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山形六日町教会

2020年1月5日

聖書:レビ記5章4~6節 ヤコブの手紙5章12節
「神の誓い、人の誓い」波多野保夫牧師

早いもので、年が改まってから5日目となりました。少しのんびりすることが出来た方、あるいは逆に忙しい日々を過ごされた方、様々でしょうが、新しい年を迎え、新しい気持ちで出発する。そんな新年ではなかったかと思います。
しかし、教会の礼拝は休むことがありません。神様が休むことなく私たちを愛し続けてくださっている。そして、忙しさの中にあっても、あるいはのんびりしていても、嬉しいことで心がいっぱいになっていてる時も、悲しみ重荷で心がふさがれている時でも、一週に一度主の日の礼拝へと私たちを招いていてくださる。 これは2000年間変わることがないのです。山形六日町教会は週報の表紙にあります様に1887年11月に創立されましたから満132歳です。単純計算で6800回以上の礼拝が守られた事になります。これが歴史の重みと言うものでしょう。 私たちが今日その歴史を1回だけ積み上げて次の世代、次の次の世代に山形六日町教会を受け継いでいく。礼拝をささげることが出来る恵みと責任を感じる次第です。この年もご一緒に主の礼拝に招いていただく喜びを共にしてまいりたいと思います。

ところで「一年の計は元旦にあり、あるいは新年にあり」と言われますが、皆さんは今年の計画をたてられたでしょうか? いろいろな候補がおありでしょうが、「聖書通読」はいかがでしょうか。新共同訳聖書は旧約が39巻929章、新約が27巻260章ですから、毎日1章で大体3年、3~4章で1年となります。 読み進めていきますと、理解が難しいところに出会うことでしょう。しかし、読み続けるのです。聖書通読は聖書全体から部分を知ることが目的だからです。
そんな時のコツを元旦礼拝で「あなたをいつも愛しているよ!」このことを前提として読むのだとお教えしました。それでもわかりにくいところがあったら、私や長老さん、あるいは信仰の友に聞いてください。一緒に聖書に向かい一緒に祈るのです。良い導きが与えられるに違いありません。しかし、聖書通読はかなり強い意志を持たないと挫折しやすいものです。何人かで始めるのがよろしいと思いますので、聖書通読を始めたい方がいらっしゃったら申し出てください。通読表を準備して私もご一緒したいと思います。
実は昨年「聖書に聞き、祈る会」で月一度ですが、ヘブライ人への手紙を1章ずつ書き写すことを始めました。何人かで続けていますが、実際聖書はルネッサンス期の1450年ころに印刷術が発明されるまでは、修道士達によって代々書き写されて来たのです。なぜか聖書が身近なものに感じられるのです。これもグループだからこそ続いているのだと思います。先週の礼拝でもお読みしました。コヘレトの言葉4章9節10節です。ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
すこし、先週の話を続けておきましょう。「残念だけど、そんな人はいないんだ」なんて言わないでください。主が私の兄弟になってくださっているのであり、主にある兄弟姉妹は、そのまま主にある友と言うことが出来ます。この様に申し上げました。
「元旦の計」は「やってやるぞ!」と言う自分自身への誓いですが、本日与えられました聖書箇所、ヤコブの手紙5章12節は「誓いを立てるな」と言います。神と人との誓い、あるいは人と人との誓いが問題にされています。しかしこのヤコブの言葉、まだ聖書通読の経験の無い方もどこかで聞いたのではないでしょうか。そうです、山上の説教の中で語られた主の言葉です。山上の説教はキリストに従う者の生き様、すなわち幸せな人生のための処方箋を語られたのですが、マタイ福音書5章33節以下を週報に記しました。5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」ヤコブは明らかに主イエスのこの教えを意識して述べています。
主イエスの言葉を丁寧に見ていくことから始めましょう。当時のユダヤ社会では「天にかけて」とか「地にかけて」「エルサレムにかけて」「頭にかけて」などと、頻繁に誓いの言葉が述べられていました。十戒がみだりに神の名を唱えることを禁じていたので「神にかけて」と誓うことが出来なかったからです。そんな彼らに言われました。5章33節 昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。同じく週報にレビ記19章12節を記しました。「神に誓って絶対にします。あるいはしません。」こんな誓いの言葉は大体破られるものです。これは週報に示しませんでしたが、民数記30章3節です。30:3 人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。 こちらは「主に誓ったらそれを必ず実行しろ。」と言っています。「誓うな」なのか「誓ったら必ず実行しろ」なのか、どちらなのでしょうか?
私たちの身の回り、日々の生活を見てみましょう。そこには契約があふれており、まさに契約社会と呼ぶことが出来ます。仕事に就くときには雇用契約を結びますし、家を借りれば賃貸契約、保険契約や購入契約、様々なサービスに対する契約もあります。電車の切符は、旅客運送契約の契約書でもあるそうです。選挙公約はあまり当てにならないようですが、スポーツ大会の開会式では選手宣誓があり「スポーツマンシップにのっとり正々堂々と戦うこと」が誓われます。
契約や誓約は平たく言えば、すべて約束と言えます。その多くは社会生活、すなわち人と人との関係や、人と企業などの団体、あるいは団体と団体の関係を円滑にするためのものであり、この意味においては様々な法律や条約も約束事の一つです。ですから、約束に対する誠実さが求められるのは当然ですし、約束を守れない者に対して社会全体が裁判によって罰を与える仕組みも整えられています。自分の都合だけで勝手に約束を破るのであれば、相手に迷惑をかけますし、第一にその人は信用されなくなります。しかし、実際に約束を守る、あるいは守ってもらうことの難しさも体験されたのではないでしょうか? その最大の原因がどこにあるかと言えば、より上手くやりたい、努力しないでもっと楽をしたい、お金を手にしたい、あるいは最初から守れないことが分かっていながら、その場しのぎで約束をする。中には最初からだます気で契約や約束をする連中もいます。そこに自己中心的な生き方があるのは確かです。反対に信頼できる人は約束を守る人であり、どうしても守れなかった時には、その事情を話して素直に謝ってくれる人でしょう。大体約束をまもらない人は謝ることもしませんし、見え透いた言い訳をするものです。
主イエスが 一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。とおっしゃり、ヤコブがそれを受けて 何よりもまず、誓いを立ててはなりません。 この様にいうことを盾にとって約束をしないのであれば、それは卑怯ですらあるでしょう。「10時に教会で会おう」と言うのに「じゃあそのころ」と答えておいて、10時半頃にやって来て「10時ちょうどとは約束しなかった。」これでは友達を失います。
私たちが毎日生活していく中で約束や契約を抜きにすることはできません。社会は約束事で出来上がっており、それを守ることで、お互いに安心して生活ができるからです。教会においても誓約と呼ばれる約束をしていただく事がいくつかあります。
洗礼式です。三位一体の神を信じますか?十字架の贖いを信じますか?日本基督教団信仰告白に従いますか?教会の定めに従い教会員として相応しい生活、これは礼拝を中心とした生活ですが、これらを問い誓約を求めます。受洗者は「私は神と教会との前に謹んでこれを告白し、誓約します。」この様に答えます。
結婚式です。「波多野保夫。あなたは今この女子を妻としようとしています。あなたは真実にこの女子をあなたの妻とすることを願いますか。あなたはこの結婚が神のみ旨によるものと確信しますか。またあなたは神の教えに従い、夫としての道を尽し、常にこの女子を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助けて変わることなく、その健やかな時もその病む時も、堅く節操を守ることを誓いますか。」 この問いに対して私は「はい誓います。」と答えました。
パウロは言います。 神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。(Ⅱコリント1:23)ヘブライ人への手紙にはこの様に書かれています。6:13 神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、14 「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。いかがでしょうか、教会は誓約を求め、パウロも誓いを立て、神様もご自身に誓って言われた。そこら中に誓いや契約があふれています。
友人の牧師から、彼の友人でアメリカ人の牧師が約束を守った話を聞きました。アメリカにPromise Keepers と言う保守的なキリスト教団体があり、聖書的な価値観の復権を促しています。男性だけの団体で「主の約束に従う男たち」と言った意味になるのでしょうか。婦人会の男性版ですが、会員数が200万人に上るそうです。彼は力のある牧師でしたから、ある時Promise Keepers が首都ワシントンで計画している100万人集会での礼拝説教を依頼されました。100万人もの男性の前で福音を語る、そんなチャンスに興奮したそうです。有名になれば、それからの伝道活動がどれほどやり易くなるかわかりません。喜んでその準備会に出席しました。ところが困ったことが一つ。それは彼が説教を頼まれた日には、既に8歳の娘さんと遊園地に行く約束をしていたことでした。娘さんに、「これは素晴らしい機会なんだ。お父さんがイエス様のお話をすることで大勢の人にイエス様のすばらしさを伝えることが出来るんだよ。だから、ごめんね。約束した遊園地、来週にしてね。」こう言えば十分な理由になったのです。しかし、この牧師は集会の責任者に事情を話して依頼を断ったそうです。責任者はその話を喜んで受け入れました。自分たちの団体の名前はPromise Keepers 約束をよく守る男たちだと言って喜んだそうです。当日娘さんと遊園地に行った後で、集会に駆け付けた牧師は広いグランドの芝生の上に座って大勢の男たちと一緒に力強い説教を聞きました。そして最後に共に祈り言いました。アーメン。

契約の話に戻りましょう。契約には双務契約と片務契約があります。一般的な契約は双務契約、即ち両者が責任を果たす約束です。住宅賃貸契約は、借り手が家賃を払い、貸し手は住宅を提供します。乗車券は運賃を支払うことで安全に目的地に送り届けてもらいます。神様が20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(出エジプト記)この様におっしゃるのは、双方が義務を負うのですから、双務契約です。しかし、実は三位一体の神が与えてくださるのは、ほとんどが片務契約なのです。神様が一方的に「私たちを愛してくださる」と宣言なさるのです。洪水の後、神様はノアの家族に一方的な祝福を与えられました。アブラハムには子孫が空の星、浜の砂ほどに多くなるとの約束を与えられました。そして極めつけは主イエス・キリストの十字架の出来事です。パウロは証言します。5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙)ヨハネは証言します。3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ福音書)これはみな神様が一方的に私たちを愛してくださる片務契約とそれを実行してくださった結果です。
それでは週報に記しましたマタイ福音書11章28節。主の有名な言葉はどうでしょうか?11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。主のもとに来ると言う行為に対して、休みをあげると言われるのは双務契約とも言えます。さらに「私の為に働け」ですから、ますます双務契約的です。しかし、本当にそうでしょうか?賃貸契約が双務契約だと言うのは月3万円の家賃に見合う家を提供してもらうからです。主のもとに来ることだけで与えてくださる平安。主の為に働く労力と与えてくださる安らぎ、しかし私たちの軛にかかる重荷は、そのほとんどを主が負ってくださる現実。ほとんどは主が一方的に与えてくださる約束ですから、これも片務契約です。

最初の問い 「誓うな」なのか「誓ったら必ず実行しろ」なのかの疑問が残っています。「神に誓ってしますとか、しません。」と言うのがダメなのは分かります。「神の名をみだらに唱えるな!」です。「誓ったら実行しろ」洗礼式での誓約を例に挙げました。しかし、その誓約を守り通すことはおそろしく困難です。なぜならば神様に従いぬくことは、主イエスが「私が完全である様にあなた方も完全な者になりなさい。」と求められるのを満たす必要があるからです。結婚の誓約も「この女子を常に敬い」の一言をとってもなかなか難しいものです。しかし、神様は教会を通してそれらの誓約を求められるのです。
なぜなのでしょうか。私は思うのです。それは私の弱さ、みじめさを自覚させるためなのだと。出来ないことは最初から分かってらっしゃる。先ほど「10時に教会で会おう」と言うのに「じゃやあそのころ」と答えておいて、10時半頃にやって来て「10時って約束しなかった。」これでは友を失います。この様に申しました。
実は神様の目からご覧になれば、これこそが私の姿であるに違いありません。言い訳やはぐらかしの名手なのです。しかし、私たちの友となってくださる主イエス・キリストは決して私たちを見捨てることをなさいません。見捨てないで世の終わりまでいつも共にいてくださることを約束してくださっています。
ヤコブは言います。あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。神様は全てご存じなのだから、「絶対にそうすることを誓います。」などと余計なことを言う必要もないし、何と答えようかと気をもむ必要もない。素直に「はい」とか「いいえ」と答えなさい。それで十分なのだ。最初に申しました様に、今年の「新年の計」を聖書通読にしてみてはいかがでしょうか。豊かな恵みが与えられるに違いありません。何しろ聖書は神様からあなたに宛てたラブレターなのです。「はい。」と言う答えをお待ちします。祈りましょう。