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山形六日町教会

2017年8月6日

聖書:創世記15章9~17節 使徒言行録2章42~47節
説教シリーズ 受け継ぐ者達-2「新たな生活」波多野保夫牧師

山形六日町教会では、例年8月最初の主日礼拝を平和について思いを新たにする平和主日礼拝として守っています。これは直接的には第二次世界大戦が終わりました、8月15日・終戦記念日にちなんでのことですが、6日、9日と相次いで原子爆弾が投下された日をも含めて、平和への思いを新たにするものであります。戦争のもたらす悲惨さを思うとともに、平和への祈りを篤くしたいと思います。後ほど戦争責任告白を唱和しますが、戦争を知らない世代の方も、ご一緒に平和への祈りを新たにしていただきたいと思います。
旧約聖書イザヤ書9章5節は次の様に語ります。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。この聖書箇所はクリスマスが近づきますと良く読まれます。主イエス・キリストの誕生に関しての預言イザヤの言葉です。今から2000年前のクリスマスの晩、この預言は実現しました。真の平和の君の誕生です。真実の平和、それは「隣人を愛する」こと以外から実現することは極めて困難でしょう。もちろん隣人を愛することも困難です。同じ困難ならば人の思いからではなく、主が命じられた「隣人を愛する」道をとりたいと思います。なぜならば主が共に歩んでくださる道だからです。み言葉に聞いてまいりましょう。

使徒言行録2章1節以下にはペンテコステの日の出来事が記されており、私たちも6月4日のペンテコステ礼拝で聞きました。その日、聖霊が降り人々を喜びで満たして常識を超えた力が与えられたのでありました。ローマ帝国の各地からユダヤの都エルサレムに集まっていた人々は、自分たちの言葉で福音が語られるのを聞き理解したのです。それに続いて、ペトロは説教をしました。2章14節以下です。40節から42節をお読みします。2:40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。2:41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。2:42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。2:43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。その日に、3000人が洗礼を受けたのです。私たちは本当の平和がこの地上に実現するために、大勢の人に主の福音を伝えたいと思っていますが、この出来事は羨ましい限りです。
ではなぜ3000人もの人が新しいグループ、即ち教会の仲間に加わったのでしょうか? それを知るに、最初の教会の様子を知ることから始めましょう。
まず第一に、教会は全ての人のためのものでした。様々な文化的・社会的背景を持った人々が集ったのです。9節 2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいる この様にさまざまな出身地や人種の人がいたのです。さらに16章14,15節にはティアティラ出身の紫布を商う人、神を崇めるリディアと言う婦人もパウロの話を聞いて、彼女も家族の者も洗礼を受けたとあります。紫布は高級な生地ですから、それを扱う商人は相当の金持ちだったと言われています。10章ではペトロがローマの100人隊長、コルネリウスと彼の家に集まった人々に福音を説き、彼らに聖霊が働かれた様子を伝えています。ペトロの言葉です。 10章47節10:47 「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。初代教会は神様の前ですべての人、これは出身地の違う人、多くの貧しい人、金持ち、さらに敵であるローマ軍の隊長まで、すべての者が平等でありました。なぜか?それは、皆が神様によって平等に愛されていることを知ったからです。新しく生まれた教会は、律法によってではなく聖霊の働きによって統治され、神の愛と恵みを強く感じ、隣人を強く愛する集団でした。集う者は、良い行いや献げものを喜んで行ったのです。教会に連なり、神の恵みのもとを歩む幸せな人生。その条件は、自分の弱さあるいは醜さ、これを罪と呼びますが、その罪を主イエス・キリストの前で認め、しかも主イエスが、その罪を私の代わりに負って下さった救い主だと告白する。そのことだけなのです。これは2000年の昔も、そして今も全く同じなのです。キリストの教会は全ての人に開かれているのです。まだ洗礼を受けるに至っていらっしゃらない方、あなたのために主イエス・キリストは待っていて下さるのです。信仰を告白され神の民、教会員として共に幸せな人生を歩みだす、そのことを主が待っていてくださるのです。
二つ目に、初代教会は生涯学び続ける教会でした。なぜ彼らは学び続けるのでしょうか? それは全ての答えを知っていないからです。では、学ぶのをやめるのはどの様な時でしょうか? それは全ての答えがわかったのか、興味を失った時です。2章42節に「彼らは、使徒の教えに熱心であった。」とあります。使徒の教えはやがて文章にまとめられ、聖書として今日に伝えられています。山形六日町教会では「聖書に聞き、祈る会」「麦の会」昨年まではアルファ・コースを持っていましたが今年はお休みする代わりに秋口から新しい学びの時を持ちたいと思っています。全ての答えがわかっているのでなければ、あるいは情熱を失っているのでなければ、礼拝でみ言葉に接するのに加えて、これらの機会を利用して、聖書の語る真理をさらに深く知ってくださるようにお勧めします。
三つ目、初代教会は分かち合う教会でした。44節45節2:44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、2:45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。これは原始共産制と呼ばれますが、現代では修道院の一部にその姿をとどめるのでしょうか。私たちはそれぞれの者に与えられた賜物すなわち、お金、才能、時間、労力、必要な物などを献げます。お金に関して言えば、礼拝献金、月定献金、会堂献金、引退牧師の為の謝恩日献金、災害の被害の対しての支援献金など様々な献金を神様のご用のために献げそして用いていただく。初代教会の人々とその喜びを共有しています。さらに教会において社会において様々な奉仕活動があります。それら献げものの中で最大のものは祈りでありましょう。42節に 「彼らは、祈ることに熱心であった。」とあります。もし献げものや奉仕が祈りから出発するのではなくて、祈りと無縁であるならば、恐らくそれは自己実現の為でありましょう。そうです。初代教会は私たちと同じように祈りの集団だったのです。お互いに祈り合うこと。人間の集団であれば何らかのいざこざや軋轢は生じるでしょう。クリスチャンとは自分の幸せだけでなく他人の幸せのためにも祈る集団、すなわちお人よし集団です。  日々繰り広げられる生存競争において相手に、多少なりとも弱みを見せれば競争相手に注文や顧客をとられてしまう。たった一日の違いで特許を押さえられたり、新商品開発競争で負けてします。これが現代でありましょう。
競争に勝って少しでも良い暮らし、あるいは将来の安定を得たい。この種の向上心が人々の幸せに寄与しているのも事実です。新しい薬の開発競争が多くの人の命を救い、またスマートホーンという小さな箱一つで世界の人口の半数以上がつながることが出来るなどなど、努力の成果は沢山あります。しかし、どうでしょうか。その一方で、勝ち組と敗け組を分け、そのストレスがクレーマーになってまた次の人のストレスを生む。さらに新聞紙上には、わいろや汚職、論文や経理の不正などなどの記事があふれていますし、かつて農村では水争いがあったのでしょう、我田引水という言葉も残っています。欲得に負けた姿、実はこれらすべては悪魔の得意とする誘いなのです。競争が人々の幸せに寄与する場合と競争が欲得に支配されて不正な手段に陥る場合とがあります。私たちの平和を乱すものは、大砲を打ち合うことだけではありません。本当に国民の幸せ、あるいは従業員や顧客の幸せ、さらに隣人の幸せから人類の幸せまでを考える人、現代においてこういう人は少し軽蔑の意味を込めて「お人好し」と呼ばれるのでしょうが、「お人好し」は自分の欲得に負ける、すなわち悪魔の誘いに乗ることはありません。初代教会はそのような「お人好し」のことを良く知っていました。石をパンに変えることを拒否し、世の全ての栄を得るために悪魔にひざまずくことを拒否し、高い屋根の端から飛び降りて神を試すことを拒否され方、主イエス。この方こそ「お人好し」の極みでありました。人類の罪のために十字架への道を歩まれたのです。初代教会から現代にいたるまで、教会に属するクリスチャンが他人の幸せを祈り願う、「お人好し」である根拠はここにあるのです。
五つ目、初代教会は礼拝をその中心に据えるグループでした。46節47節 2:46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、2:47 神を賛美していた。チョット不思議なことがあります。それは彼らが毎日神殿に参っていたことです。神殿では毎日神へ犠牲の供え物、これは人の罪を赦していただくものですが、その神殿での祭儀に加わっていたというのです。罪の赦しは主イエスがご自身を供え物としてささげられた、十字架の出来事で十分であり、神殿での祭儀はもはや必要ではなかったからです。ソロモン王の時代から1000年に及ぶユダヤ人の習慣はすぐにはなくならなかったようです。しかし、彼らの全く新しい行動、それは主イエスから命じられたことを忠実に守ることでありました。家ごとに集まってパンを裂き、とあります。これは後に家の教会と呼ばれます、教会の原点でありそこで礼拝を守り聖餐式が行われていたのです。喜びと真心をもって一緒に食事をし、とありますのは今日でいう愛餐です。全ての人の豊かな交わり、愛に満ちた食事の時を大切にするとともに、洗礼を受けた者だけに許される、キリストの十字架の出来事を思い起こすための聖餐を大切にします。本日の礼拝において聖餐式がこれから行われますが、聖餐はまだ洗礼を受けていらっしゃらない方はこれに与かることが出来ません。私たちは全ての方がキリストを主と告白し洗礼を受けられて、共に主の愛のもとで素晴らしい人生をご一緒したいと願っている「お人好し」なのです。以上から、この初代教会という新しい集団は、神を礼拝することがその中心にあり、全ての人に開かれ、学び、分かち合い、祈る集団でした。この特徴であり遺伝子は2000年の時を隔てて、今日においても教会を他のどんな団体とも異なった集団としているのです。

それではなぜ3000人もの人が洗礼に導かれ教会に加わったのでしょうか?そこにはどうしても契約と言う概念を避けて通ることは出来ません。日本語の契約は英語では2つの異なる単語になります。もちろんギリシャ語でも同じです。一つはcovenant 神と人との契約です。神契約と呼びましょう。アブラハムやダビデ王に子孫の繁栄を約束された契約はこの神契約です。もう一つはcontract 商業取引、家の賃貸、スマホの契約、電車のキップなどなどすべて契約によります。商業契約と呼びましょう。私たちの社会には、それと意識していなくても商業契約が沢山あります。例えば電車のキップは契約書の意味を持ちます。乗客は運賃を払い鉄道会社は安全に送り届ける義務を負うのです。 これは、「あなたがその義務を果たす限り私も義務を果たす。」といった契約関係です。商業契約における両者の関係は合意した条件を満たすか否かにかかっているのです。一方、神契約は違います。「私は、あなたが合意した条件に背こうが背くまいが、約束を守る。」のです。結婚式のひな形はこの神契約なのです。結婚式で新郎は次の誓約をします。結婚の意思とこの結婚が神のみ旨であるとの自覚を確認した後です。「あなたは神の教えに従い、夫としての道を尽くし、常にこの女子を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助けて変わることなく、その健やかな時もその病むときも、堅く節操を守ることを誓約しますか。」これに対し、「私は誓約します。」と答えていただきます。続いて新婦にも同じ誓約をしていただきます。教会は基本的に神契約で成り立つのです。しかし、ある牧師によれば、中には商業契約を持ち込む方もいらっしゃるとのことです。教会の雰囲気が良いから、なんとなく落ち着くから、優しいから、もちろんこれらが良いに越したことはありません。しかし、それだけによって教会に連なるのであれば、自分の考えが否定された時、教会を去るといったことが起こるのだそうです。

聖書に戻りましょう。実は聖書の伝える神の言葉には、神契約と呼んだもの、私たちが罪人であるにもかかわらず愛してくださると述べる箇所があります。放蕩息子の譬えを思い出していただけばよいでしょう。反対に商業契約と呼んだもの、「あなたが愛する限りにおいて、あなたを愛する。」もあります。「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。」 神がモーセに語られた言葉です。神の愛は条件を満たしたらなのか、満たさなくてもなのか。どちらでしょうか?
この答えは条件を満たしたらなのです。神は罪を嫌い憎まれます。罪の結果は死しかありません。パウロもはっきりと証言します。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23) 神は罪をいい加減になさらないのです。なぜなら神は潔く聖なる方だからです。 最初に読んでいただいた創世記15の記事で、アブラハムは神から動物を半分に裂いて並べる様に命じられました。これは当時召使や奴隷がその主人と交わす約束、すなわち契約の儀式で、召使は裂いて並べられ動物の間を通って主人の所へ行くのです。契約を破った時には私がこの動物の様に引き裂かれます。こういった意味を持っていました。アブラハムは自分に向かって歩いてくる召使が誰なのかと思いながら待ちました。創世記15章17節15:17 日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。 松明は神ご自身です。契約違反に対してご自身を裂かれるというのです。今から2千年前その出来事が実際に起こりました。
十字架の出来事です。神との契約を守らない人間たちの為に、神ご自身が裂かれたのです。23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。(ルカ23:46)なぜ3000人もの人が洗礼に導かれ教会に加わったのでしょうか? この疑問の答えは、十字架の出来事を間近に見た人々、あるいは出来事を伝え聞いた人達が聖霊を受けたからです。
今私たちはその出来事を聖書のみ言葉を通して知ります。神は私たちの罪のためにご自分を裂かれたのです。ここに決定的な神の愛があり、十字架はその印です。どうぞこの新しく掲げられた十字架を見上げて下さい。そして神の深いご計画とその愛を思って下さい。真の平和をもたらす方、平和の君は主イエス・キリスト以外にはないのです。この主の福音を伝えることこそ、私たちがまず行うべき平和運動です。祈りましょう。