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山形六日町教会

2017年9月10日

聖書:ハバクク書1章2~4節 ルカによる福音書13章31~35節
説教シリーズ ルカ福音書-75「真の嘆き」波多野保夫牧師

秋の深まりを感じさせる今日この頃です。読書の秋、食欲の秋、物思いにふける秋、実りの秋。皆さんの思いはどれでしょうか。先週、私がこの山形六日町教会に赴任しました3年前2014年の植木市で購入しましたぶどうが、初めて実をつけ収穫することが出来ました。今年の地区CSサマーチャーチの主題聖句でありましたヨハネ福音書15章5節「15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」 この聖句が思い起こされると同時に、使徒パウロのことば「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。」これはコリント人への第一の手紙 3:6 の言葉ですが、神様の豊かな恵みを覚えた次第です。

さて、本日与えられました聖書は31節 13:31 ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」 ファリサイ派と言えば先週使徒言行録からみ言葉を聞く際に少し説明しました。律法に忠実であろうとする真面目なユダヤ教徒の集団です。安息日には各地の会堂に集まり聖書を解き明かすラビたちの言葉に耳を傾けるのであり、また律法に従った日常生活を心がけていました。彼らの導き手として、律法学者が立てられていましたが、その律法解釈は神の愛を離れた硬直化したものであり、主イエスから度々非難されました。神の定められた「安息日に仕事を休み心を神に向けること」これは大切なことですが、仕事を休むと言う行為を強調するあまり、その日に人を助けることをも禁じたのでありました。 
律法は、それに従っての生活によって人々が幸せになり、人生を楽しむための神様の配慮なのですが、そこに慈愛の心が欠けた時、人々の自由を奪い裁きの道具となるのです。
では、そんな律法は捨ててしまえば良いではないか。しかし、これは神様のお考えとは違います。律法によって私たちは罪、すなわち神様が何を喜ばれ何を嫌われるかを知るからです。律法は廃止されるべきものではなく成し遂げられるべきもの、いや既に成し遂げられたものです。これが主の十字架の出来事です。
ですから今日、私たちは律法の縄目、すなわち束縛から自由です。しかし、それだけでは糸の切れた風船であり、どこに飛んでいくのか分かりません。わからないと申しましたが、ほとんどの場合ろくなところには飛んでいかないでありましょう。これが人間の本性です。
では、どの様に生きるのか? 答えは簡単です。主イエス・キリストの愛の中を歩む幸せな人生です。
さて、そんなファリサイ派の何人かが忠告したのです。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」ここに登場するヘロデは、クリスマス・ストーリーに登場するヘロデ大王の息子のヘロデ・アンティパスで、彼は主イエスが30歳になって宣教活動を行なわれたガリラヤ地方の領主でした。 ヘロデは既にバプテスマのヨハネの首をはねていました。これは異母兄弟の妻ヘロディアとの結婚が姦淫の罪に当たると非難されたためでした。
ルカ福音書9章7節以下によれば、イエス様の力ある業を耳にした彼は、「ヨハネはわたしがすでに首を切ったのだが、こうしてうわさされているこの人は、いったい、だれなのだろう」。そしてイエスに会ってみようと思っていた。のです。一方で、人々がヨハネが蘇えったのだとも言っていましたので、恐怖心からイエスを殺そうと計画したのかも知れません。
もう一つ不思議に思うのは、慈愛に欠ける行いを厳しく非難されていたファリサイ派の人々が、迫りくる危険を知らせたのです。なぜでしょうか?彼らの中にも主イエスの教えや力ある業に共鳴している人たちがいたのだと説明されますし、これはファリサイ派とヘロデが示し合わせてガリラヤ地方から追い出し、あわよくば首都エルサレムで殺してしまおうとしたのだとも言われますが、真相はよくわかりません。
しかし、ここで大切なのは私たちが主からファリサイ派と同じ指摘を受けないようにすることです。ルカ福音書11章39節以下で、主は鋭くファリサイ派の人々を非難されていますが、ここからファリサイ派と言う言葉を除いて読んでみますから聞いて下さい。あなたたちは、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。それにしても、あなたたちは不幸だ。十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。主は正に私に語られているのだとの気づきが与えられます。
32節は、ヘロデが殺そうとしていると知らされた主の答えです。13:32 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。ヘロデの事を狐と呼んでいます。預言者ヨハネの首を跳ねたことへの怒りだけではなく、その神を神としない態度への怒りの表現です。イエス様がこの様な態度を示されるのはまれですが、神を冒涜する者に対しては厳しい態度をとられるのです。ヘロデがいだいたイエスに会ってみたいとの願いは、やがてかなえられます。23:8 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。23:9 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。十字架を前にした裁判の場面です。ここで主は一切、答えられないのです。
さて、私たちは主イエスが再び来られる日に裁きの場に立たされます。ここで裁かれるのは私たちです。使徒信条は「かしこより来たりて生ける者と死ねる者を裁きたまはん。」この様に告白します。これは最後の審判と呼ばれます。その時に主イエスが何もおっしゃらないとすればどうなるのか。私はこの厳粛な事実に身が引き締まる思いがするのです。ヘロデはバプテスマのヨハネの首を跳ねました。私は主イエス・キリストを十字架に架けました。いや罪を犯すことで今日も架け続けているのでありましょう。
確かに十字架に架けたのは2000年前のヘロデでありポンテオ・ピラトであり、ファリサイ派やサドカイ派の人々でありました。刑の執行はローマの兵士によって行われました。彼らはすべて神の愛の外側に身を置いた人々です。
私たちの立場を整理してみましょう。人の罪を負って主が十字架にかかられた出来事、それは2000年前に既に完了しています。さらに神様は主イエスの復活の出来事を通して、イエス・キリストに従う者に永遠の命、神の御許にある永遠の命を約束なさいました。
それから、2000年後の私たちです。私たちは今なお罪、すなわち神様のみこころを離れての人生を送っています。しかし、その罪は犯す前から主に従う者、すなわちクリスチャンには赦されているのです。これが聖書の伝える主の十字架の出来事の意味です。既に起こってしまった歴史的事実であり神様のお考え、ご計画ですから、私たちがそれを変えることは出来ません。
ここで私たちの人生において二つの選択肢があります。
一つ目、クリスチャンは救われているのだから自由奔放に好き勝手に生きる。やりたいことをやって人生を謳歌する。なんとなくイソップ物語のキリギリスと言った感じがしますが、あり得る選択です。
もう一つは、救われたことに感謝し主の恵みの中で人生を歩む。これは素晴らしい人生ですが、すべてが順調かと言えば、やはり山あり谷ありでしょう。
しかし、そこには大きな違いがあります。主が共にいて下さるのです。もっと正確に言えば共にいて下さる主に気づくことが出来るのです。それでも罪とは無縁ではないでしょう。しかし知っているのです。立ち返るべきところを、戻るべきところを。あの放蕩息子の物語を思い出して下さい。父親の財産を使い果たして放蕩の限りを尽くした息子が戻った時に、真っ先に出迎えて下さり、祝いのパーティーを開いて下さる。それが私たちの神様であり、私たちの教会なのです。
クリスチャンの二つの生き方を申しました。ここにもう一つのグループがあります。ノンクリスチャン、洗礼に至っていない方々です。聖書は明確な救いを語りません。聖書は『主の名を呼び求める者は皆、救われる。』と言います。いわゆる万人救済ではないのです。
ここにいらっしゃる求道者の方々。主が招いて下さっています。主は近くにいらっしゃるのです。ぜひ豊かな恵みの中をご一緒したいと思います。まだ、この主の福音を知らない方、あるいは教会に足が向かない方、大勢いらっしゃいます。「この方をも救いに入れたい。すべての人を救いたい。」これが神様のみこころです。先ほど最後の審判に触れました。終末の時です。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(ペトロの手紙二 3:9)
130周年を迎えようとする山形六日町教会は、喜んで人を迎える教会、悔い改めにいたったあの放蕩息子をも受け入れる教会であり、主の福音を述べ伝える光栄を喜びとする教会でなければなりません。
ルカ福音書13章32節 『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』 三日目にとは、すぐにと言ったほどの意味でしょうが、三日目に墓の中から復活されたその出来事を思うことは、自然であり極めて適切です。
33節。主イエスは十字架の出来事、私たちの罪を負うために、今日も明日もその次の日も、神様が自分に定められた道に従って歩まれるのです。
34節はエルサレムの町だけが悪者の集まりだとおっしゃっているのではありません。『わたしはお前達を何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。』 キリストに従って生きることを今私たちに求めてらっしゃるのです。13:34 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、
もちろん私たちは人々を石で打ち殺すことはしません。神は預言者、すなわちみ心を伝える者を用いられます。伝道者であり長老であり信仰の友であります。 その中で最も正しくそして優れて神のみこころを伝えるのが主イエス・キリストであり、そして今日その主を私たちに伝えるのが聖書です。
私たちが心を開いて聖書の教えに素直になり、生活の中に生かして、人生の指針としているのか。これこそが問われるのです。
「自分の所に来て下さった主を石で打ち殺す者よ」すなわち、そこでは罪の問題が明らかにされるのですが、最後の審判においてこのような告発を受ける可能性をゼロにする絶対的な方法があります。それは単純です。主イエスに従うこと。主イエスに委ねることです。こんな幸せで安心な人生は他にはあり得ません。
ここまで、かなりしつこく「2000年前にしかもファリサイ派に語られた言葉は、今の私たちに語られているのだ。」との視点で聖書を読み込んで来ました。 旧約聖書の冒頭で天地創造を伝えます創世記、これは後になってイスラエルの人々に伝わる神話を書きとどめたものです。しかし、神話だからと言って価値が低いのではありません。科学では説明できない天地創造の意味、すなわち全能の神の意志、私たちを愛し続けて下さるその意志を余すところなく伝えているからです。ですから創世記も今日の私たちへのメッセージです。3000年前のダビデ王の物語、罪を犯しその罪を悔いて立ち返るダビデを赦し、めぐみを与えて導かれる神。優れて今日の物語です。2000年前のクリスマス。今日も主との出会いの日です。人間の罪を負っての十字架の出来事。今日も共にいて下さる主は執り成しをしてくださいます。その結果私たちは自由と平安を得ています。
全てを創造された神は時間をも創造されました。ですから、人間の時間では3000年前であり2000年前の出来事は、神の時間では今なのです。神は3000年前も2000年前もそして今も、全く変わることなしに私たちを愛し続けて下さっているのです。
35節 13:35 見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」お前たちの家が見捨てられる。直接的には紀元70年に起きたエルサレム神殿がローマ軍によって破壊された出来事がこれに相当します。しかし、ここでは私たちの肉体として読んでください。やがては死に被われて見捨てられるのが私たちの肉体だからです。
続けましょう。『主の名によって来られる方に、祝福があるように』主イエスがエルサレムに入城された際の事です、21:9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。確かに人々はこの言葉でもって主の入城を歓迎しました。しかし、その週の金曜日です。人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。のでありました。この軽さ浅はかさが人間の本性なのでしょう。
しかし、今度は私たちが叫ぶのです。終末の日に叫ぶのです。その時私たちは地上にあるのか、あるいは神の御許にあるのかは分かりませんが、叫び続けるのです。『主の名によって来られる方に、祝福があるように』 ホサナ、ホサナ 主 の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ。
本日の説教題は13章31節の小見出しから「真の嘆き」としました。もはや旧約聖書ハバクク書の語る深い嘆き、「正義が示されても曲げられてしまう」どうしようもない嘆きに触れる時間はありません。しかしそれで良いんです。使徒パウロの言葉です。 「死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。(Ⅰコリント)13章35節 13:35 見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
私たちの家、すなわち地上の住まいとしての肉体は滅びます。しかし、再び主にお会いする時、すなわち終末の時、私たちは叫びます。『主の名によって来られる方に、祝福があるように』 そして私たちも主の復活に与かるのです。説教題「真の嘆き」とは主の福音、主の愛の中を歩まない時の嘆きです。そしてそれは真の喜びに変えられるのです。これが主の愛を信じる信仰です。祈りましょう。