「お前たちを愛する」との契約は絶対に変わることの無い誓いです。
そして今日、20回目の説教題は「信仰は祈りを生み、祈りは信仰をはぐくむ」。そうです、祈りについてみ言葉を聞いて説教シリーズ「信仰に生きる」を閉じようと思います。これは、今暫く継続します「祈るときには」に接続するためだけではなく、信仰に生きる私たちにとって「祈り」は不可欠だからです。信仰生活は「祈りに始まり、祈りに終わる。」このように言うことが出来ます。
ヤコブの手紙5章13節14節。あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。
今日の招きの言葉は詩編90編1節2節でした。主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神。これは正に賛美の歌であり、賛美の祈りです。
さらに、主が最後の晩餐の席でパンとブドウ酒を弟子たちに与え、聖餐式を制定された後のことです。 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マルコ14:26)弟子たちはエルサレム入城の際、人々が歓声を上げて出迎えた、あの興奮、あの喜びにまだ浸っていたのでしょう。弟子たちは、この後主イエスがオリーブ山にあるゲッセマネの園で苦しみに満ちた祈り、十字架への道を取り除けてくださいと祈られること。にもかかわらず逮捕、裁判、処刑と続く、それらのことを全く知りません。
使徒言行録16章にはこんな場面もあります。フィリピの町で逮捕され牢に投げ込まれた時のことです。真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。(使徒16:25)悪霊に取りつかれている女を救ったことで投獄されていた彼ら、「隣びとを愛したがゆえに牢に入れられた」のでした。賛美の歌を歌い祈っていた彼らの信仰に疑いの気持ちが入り込む余地は全くありませんでした。讃美歌はメロディーを付けた祈りの言葉です。病気の人の為にオリーブ油を付けて祈る。マルコ福音書12章13節に、主に派遣された 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。とあります。古代においてオリーブ油がある種の薬として用いられたと言われますが、医学や薬学が発達した現代に於いても、私たちは肉体的な病の方の為に、あるいは精神的な病の方の為に祈ります。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。主イエスの時代から現代にいたるまで、2000年間、変わることはありません。
ヤコブは続けます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。罪の問題です。カトリック教会には必ず告解のための部屋があります。自分の犯した罪、すなわち神様に逆らってしまったことを司祭に告白し、神様に罪の赦しを乞い願うのが告解です。最低年1回の告解がもとめられるそうです。洗礼によって根本的な神様との和解、罪の赦しは与えられているのですが、日々の生活の中で、「神と自分と隣人」を愛することに反してしまうこと、すなわち罪と無縁ではありません。
しかし、私たちプロテスタント教会には告解の制度はありません。プロテスタント教会の信者は罪を犯さないのでしょうか?六日町教会の礼拝プログラムには、「礼拝への招き」の後に「悔い改め」とあり、罪の赦しを求める詩編が交読されます。プロテスタント教会は聖書的に根拠の曖昧な告解の制度をやめ、礼拝全体をその意味、すなわち神様に罪の赦しを乞い願う意味を持って捧げることとしたのです。カトリック教会が最低年1回の告解を求めるのに対して、私たちの教会は52回以上です。そこでは罪の指摘とキリストの十字架による贖いを告げる説教が語られ、12回以上の聖餐、すなわち目に見える形で、今天におられるキリストの愛の御業を思い起こし、パンとぶどう酒をいただくのです。
13節で個人の祈りが、14節で牧師も含めて長老の祈りが、15,16節で教会の祈りが求められます。16節 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。ヤコブはここで祈りがどれほどの力を持っているのか、エリヤの話を語ります。旧約聖書列王記上、列王記下に登場する預言者で、力ある業を持って神様の御心を伝えたことを知らない人はいませんでした。
主イエスの十字架上での祈りの言葉「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」を聞いて、一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。この出来事からもわかります。
しかし、私たちは旧約聖書に書かれていることを、おそらくはイスラエルの人程は知らないでしょうから、少しお話ししましょう。預言者エリヤが戦った北イスラエル王国のアハブ王は、異教の神バアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築きアシュラ像を置きました。私たちのこの礼拝堂の中にブードゥー教の祭壇を築いたようなものです。アハズ王との戦いの中での預言者エリヤの祈りは力に満ちていました。ヤコブは干ばつと恵みの雨の出来事を語り、先ほど市川長老にはカルメル山において、450人のバアルの預言者と、400人のアシュラの預言者と戦い勝利した場面を読んでいただきました。エリヤの祈りが聞かれた出来事をイスラエルの人達は良く知っていたのです。
祈りについて私はいつも次のように言っています。神様を褒めたたえる言葉プラス「ごめんなさい」罪の赦しを求めます。「ありがとう」感謝です。そして「お願いします」。私の場合、この3番目のお願いしますがやたら多い様に思いますが、この3つであり難しいことはありません。
さらに、こんな事祈っちゃまずいだろうという祈りの自主規制は不要だと言っています。公の祈りの場合は、祈りを共にする方のことを考えて一定の節度が必要でしょうが、密室の祈り、一人で祈る場合には自主規制は不要です。神様はすでに私たちの心の内をご存じであり、私たちを愛していてくださっている方です。神様は私に一番良いこと、それは私が祈り求めたこととは違うかも知れませんが、とにかく一番良いことを実現してくださいます。ですから、しつこく、何を祈ってもかまいませんが、示された答えには素直でなければなりません。
ある方からこの様に質問されました。祈りで「ごめんなさい」「ありがとう」「お願いします」この3つが大切なことはわかりました。でも、本当に苦しい時に「なぜですか?」と理由を問う祈りもあるんじゃないでしょうか?大変良い質問です。確かに主も十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」この様に祈られました。たしかに、私たちも「なぜ、こんな目に? なぜ、いま? なぜ、私が?」この様に祈らざるを得ない時はあるでしょう。「なぜなのか、教えてください。お願いします。」と言えば、これは確かに願いの言葉です。しかし、この様な時に祈りの分類をしてみても全く意味がありません。十字架の出来事を前にして、主がどの様に祈られたのかを見ましょう。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」(ルカ22:42)素直な願いです。さらに続けて祈られました。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」ここには父なる神への完全な信頼があります。神様は全てをご存知の上でなお私たちが祈ることを待っていらっしゃいます。私たちは真剣に祈るほどに、神様のお答えを素直に受け入れる、すなわち一番良いものをくださる方に対して、素直になれるからではないでしょうか。

2000年前のクリスチャンはヤコブが旧約聖書の証言を語ることで、自分たちの先祖エリヤが祈った際、神様がその祈りを聞き入れたくださった出来事を通して祈りの持つ力を思い起こしました。
今、私たちは新約聖書も手にしており、主イエスが祈りを通して示された父なる神への信頼、そして主イエスの祈りの先にあったもの、十字架の死という盃は、祈ったにも関わらず取り去られることはなかったのですが、3日後に待っていた復活という栄光の出来事を知っているのです。
さらに同じ栄光が主イエス・キリストに従う時、私たちにも約束されている事を知るのです。本日の説教題を「信仰は祈りを生み、祈りは信仰をはぐくむ」としました。祈りましょう。