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山形六日町教会

2017年7月23日

聖書:エレミヤ書29章10~14節 ルカによる福音書13章10~17節
説教シリーズ ルカ福音書-72「主の日の癒し」波多野保夫牧師

暑さの厳しい中、書物としての聖書の話から始めましょう。本日与えられましたルカ福音書13章10節以下には、「安息日に、腰の曲がった婦人をいやす」と言う小見出しが付けられていますが、実は聖書原典には小見出しもなければ、章や節、さらに句読点やルカによる福音書などといった名前もありません。聖書原典にはただただ文字が並ぶだけなのです。
これは聖書原典が書かれた当時、すなわち新約聖書でしたら2000年前のギリシャ語文献の、そして旧約聖書でしたら3000年前にまでさかのぼるヘブライ語文献のスタイルでした。小見出しは近年になって、内容を把握しやすくするためにつけられたもので聖書の言葉ではありません。ですから聖書朗読者は読まないのです。しかし、出来るだけ該当する部分にある聖句を用いていますから、大変便利なものです。章や節も原典にはないと言いました。新約聖書には旧約聖書の引用が沢山あります。キリスト以前も以後も変わることのない神の愛を伝えているからです。
しかし、旧約聖書を引用してもよほど聖書を勉強した人でないと巻物のどこの部分の引用か全くわかりません。例えばローマの信徒への手紙9章29でパウロは「9:29 それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」イザヤ書を隅々まで熟知していたパウロは、この様に信仰の継承について述べますが、聖書学者がこれはイザヤ書の最初の部分だと指摘しても、私たちが1章9節の場所を開くことは不可能です。 聖書の「章」は1200年代から、神学教師らによって付けられたのですが、最初は統一されていなかったそうです。「節」の方も最初は統一されていませんでしたが、今から500年程前に、フランスの著名な聖書学者で印刷業も営んでいたロベール・エティエンヌが章と節をつけて出版した聖書が瞬く間に広まって実質上の標準、今でいうディファクト・スタンダードになったのです。余談になりますが、1455年にグーテンベルクが活版印刷術を発明以前、書物は手で書き写すのですから高価で数も限られていました。当時文字の読める人は聖職者や学者王侯貴族に限られており、庶民にイエス様の生涯を教育する一つの手段として、教会のステインドグラスが発展したそうです。当時はちょうど宗教改革後の時期に当たり、印刷術の発達と相まって、人々が自分の国の言葉に翻訳され出版された聖書を自分で読むことが出来る様になったのです。それまでミサで朗読されるラテン語の聖書を聞くだけで、ほとんど理解することは出来ませんでした。
最新の活版印刷術と言うハイテクを用いたり、読み易さの工夫をしたり、自分の国の言葉に翻訳したり、多くの人がどうすれば自分で聖書を読むことが出来るか、知恵と努力払われました。しかしどうでしょうか。信仰の先輩たちが大変な努力の末に私たちに届けてくれた贈り物。大変読みやすくまた学び易くなっている聖書です。読みやすさに反比例して感謝の気持ちと喜びが薄まってはならないのです。
信仰の先輩たちの努力の一端を見ることから始めましたが、その聖書が伝えます主のみ言葉を聞いて参りましょう。13章10節11節 3:10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。13:11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 主イエスは各地の会堂で、しばしば聖書の解き明かしをなさいました。旧約聖書が伝える神様のみこころを安息日の礼拝で語られたのです。しかし、エルサレムへと向かわれる主が会堂で教えられる姿を記すのは、これが最後になります。もはや会堂で語ることが許されなくなったのでありましょう。神のみこころを明らかにすればするほど、ユダヤの宗教指導者たち、ファリサイ派や律法学者、そして今日登場します会堂長たちとの対立が深まって行ったのです。
「十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。」とあります。解説書によれば、現代医学では変形脊椎症に分類され、脊椎の神経が圧迫されて痛みやしびれを伴こともあるそうです。その状態が十八年間も続いていたのですから、苦しみは大変なものでした。さらに彼女を苦しめることがありました。それは当時この様な病気は「病の霊」、すなわち悪霊に取りつかれているせいであり、彼女が罪を犯したからだと考えられていたのです。徹底した因果応報説です。彼女は体と心の双方に苦しみを抱えていたのです。この彼女が各地で癒しの奇跡を行われている主イエスの噂を聞きつけて、癒してもらうために会堂にやって来たのかどうなのかを聖書は語りません。13:12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、13:13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。 ただそこで起こったことを告げるだけなのです。その結果、彼女は神を賛美したのです。
さてこの物語を私たちとの関係で読んでみましょう。現代において変形脊椎症の原因を、罪の故に病の霊に取り付かれたのだとは言いません。しかし現代医学においてもなかなか完治することは難しいようです。病の他にも治るのが難しいことは、人との関係性など私たちの周りにいろいろあります。皆さんの中に様々な問題を抱えていらっしゃる方はおいででしょうか?これは、あまり良い質問ではないですね。私たちの人生において、何ら問題を感じることなく過ごせると言うのは、おそらく短い期間なのでしょうか。その原因は、私たち自身が曲がっている・間違っているのか、あるいは世間や友人や家族が間違っているのか。さもなければ双方が間違っているのでありましょう。いずれにしろ深刻な問題です。しかしさらに深刻な問題、しかも絶対に認めたくない問題、それは神との断絶です。これは絶対的孤独とでも申せましょう。
神は私たちに選択の自由を与えられているのです。悔改めて神の独り子に従いねじ曲がった人生をまっすぐにしていただくのか、そのままでいるのか。そこには、たしかに選択の自由があります。神は全ての人に神の豊かな恵みを感じ知って欲しいのです。独り子を十字架に送ってまで私たちを愛される神は、さらに聖霊を送り導き癒し望みを与えて下さっています。
ルカによる福音書13章6節以下で「実のならないいちじくの木」の譬えを聞きました。8節13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。私たちの心を一生懸命耕し肥料を与え、良き実、すなわち愛と喜びと平和と寛容と親切と善意と誠実と柔和と節制、これらの良き実を与えたくてしょうがない。(ガラテヤ5:22,23)これが神のみ心であり神の愛です。しかもすべての人にこの愛は注がれています。なぜか私が一生懸命神様の愛を拒否している、その様に思えるのです。
ここに神様の愛を拒否する代表的な人が登場します。会堂長です。ユダヤではモーセに神が与えられた「十戒」は絶対の権威を持ちました。第4戒 「20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」イエス様の時代、安息日を厳格に守ることこそが、律法にそして神に忠実な生き方だとされていました。私たちクリスチャンは聖なる日が土曜日であったのを主の復活の日、日曜日と読み替えて大切にします。問題はその中身なのですが、これには後で触れます。
14節です。13:14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」律法に対して忠実な発言です。皆さんいかがでしょうか?
私は以前から会堂長とは違った意味で、安息日に癒しを行えばもめごとになるのは分かっているのに、何もわざわざ安息日に行わなくても。この女性は18年も患っていたのだから一日延ばしたところで、18*365分の1、すなわち6500分の1ではないか。この様な考えが頭をよぎるのでありました。もし、主イエスが宗教指導者たちを刺激し、そのことで十字架の道を歩まざるを得なくなることを承知の上でなさったのであれば、彼らの律法理解、その頑なさは神の愛とは真逆なのですが、神の愛が律法に勝ることを強調したいがために敢えて安息日に癒しを行われたのではないのか。そんな思いが頭から離れませんでした。
そこでこんな勘定をしてみました。福音書には主イエスが病人を癒された話が多く出てきます。その中で主イエスが安息日に「癒し」を行われたのは7回だそうです。そこでマルコ福音書とルカ福音書の癒しの場面をページをめくって数えてみました。これは数え方で多少異なるのですが、マルコに16回、ルカに19回癒しが語られており、そのうち安息日はマルコに1回、ルカに3回です。35分の4です。これは7分の1より小さいので、主が安息日を特に選んで癒されたと言うことは無いようです。もちろん主イエスが地上で行われたことの全てをマルコやルカが伝えているのではありませんが、安息日の癒しは十字架への道の原因となった事件ですから関心は高かったはずです。興味をお持ちになった方は、マタイ福音書とヨハネ福音書のページを繰ってみてください。
だとしたら13章16節です。13:16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。その束縛とは、脊椎湾曲症という肉体的苦痛と、それゆえに罪人と指摘される精神的苦痛の双方です。彼女を苦しみから解放する。それは待ったなし。安息日が開ける明日にすると言う6500分の1の猶予もならないことだったのです。「今日行うことが出来る愛の行為は今日しなさい。なぜなら神によってあなたがそうされているのだから。」そのようにすることのない者への主の非難は強烈です。15節 13:15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。
偽善者と訳されているギリシャ語のもとの意味は、仮面を着けてギリシャ悲劇や喜劇を演ずる役者の事を指します。仮面を着けて実際にそうではないのに、さもそれらしく振る舞う人を指します。この会堂長に偽善者と厳しく言い放つ主イエス。私たちの持つイエス様のイメージは例えば讃美歌493番3節の歌詞 「いつくしみ深い 友なるイェスは 愛のみ手により 支え、みちびく。世の友われらを 捨さるときも 祈に応えて なぐさめられる。」この様な方ではないでしょうか。
しかし、ご自分が地上に来られた使命を「神の愛、神の福音を正しく伝え、人々を悔い改めに導き神への立ち返りを促す。すなわち本当に幸せな人生を歩むように求められる主イエスは、仮面を着けた信仰に対し大変に厳しいのです。偽善者よとの指摘は、ルカ福音書に既に2回出てきました。6章42節 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」12章56節 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。
主イエスは本日の聖書箇所13章16節を含めて、「偽善者よ」あるいは「偽善者たちよ」とおっしゃるときに、信仰の中身を鋭く指摘されます。私たちは他人の信仰の中に宿るごまかしや醜さに対してとても敏感です。「いつもあんな立派なことを言っているのに・・。言っていることとやってることがまるで違うんだから。やりもしないで言うだけだ。」口に出すか出さないかは別にして、とても敏感です。しかし、主はおっしゃいます。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。」厳しい指摘です。しかし、欠けたところをお互いに注意し合って直していく。これは双方に勇気が求められる愛の行為です。偽善者の指摘とどこが違うのか。それは祈りを伴うかどうかです。自分の目の中の丸太を認めつつ祈り合って相手の目のおが屑を指摘できる。これが主にある兄弟で有り姉妹なのです。
さて、反対にあの人の信仰は素晴らしいな、ああなりたいなと思う人はいます。以前、神奈川県大磯町にありますエリザベスサンダースホームを立ち上げた澤田美紀さんの話をしました。戦後の混乱期に捨てられた子供たちの命のために戦った方です。アフリカの医療向上に尽くしたアルベルト・シュバイツァーは子どもの頃の英雄でした。しかし、一方で私は思うのです。それは落語に出てくる弥太郎の話のようだと。ある星の綺麗な晩に弥太郎が一生懸命竹を振り回しています。「一体おまえ何をしようとしてるんだ?」と問う者がありました。弥太郎は答えました。「あんまりきれいなんで星を落としてとろうと思っているんだ。」「馬鹿だなお前は、そんなところから届くわけないじゃないか。屋根に上がれ!」私たちの信仰心の差は、神様の目から見れば地面の上と屋根の上の差なのでありましょう。
パウロは言っています、「正しい者はいない。一人もいない。3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。(ロマ3:10,11)すべての人は神の前に罪人なのだと言います。さらに彼は自分は「罪人のかしら」すなわち最も罪深い者だと言うのです。(Ⅰテモテ1:15)しかし、確かに立派な信仰者として尊敬する人は皆さんにもおいででしょう。私にも「ああなりたいな」と思う人はいます。地上にいる私に対して確かに屋根の上にいるのです。ではこの差は何でしょうか。それは主のみこころに対する素直さです。その様な人は必ずや祈りの人ではないでしょうか。思い起こしてみてください。さらに、そのような人は良き礼拝者ではないでしょうか。おもいおこしてみてください。主の復活の日に礼拝を守ることで一週を始め、神に心を向け神の言葉に支配される一週を送る。こんな大きな恵みはありません。ここで急に博愛主義者になって「主の日の礼拝」に出席できない人は神の恵みの外に置かれるのか?などと問わないでください。確かに礼拝出席がかなわないことは人生においてあるでしょう。でも教会の礼拝ではその方を覚えて祈ります。どうぞ出席がかなわない時は礼拝のために祈って下さい。祈りと祈りの交わるところに神様は御心をあらわしてくださるに違いないのです。そしてすべての者に平安が与えられる。これが主の日の癒しです。祈りましょう。