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山形六日町教会

2017年9月3日

聖書:箴言20章5~7節 使徒言行録5章17~32節
説教シリーズ 受け継ぐ者達-4「神に従う」波多野保夫牧師

早いもので一年の2/3が過ぎて9月に入りました。暑い夏が去っていきホットなさっている方も多いのかと思いますが、私は夏の終わりがあまり好きではありません。育ちました神奈川県では2学期は9月1日から始まりましたが、海岸から人の姿が消え、赤とんぼが飛び始め、夕方がやたらに早くなります。そして長い夏休みが終わろうとしているのに、宿題はまだ終わっていないのです。当時は毎日の天気を記録したサイトがあるわけではないので、古新聞をひっくり返しまして夏休み帳を埋めたものです。

さて、100年程前から9月の第一聖日は「振起日」と呼ばれます。「振起日」とは奮い立つ日、あるいは奮い立たされる日と言った意味を持ちますが。アメリカからプロテスタント信仰を伝えました宣教師たちの習慣だったのでしょう。  暑い夏の間、礼拝以外、ほとんどの教会活動は休みになります。そして9月になると全ての教会活動を一斉に再開するのです。さあ頑張るぞ!喜んで重荷を担おう!こんな感じの日です。私たちの教会はその様な習慣を持ちませんが聖霊によって振るい立たされる、そんな9月でありたいと思います。
さらに、9月は食欲の秋だけではなく、読書の秋の始まりでもあります。聖書やキリスト教関係の良書に触れる機会を増やしていただきたいと思います。必ずや有意義な時を過ごすことが出来るでしょう。またどうぞ9月から始まりますアルファ2に参加ください。主にある兄弟姉妹が共に学び共に語る時です。その中で関連する優れた本もご紹介できればと思っています。

先週は受け継ぐ者たちの第3回として、初代教会内部の様子とそこで起きた事件を使徒言行録4章36節から5章11節を通して聞きました。それは持ち物を共有する教会で起きた偽善の出来事でした。発展する教会においても人の抱える心の弱さ、罪の問題は付きまとっていたのです。しかし、初代教会は弱さを抱えながらも発展していくことが出来ました。その秘密を聖書を通して聞きたいと思います。説教題を「神に従う」としました。 5章17節 5:17 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、5:18 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。「そこで」と始まっていますが、使徒言行録2章が告げますペンテコステの日の出来事、すなわち主イエスが神の御許に帰られる際に約束された通りに、聖霊が降り、ペトロがキリストの復活の証人として説教をし、その言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。そのペンテコステの日の出来事以降、彼らがどのような日々を送っていたのか、振り返って見ましょう。
3章では、ペトロとヨハネが神殿の入り口にあります「美しい門」の傍で物乞いをしていた男を癒しました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 ペトロの言葉です。また、ペトロは神殿で説教をしました。民衆にイエスが死者の中から復活したことを宣べ伝えたのです。神殿を管理していた祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人たちはペトロとヨハネを捉えて翌日まで牢に入れました。翌日の朝です。4章5節から。4:5 次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。4:6 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。4:7 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。4:8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、4:9 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、4:10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。主の十字架における死を前にした晩、鳥が鳴く前に3度イエスを知らないと言ったペトロは、今大胆にしかも喜びをもって主の復活の出来事を述べ伝えるのです。まさに恐れから喜びへの大転換が起こっています。その原因、それは復活の主との出会いです。
さてここで当時の政治と宗教の状況を見ておきましょう。イスラエルは政教一致の国家ですから、最高法院は政治と宗教の最高決定機関でした。当時、大きく分けて4つの派が存在しました。ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、熱心党です。熱心党は、自分たちは神に選ばれた民だとの信仰に立つ過激派で、反ローマを公言して武力革命を辞さないグループです。エッセネ派は信仰深い集団ですが、腐敗した都市エルサレムを離れ死海のほとりで律法に忠実な禁欲的生活を送りました。ローマ軍が彼らを急襲した際に、大切な聖書を壺に入れて砂に埋めて隠しました。1949年になって偶然発見されたのが貴重な死海文章です。2000年近く書き写しに書き写しを重ねて伝えられた聖書と、この死海文章は極めてよく一致するのだそうです。さてファリサイ派とサドカイ派。この主要な2つの派は対立していました。サドカイ派は大祭司を頂点とする神殿祭儀一切を取り仕切っていましたが、最高法院の議席を持ち貴族的な地位を占めていましたので、その地位を守るためにローマとも親しくしていたそうです。主イエスの十字架の出来事が紀元30年頃ですが、60年代から激しくなったローマへの抵抗運動の結果、紀元70年に神殿はローマ軍によって破壊されてしまい、それと共にサドカイ派は消えてしまったのです。最後にファリサイ派。元来ユダヤ教は神殿での祭儀を中心とした宗教でしたが、バビロン捕囚時代そこには神殿がありませんから、ラビの下で聖書と言い伝えを中心としたファリサイ派が起こりました。律法学者は先生について長い間律法の解釈を学び、モーセ5書をほとんど暗記していたそうです。キリスト教を迫害していた時代のサウロ、後の使徒パウロもこのファリサイ派に属していました。民衆の紛争解決のために律法の解釈は大切でしたが、そのあまりにも字句にとらわれた解釈、慈愛に欠けた解釈はしばしば主イエスの強い批判を浴びたのです。神殿祭儀を重んじることと、町での暮らしの中で律法を忠実まもること。ローマとの親密さを保つ宗教貴族と、神に選ばれた民・ユダヤ人の誇りをもって民衆と共にあること。ファリサイ派とサドカイ派はともに最高法院の議席を持っていたのですが、ことあるごとに対立していました。単純に言えば親ローマ派と民族派の対立です。普段仲の悪いファリサイ派に属します律法学者や長老たちと、サドカイ派の祭司たちがここでは協力して、ペトロとヨハネを裁いているのです。彼らの協力はこれが初めてではありません。それは主イエスを捉えて裁判にかけた時でした。22:66 夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、22:67 「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。22:68 わたしが尋ねても、決して答えないだろう。22:69 しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」22:70 そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」(ルカ福音書)それだけではありません。反目し合うローマとユダヤの指導者たちです。23:12 この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
普段敵対している者同士が神の独り子、主イエス・キリストに逆らう時に、あるいは聖霊に満たされているペトロやヨハネたちに逆らう時に、一致団結すると言う皮肉です。教会は、あるいはクリスチャン通しは、キリストを中心として仲良くなります。聖書は主にある兄弟姉妹と呼び互いに祈り合う者どうしです。 それに対して、主に逆らう者たち、主を迫害している者たちでさえも、ある意味で主を中心として協力し合うことが起こるのです。だとすれば、クリスチャンどうし、あるいは教会どうしがみ合うのは、まさに「悪魔の思うツボ」と言うことになります。お互いに祈り合い助け合う必然性ここにあるのです。さてこの時彼らはペトロとヨハネを再びイエスの名によって話したり、教えたりしないように脅して釈放しました。 その彼らの答えが4章19節以下です。4:19 しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。4:20 わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」釈放された彼らは主イエスの復活の証人として語り癒しを与え続けたのです。
やっと5章17節にたどり着きました。5:17 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、5:18 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。のです。前回釈放に際して「再びイエスの名によって話したり、教えたりしないよう」厳しく言い渡したではないか。それを破ったうえに民衆の人気を得ている。ねたみに燃えて、5:18 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。のです。サドカイ派の人たちは一安心したことでしょう。その噂を聞いたファリサイ派の人も喜んだはずです。本来敵対している両陣営ともその晩は美酒に酔ったに違いありません。共通の敵、使徒と呼ばれるクリスチャンのリーダーたちを捉えて牢に入れたのです。これで安心できます。しかし、彼らの喜びはその晩限りでした。翌朝最高法院で裁判にかけようとすると、牢は空っぽ。使徒たちの姿はありませんでした。 19節 5:19 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、5:20 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。5:21 これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。「命の言葉を残らず民衆に告げなさい。」これが神様のご命令だったからです。
それでは「命の言葉」とはなんでしょうか?4章19節によれば、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。4:20 わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」また、5章29節以下によれば、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。5:30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。5:31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。5:32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
「命の言葉」とは、「神の独り子が私たちの罪を負って十字架で死なれ、神はその御子イエス・キリストを復活させ、ご自分の右に上げられた」ことです。そして、使徒たちは、「この命の言葉を残らず民衆に告げなさい。」との神様のご命令に忠実だったのです。私たちは今日「命の言葉」を聖書を通して聞きます。聖書の解き明かしである説教によって聞きます。さらに主の聖餐において目に見える形でそれを受けます。使徒たちは「4:20 わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」 この様に言っています。
話さないではいられない。皆さんもそんな経験をお持ちではないでしょうか。 こんなジョークがあります。私はゴルフが出来ないので良く分からないのですが、ホールインワン、すなわち一回打っただけでカップに入ってしまった時の感激は、知らせたくてしょうがないそうです。それを伝え聞いた友人から水を向けられると話が止まらなくなるのだそうです。あるゴルフ好きの牧師がいました。私でないことは確かです。日曜日の朝、一回目の礼拝を済ませて外に出ると素晴らしい天気、絶好のゴルフ日和です。たまらずに二回目の礼拝を副牧師に任せてゴルフ場に出かけました。これを空から見ていた天使たちは言いました。「神様ひどい牧師です。懲らしめてやってください。」 神様は「わかった。」とおっしゃいました。そうとは知らない牧師は最高の天気を楽しみながら、鼻歌交じりでティーショットを打ちます。ピューン飛んだボールはグリーンをとらえ、なおも転がっていきます。転がって転がってなんとカップに入ってしまいました。ホールインワンです。牧師が飛び上がって喜んだことは当然ですが、これを見ていた天使が叫びました。「神様、ひどい牧師なのになんでホールインワンなのですか?!」 神様はおっしゃいました。「なに、誰にもしゃべれないだろう!」素晴らしい出来事、感動した出来事を話さないではいられない。ホールインワンではなくても、展覧会や音楽会、美味しいレストランあるいは読んだ本や映画、日常の中で犬や猫の見せる何がない仕草。私たちの心を打つものは沢山あります。その中身が「命の言葉」であれば良いと思います。大きな声でなくてもいいんです。ささやいてもいいんです。
仙台青葉荘教会の潮牧師と話しました。ホーリネス教会の伝統の中で路傍伝道を行っているそうです。ブログに次の様に書いてらっしゃいました。「路傍伝道により教会に来る人はいませんが、道路に立ち続けることに意味があると信じて継続していきます。路傍伝道に参加してくださる教会員がおり、また、背後で祈り続けている教会員がおり、路傍で説教している姿を見る通行人がいる。そこに神の導き、憐み、恵みを感謝しています。」私たち改革長老教会の伝統を持つ教会の中に路傍伝道を行う教会はあまりみあたりませんが、「命の言葉」を語っているのです。新庄教会の内藤牧師と山形六日町教会の130周年記念の話をしました。小島誠志(おじませいし)牧師に講壇を担当願う話をしたところ、「あの先生の話を聞きたいと言う人はいっぱいいるでしょう。入りきれますか?」 との事でした。
礼拝は誰が説教をするかによって来る・来ないを言うものではありません。私が研修を受けた教会の週報に、次週説教者の名前は意識的に書かれていませんでした。説教は誰が講壇に立っても「命の言葉」を解き明かすだけです。しかし、この機会を生かすことは大切です。大声で言う必要も街角で言う必要もありません。どうぞ静かに周りの人を礼拝へと誘って下さい。それも感謝と喜びの一つの表現として神様が用いて下さるでありましょう。
使徒たちの言葉が耳に残ります。「4:20 わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」本日の説教題「神に従う」とは「命の言葉」に生かされ「命の言葉」を伝えるその喜びなのです。祈りましょう。