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山形六日町教会

2017年8月27日

聖書:詩編119編124~128節 使徒言行録4章32~5章11節
説教シリーズ 受け継ぐ者達-3「偽善」波多野保夫牧師

私たちはルカ福音書を礼拝において読み進める一方で、7月16日からこの使徒言行録をご一緒に読み始めました。使徒言行録はルカ福音書の続編として同じ著者ルカが記したものですから、ルカ福音書が終わってから続けるのが流れとしてはよろしいのかも知れません。
ではなぜ今使徒言行録かと言いますと次の理由があります。今秋私たち山形六日町教会は創立130周年の感謝の時を持ちますがその時はまた131年に向けての新しい歩みを始める時なのです。そこで、主の福音を力強く語る豊かな賜物を与えられた二人の教師を講壇に招きみ言葉に聴くことで131年目の歩みをご一緒に始めたいと思います。
しかし、私たちの状況は、日本の多くの教会と同じように厳しいものがあり、表面的には会員の高齢化と礼拝出席者の減少としてあらわれています。
私たちは手をこまねいているわけではありません。皆さんがそれぞれに祈り具体的な行動を起こしてくださっています。それらの一つ一つの働きが主によって大いに祝され用いられます様に祈ります。

さて説教シリーズ『受け継ぐ者たち』では全てを礼拝でお読みすることはしません。ぜひ読み飛ばした聖書箇所をご自分で読み補って下さい。
そのために、全体像のおさらいをしておきましょう。森の様子を知りながらそれぞれの木、すなわちそれぞれの聖書箇所を読んで行きたいからです。
先週もその言葉を引用しました著名なイギリスの神学聖書学者バークレーは初代教会の様子を次の様にまとめています。
1.学ぶ教会 彼らは使徒の教えを聞き続けました。私たちは今聖書を通して使徒の教えを聞き続けます。これが教会の伝統です。9月から始まりますアルファ・コース2に全員が参加下さることを願っております。2.交わる教会 3.祈る教会 聖書は教会に集う友を兄弟姉妹と呼びます。お互いに祈り合う教会でありたいと思います。4.敬虔な教会 ここに掲げた十字架はキリストの愛を強く心に刻むためであり、その思いをもって世に派遣されるためのものです。以前ある教会の駐車場出口に掲げられた看板を紹介しました。そこには「今、あなたは伝道の地へと派遣される」この様に書かれています。神に対する敬虔さは教会内部だけに留まってはならないのです。プロテスタント教会が修道院を持たない所以です。5.何かが起こっている教会 私たちの教会にも奇跡が起こり続けるのです。6.共有の教会 後で見ていきます。7.礼拝する教会。8.喜びの教会。9.好意を持たれる教会。 以上の9項目です。
いかがでしょうか、山形六日町教会がいくつ当てはまるかを数える必要はありません。なぜなら聖霊が働かれる時、そして私たちが従順になる時に、自然にそうなってしまうことを使徒言行録は語っているからです。
本日は使徒言行録の4章37節までを朗読していただきましたが、5章11節までのみ言葉を聞いてまいります。前半が原始共産制と呼ばれる麗しい共同生活、そして後者はお金をごまかした夫婦の話となっています。実は教会の説教において、前半部分、「すべてを共有していた。」と語る部分の説教は非常に少ないのだそうです。それは現代において私有財産を放棄している者がほとんどいないからでありましょう。修道院にその習慣が残っているのでしょうが、プロテスタント教会は世俗の中にあって重荷を負い、共に担って下さる主に感謝しての生活を旨とします。また現代における原始共産制の実践にはカルト的集団の持つ、危うさが付きまといます。
聖書に聞いていきましょう。使徒言行録3章から4章31節までは、初代教会に集う人々が使徒たちを中心にしての霊的な生活が語られ、32節から彼らの生活を支えていた経済的状況を語り始めます。34節 4:34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。ここには労働のことは語られていませんから、持ち物を売っての生活がいつまで続いたのかは分かりません。あるいは当時は奴隷がいる社会ですから、一部の金持ちは継続的に必要なものを提供できたのかも知れませんが、あくまでも強制によるのではなしに、自主的に使徒たちの足元に置いたのです。少し先を読むと分かります。5章4節 5:4 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。どうしてこんなことをする気になったのか、と言われているその中身は後にしますが、「売っても売らなくても自由だし、その代金を使徒の足元に置いて献げても、自分で持ったままでも構わないのだ。」この様に言われています。35節に 4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。2000年後の日本においてこの役目は中央と地方の公共団体において担われています。もちろん制度上の不十分な点を多くのボランティアが補って成り立っている社会ですが、明治から大正にかけての時期に多くのクリスチャンが立ち上がったこと、さらに山形六日町教会が山形いのちの電話設立以来、大きな働きをしてきたことが記録されていますし、皆さんもそれぞれに社会貢献をなさっていることでしょう。この意味で4章34節に「信者の中には」と限定的に語られていることが社会全般に広がっているとみることが可能です。しかし、私たちは初代教会が持ち物を共有した教会であったことを大切にしたいと思います。36節にバルナバが登場します。彼は後にキリスト教徒を迫害していたパウロが復活のキリストに出会い回心したにも関わらず、相手にしてもらえなかった時にパウロを教会へと導き、さらに二人で伝道旅行に出かけるのです。地中海地方一帯に教会が立てられていく過程はパウロ抜きには考えられません。そのパウロを使徒たちに紹介し教会に導き入れる。なにせ迫害の先頭に立っていたパウロです。バルナバの働き無くして教会がパウロを仲間に入れることはありませんでした。そのバルナバが信頼を得ていたのは、彼の自発的な行いに象徴される深い信仰の故であったのです。バルナバは 4:37 持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。 さらに言えばこの信仰を与えられたバルナバを神様が用いられてパウロを教会に招かれたのです。神様のご計画の素晴らしさを知ります。
さて、5章です。 5:1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、5:2 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。5:3 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。5:4 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」この後、アナニアの妻サフィラが夫と口裏を合わせて、土地の代金をごまかしていたことが明らかにされます。一万円で売っておきながら使徒の所に九千円持ってきて、私たちの土地を売って得たお金の全てがこれですと差し出したのです。なぜ、そんなことをこの夫婦はしたのでしょうか?それは4章37節にあるバルナバの行いに関係しています。彼は「4:37 持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」のでありました。 あるいはほかの人たちもそうしている。一種の脅迫観念が襲い、自分たちもこの集団にいるのだから、あるいはこの集団で尊敬を受けるためにはバルナバと同じことをしなければならないと考えました。しかし、この夫妻は自分たちの欲得から離れることは出来なかったのです。基本的に欲に支配されつつ見栄のために行う、あるいは純粋な気持ちで良いことをしたいのだが、欲を捨てきることが出来ない。そこで見栄に支配されて実際以上に見られたい。これを偽善と言い、その様な人を偽善者と呼びます。
このアナニアとサフィラの物語を通して語られているのは、神が偽善を嫌われることであり、また我々が他人に良く見られたい、実際以上に見られたいとの感情にいかに弱いかであります。
5節でアナニアの死を語り、10節では妻サフィラの死を語ります。科学的にこの死は精神性ショック死と説明されるでしょう。死ぬほど恐ろしい体験をした時に大量に分泌されるアドレナリンが心臓発作を起こさせることがあるそうです。ペトロは夫アナニアに言いました。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。ペトロは妻サフィラに言いました。 「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」この二人は、「聖霊を欺いた、主の霊を試した。」と言うペトロの指摘で死に至る精神的ショックを受けたのです。
イエス様に次の言葉があります。ルカ福音書12章10節です。12:10 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。 正にこのみ言葉の通りの出来事でした。
ではなぜ神はこれほどまでに偽善を嫌われるのでしょうか。主イエスがどの様な方であるのか、この二人が偽善、すなわちサタンに心を奪われていることを指摘したのはペトロでしたが、そのペトロはイエス様が捕らえられた夜、鶏が鳴く前に3度主を拒んだ人間です。その彼が復活の主と食事を共にした時の話がヨハネによる福音書21章15節以下にあります。21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。同じ質問と答えが16節で繰り返されます。さらに17節でもう一度同じことが繰り返されます。これは、ペトロが3度主を拒み裏切った出来事に同じ数だけの赦しと励ましを与えられたのだと理解されます。人生最大の失敗を赦してくださる大いなる愛です。
しかし、今日はもう少し細かく見たいのです。ご承知かと思いますが、日本語では「愛」と言う言葉は一つだけですが、ギリシャ語では違った単語があります。ストルゲーは親子や家族間の愛情を、エロースは男女間の愛、フィリアは友情、アガペーは神様が私たちに示される無条件の愛です。15節以下をこの区別が明確になる様に訳すと、21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしをアガペーすなわち、無条件に愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたをフィリア・友情をもって愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16節も同じです。しかし、17節で主は「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしをフィリア・友情をもって愛しているか」この様に問われるのです。主イエスは律法全体を二つの戒めにまとめて、私たちにお命じなっています。12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マルコ福音書) この時の「愛しなさい」はアガペーすなわち無条件の愛です。 
それでは復活の主はペトロに3度「わたしを愛するか」と問われた時に3度目にアガペーすなわち無条件の愛を問われるのではなしに、フィリアすなわち友情を問われたのでしょうか? 平たく言えば一段階易しくしてくださったのです。アガペーすなわち無条件で愛を注ぐこと。皆さんはいかがでしょうか。以前、木曜日の聖書に聞き祈る会で、敵のために祈ることについて話し合いました。自分を否定してかかる人、あるいは敵意をもってかかってくる人のために祈ることの難しさを語り合いました。私は何回か説教の中でお話ししました様に、悪意を持つ相手が神様に近づく様に祈って下さい。必ずやその人は神に近づくでしょう。敵のために祈ることで自分も神様に近づく。三角形の底辺でお互いに離れていた二人が共に頂点にいらっしゃる神に近づけば、二人の距離は近づく。これならばできそうな気がしませんか? と申し上げたのですが、実はこれは私自身への言葉でもあるのです。
なぜイエス様はペトロへの要求レベルを下げてくださったのでしょうか?その理由はペトロが偽善者にならなかったからです。以前彼は最後の晩餐の後で、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言ったのです。その時の主イエスの答えは「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」でありました。ペトロはアガペーすなわち無条件の愛を示すことが出来ない自分を知っていました。ですから彼は偽善者になることなくフィリア、すなわち全力で友情を発揮することを3度繰り返したのです。そして主はその彼の答えを良しとされ、「わたしの羊を飼いなさい。」とおっしゃったのです。
先ほど、このアナニアとサフィラの物語を通して語られているのは、神が偽善を嫌われると言うことであり、また我々が他人に良く見られたい、実際以上に見られたいとの感情にいかに弱いかであります。この様に申しました。主はなぜ偽善をそれほどまでに嫌われるのでしょうか? それはキリストの十字架における死を無にするからなのです。私たちの罪のために死んでくださった主は、何よりもわたしたちの砕けた心を求められます。主はおっしゃいます。「今この礼拝に出席している私、そしてあなたの愛の不完全さは分かっている。だから見えを張ることはやめなさい。偽善者になってはいけない。まず隣人を愛すること、それは自分に好意を持ってくれる人を愛するフィリアでいいんだ。自分に正直であれば必ずや私に出会う。そしてあなたは次第にアガペーすなわち私の愛を理解するだろう。」ここに十字架が掲げられたことによって、週ごとにこの礼拝堂で主にお会いすることがいかに大切か、そしてそれがいかに大きな恵みなのかが、お分かりになり易くなったのではないでしょうか。
最後に今日の聖書箇所を踏まえて身近な献金の話をしましょう。「どのくらいささげればよいのですか?」と聞かれることがあります。財産の1/10を献金として求める教会があります。確かに聖書にその記述はあります。しかし、1/10はそれで良いと言うのではなく、バルナバたちの様に全てをささげるのではなしに1/10までにしておきなさいと言う意味だとも聞きました。いずれにしろ1/10献金は良いことです。しかし、私は「自分の喜びの範囲で献げて下さい。そしてチョットだけ無理をしてそれに加えてください。神はその無理をやがて喜びに変えて下さいます。いただいたものをささげるのは大きな喜びだからです。」この様にお答えしています。献げものはお金に限りません、労力や時間、その他神様のご用のために使っていただくものは沢山あります。素直なこころで主に従う、主はそれを「幼子の様に」と言われました。その様な私たちの教会は初代教会の9つの特徴。すなわち、素直に学び、喜びの交わりを持ち、祈り合い交わりを大切にする、敬虔な教会、喜びの教会で有るはずです。そしてその基は真剣な礼拝にあります。この様な教会に主は奇跡を起こしてくださるでしょう。その一つは洗礼者が与えられることです。初代教会は正にその様な教会だったのです。私たちも偽善者になるのではなく幼子のような礼拝者でありたいと思います。祈りましょう。