HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2017年8月20日

山形六日町教会

2017年8月20日

聖書:箴言14章12~13節 ルカによる福音書13章22~30節
説教シリーズ ルカ福音書-74「メメント・モリ」波多野保夫牧師

本日与えられました聖書箇所ルカ福音書13章22節以下は次のように始まっています。13:22 さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。主イエスが幼いころから生活をし、30歳になって教えを述べ始められたガリラヤ湖の周辺地方からイスラエル王国の首都エルサレムへと向かわれた旅は、先を急ぐものではありませんでした。エルサレムには十字架が待っていることを自覚なさっており、ためらいの気持ちがあったことは否定できません。後にゲッセマネの園で「御心ならばこの杯を取り去って下さいと祈られます。」神様に対して何ら罪を犯すことのなかった自分が、人の罪のために十字架を負わなければならない、その理不尽さを感じてらっしゃったのは事実です。しかし、神のご命令に全く従順なイエス様が、なおもエルサレムへの歩みを遅くなさった、その背景にあるのは、悔い改めて神に立ち返ることが遅々として進まない民衆、いやそれだけでなく弟子たちでさえそうであったことに、いましばらくの時を必要と感じられたのでありましょう。 この時主イエスと共に大勢の人が旅をしていましたが、その思いは雑多です。使徒と呼ばれる12弟子を含め、神の独り子と知って従っていく弟子たち。今日のクリスチャンです。もしかすると救い主かもしれないとの希望を持ってついていく求道者。そして、主イエスをいろいろと試みることでボロを出させ、救い主なんかじゃないと証明したい敵意を持った人たちです。23,24節はこの3番目のグループに属する人の質問に対してのイエス様の答えです。13:23 すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。13:24 そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。この受け答えは少し変ではないでしょうか?この人の質問は救われる人が多いか少ないかですが、イエス様の答えは、その困難さについてです。困難だから少ないと返事されているわけではありません。「あなた方が救われる、すなわち神の国へと招かれて永遠の命に与かるのは困難だ。」この様におっしゃっているのです。3グループの人とは具体的にはユダヤ人であり、なかんずくファリサイ派や律法学者、民の長老たちが該当します。自分たちはアブラハムやモーセの時代から神によって選ばれた民族であり、中でも律法を良く学んで知っている自分たちが救われるのは当然だと思っていた人たちです。ですから「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた時、彼の期待していたのは、「救われる人は少ない。神のことをよく知っているあなた方ユダヤ人、中でも宗教指導者たちだけだ。」この答えでした。
ところで、あなたは救われますか? 正しくは、あなたは救われると確信していますか? この様に問うたとしたら、皆さんの答えはいかがでしょうか?洗礼式において、「父・子・聖霊なる神を信じ、主イエス・キリストの十字架の贖いによって救われたことを信じますか。」この様にお尋ねし、日本基督教団信仰告白を誠実に保つことを誓約していただきます。もちろん救われるか、救われないかはキリストが再びこの世においでになる時の裁きによります。古くから「終末の日における最後の審判」と呼ばれています。しかし、使徒言行録2章21節でペトロは『主の名を呼び求める者は皆、救われる。』と告げ、ローマの信徒への手紙 10章13節でパウロは、『主の名を呼び求める者はだれでも救われる。』 10章9節には『口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。』宗教改革者はこれを「信仰義認。すなわち、人が救われるのは善い行いによるのではなく、ただただイエス・キリストを信じる信仰によるのだ。」としましたし、私たち日本基督教団の信仰告白も「ただキリストを信じる信仰により」とこのことをはっきりと告白しています。
しかし、イエス様はおっしゃるのです。24節です。13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
ここでチョット注意が必要です。狭い戸口から入るように努めなさい。と言われている努めなさいです。実はこの言葉は努力しなさい、ハイ頑張ります。こういった軽い意味ではありません。奮闘する、苦闘する、全力を尽くす。「死に物狂いで狭い戸口から入りなさい。」こう言った意味の言葉なのです。その様子はちょうど主イエスのご命令、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』 に相当するのです。全てを尽くせと言う、 大変に厳しい命令です。イエス様が厳しくおっしゃり、ペトロやパウロ、そしてそれから1500年後の宗教改革者たちが『救われるのは信仰だけなのだ』と少し甘いことを言ったのでしょうか?  実は両者とも決して簡単なことではないのです。神の国に入る、すなわち犯した罪を赦していただき救われる条件は、私たちが良い行いを積んだからではありません。それはしょせん無理です。そうではなく神様の一方的な恵み、主イエス・キリストの十字架の死だけがその罪に値するのです。そして、私たちは犯した罪によって十字架に架けられるのではなしに、イエス・キリストへの信仰、信じ従うことで救われるのです。これが聖書の語る福音です。
それでは、イエス様を信じることは例えば洗礼式で、「ハイ信じます。OKと言った軽いことなのでしょうか。」そうではありません。それは、奮闘する、苦闘する、全力を尽くす。「死に物狂いで狭い戸口から入る。」ことなのです。
なぜ、「信仰のみ」と「死にもの狂いで求めなければならないこと」が矛盾しないのか。それは、死にもの狂いで求めるべきものが本当に素晴らしいものだからです。最愛の子供に対して親は厳しいことを言うでしょう。あれが欲しいと言ってすぐ買ってもらったものと、お手伝いをしてもらったお金をためて買いなさい、我慢しなさいと言われて手に入れるのと、どちらの喜びが大きいのでしょうか。
「信仰のみで救われる。」それは究極の真理です。私たちの善い行いは救いの条件ではなく救われた者の喜びの表し方なのです。ですから、沢山善い行いをなさってください。
それでは、死にもの狂いで努力して狭い戸口から入るとは何でしょうか。2000年前のユダヤの住宅には狭い裏口があり、普段家族はそちらから出入りしたそうです。日本の勝手口でしょうか。譬えを聞いた人はすぐ気づきました。その狭い戸口から入る時、大きな荷物を持っていると通ることは出来ません。まあ家の戸口でしたら荷物を分けたり、中身を取り出したりすれば可能かも知れませんが、大型冷蔵庫やソファーだったら通ることは出来ません。飛行機から緊急脱出する際、一切の持ち物を持つことは許されません。神の国に入る時にも余計な物を持ち込むことは許されません。思い煩いや心配事は主の愛を見えなくします。置いていきましょう。財産もそうかも知れませんし、名誉や地位がそうかも知れません。
バークレーと言う神学者はこの様なたとえ話を記しています。ある貴婦人がなくなり天国に行きました。まあ紳士でも良いのですがバークレーが貴婦人と書いているのでそのままにします。するとなくなった貴婦人をその割り当てられた家に案内する役目の天使が出迎えました。婦人は導かれるままに天使についていくと、素晴らしい邸宅の前をいくつも通り越して行きます。彼女はその度にこれこそ私に与えられる邸宅に違いないと思いました。しかし天使は歩き続けます。だんだん家が小さくなってきましたがまだ歩き続けます。そしてとうとう一番端まで来るとそこにはマッチ箱ほどの家がありました。天使は言いました。「これがあなたの家です。」「こんなみすぼらしいところに私は住めません。」彼女は叫びました。天使は言いました。「お気の毒ですが、あなたが送って下さったもので建てられるのはこれで精いっぱいなのです。」「天に宝を積みなさい」と言うことです。もちろん宝とはお金だけではありません。神様の喜ばれる真心です。神を愛し隣人を愛することです。余計なものは捨てて必死に生きるとは、心の向いている方向を変えることです。自然と天に宝を積む事になるでしょう。
しかしこれは、自分のしたいことをやるのが悪いと言うのではありません。やりたいことが神様のみ心に適うことなのか祈りの中で問うのです。そして祈り求めるのです。その時必ずや聖霊が良い道を示し助けて下さることでしょう。
イエス様はまたこの様におっしゃっています。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。7:14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」 (マタイ福音書7章13,14節)余計なものは捨てて心を主に向ける。それこそが私たちの人生を幸せで実り多いものとしてくれます。「信仰のみ」と「狭い戸口、あるいは狭い門から必死になって入る」両者は矛盾しません。そうではなくて「信仰のみ」と言われるその信仰の中身を具体的に明らかにしてくださっているのです。
狭い戸口、あるいは狭い門と言いますと、次の様な反発があります。すべての神的なもの、大きな岩に宿る神も、木霊も、佛陀もマホメドも、山の神も、それぞれ道筋は違っても頂上では同じ唯一の神に出会うのだから、どれを信じても同じだしかまわない。イエス・キリストは有能な一人の預言者だった。だからみんな仲良くやりましょう。イエスが神と同じだなんていうからおかしくなって宗教戦争が起きるのだ。確かに他の宗教をいたずらに攻撃する必要ありませんし避けなければなりません。しかし、私たちの信仰する神は三位一体の神、父・子・聖霊なる神、すなわち愛の神以外にはありません。他の宗教が存在することは神様のみ手に委ねれば良いのです。
旧約聖書ヨシュア記 24章15節 もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。私たちの神は主と呼ばれる三位一体の神だけです。
また、狭い戸口、あるいは狭い門と言いますと、次の様な反発もあります。いわゆる未受洗者にも聖餐に与かることを許す主張です。「洗礼を受けた者だけ聖餐に与かれると言うのは差別だ。イエス様は愛に満ちた方で有り、弱った者や虐げられた者の味方なのだからそんな差別は許されないはずだ。」と言うのです。イエス様が愛に満ちた方であることは正にその通りですが、他は違います。本当に私たちを愛してくださる主は猫かわいがりにはなさらないのです。全ての人が「悔い改めて福音を信じる」、その真の幸せをつかむこと、心の向きを変へて豊かな人生を歩むことを求められているのです。主の愛は実に深いのです。たとえ今聖餐にあずかれなくても全ての人を洗礼へと招いておられ、その招きが洗礼へとつながる。それがこの礼拝なのです。だからこそ主は私たちに周りの人を礼拝へと招くことを命じられるのです。
では、私たちはどうするのか。本日の説教題を「メメント・モリ」としました。これはラテン語ですが中世の修道院において、修道士たちが朝の挨拶や廊下ですれ違った時に「メメント・モリ」と言っていたそうです。メメントはメモリー、覚える・記憶するであり、モリは死です。その意味は「汝、死すべきことを覚えよ」です。朝起きて人に会った時に「死ぬことを忘れるな!」この様に言い合っていたというのですからすごいですね。13章25節から28節は家の主人が戸を閉めてしまった時、すなわち終末の時が語られます。13:26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。13:27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 「キリスト教の事を知っています。クリスマスって素晴らしいですし、葬儀や結婚式も厳かです。」 そこで留まるとすれば本当にもったいないことです。結婚式と言えば、10人のおとめの話。5人は油を用意し祝宴に入れましたが用意の無かった5人は外に置かれました。結構残酷な話がでてきます。「全員にパンと葡萄酒を分け合いましょう。」と言う話では解決できそうにもありません。
先ほども申しました。主イエスの愛は溺愛ではありません。厳しさの向こうに輝くものがあるのです。それは神の尽きることのない愛であり、この厳しさの向こうにある愛を見つめつつ歩むことこそが信仰なのです。「メメント・モリ」確かに全員に平等に死は訪れます。その時期は神様がお決めになりますが誰も逃れることは出来ません。修道士たちは「死を覚えよ、そして神を思え」この様な意味を込めて、朝の挨拶に「メメント・モリ」と繰り返したのです。死を覚えることは同時に神の尽きない愛を覚えることなのです。その事実を思う時、手前にある人生は余計なものから解放された人生となります。
最初に読んでいただいた箴言。14:12 人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。14:13 笑っていても心の痛むことがあり/喜びが悲しみに終ることもある。まことに移ろいやすいのが私たちの人生です。しかしその中で変わらないもの、どんなときにも絶対に変わらないもの、それが主の愛です。
求道中の方、どうぞこの幸せな人生をご一緒しましょう。狭い戸口の向こうにある素晴らしい人生をご一緒しましょう。主が招いておられるのです。既に洗礼を受けた方への警告です。30節13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。メメント・モリ 死を覚えよ、そして神を思え」 主の愛の内を必死になって歩みましょう。そこに真の平安があります。 祈ります。