HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2017年8月13日

山形六日町教会

2017年8月13日

聖書:エレミヤ書29章11~14節 ルカによる福音書13章18~21節
説教シリーズ ルカ福音書-73「神の国とは」波多野保夫牧師

説教シリーズ、ルカによる福音書は本日で73回目となりました。私が山形六日町教会に赴任して丸3年と4カ月が経過しました。時の経つ速さにあらためて驚かされます。この間、月のうちの2週はルカ福音書の連続講解説教を、他の2回は特定のテーマでの説教を原則としましたから、単純計算をしますとこのルカ福音書シリーズは後、2、3年かかることになります。
ヨルダン川で洗礼を受けられてから、十字架の時までが3年程だったと言われていますので、私たちの歩みの方が遅いのですが、聖書の告げる主の豊かな働きをご一緒に一歩一歩聞いて参りたいと思います。

本日の聖書箇所、13章18節は「そこで」と始まっています。10節以下で安息日に、腰の曲がった婦人を癒された出来事がありました。神に心を向ける日として働くことが禁じられている安息日に病人を癒したことを咎められた主は、13:16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。 この様におっしゃいました。聖書はその時の様子を伝えます。 13:17 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。反対者、すなわち律法の厳守を厳しく求める当時の宗教指導者たちは、「恥じ入った」とあります。“恥じ入った”と言いますと素直に自分の間違いを認めて悔い改めたように聞こえますが、実はこのギリシャ語には“面目を失う”とか“恥をかく”と言った意味があります。最終的に、宗教指導者たちはイエスを十字架に架けることになるのですから、彼らの恨みは増したのです。
一方、群衆はみな イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。のでありました。自分たちのことを棚に上げて、律法を守れ神に従えと厳しく迫る当時の宗教指導者たちに辟易(へきえき)としていた人々は、力ある主の言葉と業を大歓迎したのです。
なぜ、この場面で神の国について語り始められたのでしょうか?その原因は 群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。 このことにありました。「神の国」あるいは「天の国」はいわゆる「天国」とは違い、神の御支配が完全に行き届いている場所、あるいはその時を意味します。これは悪魔の支配からの解放と言っても良いでしょう。2000年前もそして現在も、この世には悪が満ちており、世界全体が悪魔に支配されているのではないかと思える時すらあります。イエス様の時代、地中海沿岸地方はローマ帝国の支配の下にありました。負担しなければならない税金や労働に加えて、神々を祭り皇帝への礼拝を強制するローマに対しての憎しみは深かったのです。神々ではなく、ただ一人の神だけを礼拝し仕えるユダヤの人達が民族の救い主、メシアの到来を待ち望み、地上に「神の国」が実現することを祈り求めてきたことは当然でありました。 この暫く後に、主イエスはイスラエルの首都エルサレムで十字架に架けられるのですが、入城の様子です。
「21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」  ダビデの子とは紀元前1000年イスラエルが一番栄えた時代のダビデ王、その子孫と言う意味です。人々の大歓迎は、待ちに待ったメシヤ、民族の救い主が現れローマ帝国を打ち破って、あのダビデ王の時代の輝きを取り戻してくださる、その期待に対してでありました。群衆の理解する「神の国」は神の支配が地上に実現し、イスラエル王国の繁栄が回復されることでした。これは何百年も前から、人々が礼拝においてそしてそれぞれの家庭において祈り続けて来た願いでした。
ルカ福音書13章17節 群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。 この喜びの中に、「イエス様こそ本物のメシヤではないか。ローマ帝国を打ち破り自分たちの所に「神の国」を実現してくださるのではないか。」このような期待を見て取られたのです。危険を感じられたのです。13:18 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。13:19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」からし種は、地中海地方に生える草で数メートルの丈に成長しますが、その種は数ミリと大変に小さいのだそうです。「神の国」はそんなからし種に似ているとおっしゃるのです。数ミリと大変小さく始まり、そして数メートルの丈にまで成長する。しかも草でありながらしっかりした木の様になり、えだに鳥が巣を作るまでに成長するのです。主イエスがこの様に譬えで語られたことに、それを聞いた人々はピントきました。旧約聖書エゼキエル書のこんな一節です。31:5 その丈は野のすべての木より高くなり/豊かに注ぐ水のゆえに/大枝は茂り、若枝は伸びた。31:6 大枝には空のすべての鳥が巣を作り/若枝の下では野のすべての獣が子を産み/多くの国民が皆、その木陰に住んだ。大きな木のもとにすべての鳥が巣を作り全ての獣、全ての国民が平和に暮らす。獣とありますからそこには弱肉強食の世界があるはずです。しかし、神の国は最初は本当に小さいのですが、やがてその恵みのもとに全世界のものが集められ、本当の平和が実現するのです。
からし種について主が述べられた言葉が他にもあります。お読みします。ルカによる福音書 17章6節です。主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。マタイによる福音書 17章20節です。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
聖書が伝えます、主イエスのこれら二つの言葉。信仰があれば何でもできる、あるいは信仰をもって願えばかなえられる。なんて非科学的な言葉だろう。山が移るわけないではないか。もちろんこれを比喩的表現と読むことが出来ます。しかし、実際に山は動きます。大陸移動説は広く受け入れられていますし、山の中から海にいる貝の化石が出ます。現代ではダンプカーで山の土を動かすことも可能です。譬え話ですから解釈に幅があって良いでしょうから“山をも動かす出来事”とは実際には起こりそうもないことが起きることと理解することもできます。そうです“山をも動かす出来事”とは実際起こりそうもないことが起きることを意味しています。
一つの例をあげましょう。パレスチナの地から地球の裏側にあります山形六日町教会に私たちが今集って礼拝をささげている。そしてその中にこの私が加わっている。これはまったくの奇跡です。皆さんが生まれた時からのことを考えてみてください。多くの偶然が重なって重なって、さらに重なって、今この礼拝に集っているのではないでしょうか。私たちの目からは山が動くほどの偶然ですが、それは神様の目から見れば必然的なこと、神様の愛のご計画に沿ったことなのです。
天の国はからし種の様に小さく始まるのですが、この始まりを二つに分けて考えることは適切でしょう。この世への「神の国」の到来と私の心への「神の国」の到来です。「神の国」とは神様の支配が完全に行われる時であり場所でした。神の独り子が人の形をとって世に来られたクリスマスの晩、地上に「神の国」が到来しました。大工の息子が馬小屋で生まれたと言う、からし種ほどの大きさの出来事でした。しかしこのからし種は2000年たった今も成長を続けています。教会です。世界的には20数億人の様々な人々が教会につどっています。成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。正にこのことが起こっているのです。もう一つは、私たちの心に聖霊が宿って下さった、からし種ほどの信仰の芽生えです。それを神様が育ててくださり、やがては木となるのです。もちろん種をまき水をやって世話をする人が必要ですが、これが教会であり信仰の友です。
さあ、あなたに蒔かれたからし種ほどの信仰は育っているでしょうか?成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作っているでしょうか?20節21節です。13:20 また言われた。「神の国を何にたとえようか。13:21 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」当時のパレスチナでは各家庭でパンを焼きました。イエス様も母マリアがパンを焼く姿を見、そしてそのパンによって育ったのでありましょう。パン種とはイースト菌です。三サトンの粉とありますから20キロ程の小麦粉です。ものすごい量ですが、そこに少量のイーストを混ぜて練ると、イーストはもはや見えなくなりますが全体の変化は確実に起きます。そして一旦この変化が始まるともはや止めることはできません。イーストは調理台の上に置かれただけでは何の変化も起こしませんが、小麦粉に混ぜることによって初めて大きな変化が起きるのです。主イエスは、実はこれが神様のご計画、この地上を「神の国」にするためのご計画だとおっしゃいます。そして主イエスは、社会的に価値の認められていなかった者たち、いやむしろ邪魔者扱いされていた者たちを用いて神様のみこころを示されました。
主は貧しいやもめがレプタ2枚、80円程度をささげた時、金持ちの献金に勝ると言われました。(ルカ21:3,4)人目を忍んで暑い真昼間にしか水を汲みに来れない女に命の水をお与えになりました。(ヨハネ4:1-)当時全く価値を認められていなかった子供たちをさして、「心を入れ替えて子供の様にならなければ、決して天の国に入ることは出来ない。」とおっしゃいました。(マタイ18:3)
そもそも、クリスマスの出来事。イエス様の誕生からしてそうでした。宿屋が満員で空いているのは馬小屋だけ。讃美歌256番 「まぶねのかたえに」は4節で「こがねのゆりかご 錦のうぶぎぞ 君にふさわしきを。」と歌うのです。
旧約聖書の世界にもあります。サムエル記にあります羊飼の少年ダビデが主によって選ばれた場面を思い出してください。神は勇壮な兄たちを選ばれません。そしておっしゃるのです。。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16:7)
聖書には、この世的には、あるいはここにいる私たちの目には大したことのない者と映る人たちを用いて、神様がその偉大な愛を示される話が沢山あります。そもそも使徒として選ばれた主の弟子は、当時社会的地位の低かった漁師や嫌われ者の取税人でした。ほんの少しのイースト菌によってパン生地は膨らむのです。ですからイースト菌とは聖霊です。生きて働かれる神様の力です。その聖霊を受けたのが使徒たちであり、ペンテコステの日に洗礼を受けた3000人であり、その後発展していった初代教会です。同じように、今日ここに集う私たち全てで有り、山形六日町教会で有り、この主の日に世界各地で礼拝をささげている教会とそこに集う人々なのです。
「神の国」あるいは「天の国」とは神様の支配が完全に行われるところだと言いました。イエス・キリストの誕生によって既に地上に到達した「神の国」もうすこし控えめに言えば「神の国」のひな形、これが教会なのです。私たちの真のアイデンティティー、これは他と異なる特徴であり固有性ですが、私たちのアイデンティティーはイエス・キリスト。そして私たちのイースト菌は主イエスが遣わしてくださり、今も働いておられる聖霊です。この聖霊が豊かに働いて下さる時、私たちは神様の愛を強く感じます。どうぞ聖霊の働きを祈り求めて下さい。
しくじった時、深い悲しみ苦しみに覆われた時、友達のいない淋しさに襲われた時、信仰の破れを感じた時。そして反対にすべてが順調と思える時、もっともこう言った時はむつかしいかも知れませんが、ぜひ祈って下さい。独りでは祈りの言葉が見つからないのであれば、主の祈りを口にし、さらに教会に来てください。一緒に祈りましょう。必ずや聖霊が導き助けて下さいます。私たちの信仰、それはおそらくからし種ほどの信仰でしょう。大丈夫です、いいんです。イースト菌すなわち聖霊が私たちの心の中で、そして教会の中で働いて下さいます。 13:19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。この様に成長するのです。もし、成長していないと感じるのであれば、ご一緒に祈りましょう。
ではなぜ、クリスチャンにはそんな確信が持てるのでしょうか?それはこの十字架を見る時、神様が私たちを愛していて下さることを強く感じるからです。最初に読んでいただいたエレミヤ書29章11節以下です。29:11 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。29:12 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。29:13 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、29:14 わたしに出会うであろう、と主は言われる。神様のご計画は、どんな時にあっても平和の計画で有り、私たちに信仰と希望と愛を与えるご計画なのです。祈りましょう。