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山形六日町教会

2017年7月16日

聖書:イザヤ書40章21~31節 使徒言行録1章1~12節
説教シリーズ 受け継ぐ者達-1「待ちなさい」波多野保夫牧師

本日から新しい説教シリーズ「受け継ぐ者達」が始まります。4年前から月の内の2回の主日に、連続講解説教として「ルカによる福音書」を読み進めるとともに、後の二回はテーマに基づいて聖書からみ言葉を聞いて参りました。
最初のテーマは「聖霊」でした。私たちの日本基督教団信仰告白は「聖書において証しせらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたもふ。」と告白し、さらに「聖霊は我らを潔めて義の実を結ばしめ、その御業を成就したまふ。」この様に続けます。私は、本日の説教準備の中で説教シリーズ「聖霊」を振り返って見る豊かな時を持つことが出来ました。後ほどおすそ分けしたいと思います。記録によりますと続いて「神の問い」「人生の転換」「健やかな関係」「捕囚の民」「祈りは聞かれる」「サムエルに聞く」この様に聖書の語る豊かなみ言葉に耳を傾けて参りました。これらは、録音テープに保存してくださっておりますし、教会ホームページに掲載してあります。興味がおありの方は参照ください。

さて、この「受け継ぐ者」シリーズでは使徒言行録を読み進めます。これは「一致教会山形講義所」として歩み始めた私たちの「日本基督教団山形六日町教会」が、主の大いなる恵みと導きのもとに、この秋130周年の時を迎えることに関係します。すでに皆さんの祈りと支えによって、現在の会堂を補修し大切に用いていくための工事が始まっていますが、それだけではなく、次の世代のために会堂を建て替えようと、その準備の為の献金も始まりました。私たちが諸先輩から受け継いだものを受け渡す大切な働きを喜んで進めて行きたいと思います。しかし、諸先輩から受け継いだものを受け渡す大切な働きは会堂を始めとする諸設備だけではありません。私たちの先輩が聖霊の働きを祈って伝えた信仰を伝える必要があります。このため、この秋に芳賀力牧師と小島(おじま)誠志牧師をお呼びし礼拝説教を担当していただくことになっています。131年目の歩みを「み言葉に聞く」ことから始めたいとの願いによります。私たちの信仰が新たに強められるとともに、伝道の機会として用いられることを願います。大勢の方を教会へと招いていただきたいと思います。

さて使徒言行録は  1:1,2 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。このように使徒パウロの伝道協力者であった医者のルカが述べることから始まります。ルカ福音書の続編であり、1章11節までには復活の主が40日間弟子たちと共に過ごされた様子が、これはルカ福音書24章の記事と重なって記されています。4節5節 1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」主は弟子たちに、「エルサレムに留まりなさい」「かねて話した様に、父の約束を待ちなさい。」とおっしゃいました。私たちは既にこの10日後の出来事を知っています。今年のペンテコステ礼拝は6月4日でしたが、使徒言行録2章1節以下をご一緒にお読みしました。2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。聖霊は、天地創造の前から父なる神、子なるキリストと共におられた三位一体の神ですが、旧約聖書の時代には、特定の時に特定の場所で特定の人にだけ働かれました。 モーセに導かれエジプトの地を脱出したイスラエルの人々が、アマレクに行く手を塞がれ戦いになった時の事です。岡の上でモーセが手を挙げて祈っている間、イスラエル軍が優勢になり、疲れて手を下ろすとアマレク軍が優勢になりました。そこでモーセの腕を脇から支えたとあります。聖霊の働きです。
説教シリーズ 「サムエルに聞く」ではダビデの生涯を通して彼に働かれた聖霊を見ました。巨人ゴリアトを石投げ紐一つで倒しました。神に誓ったヨナタンとの友情は嫉妬に狂うサウル王から彼を危機一髪で逃れさせるのでありました。彼はバトシェバとの情事と言う生涯の汚点を残しましたが、その罪を深く悔い改めました。これらは全て聖霊の働きです。どうしてそう言えるのでしょうか? 死を前にした彼自身が証言するのです。23:2 主の霊はわたしのうちに語り 主の言葉はわたしの舌の上にある。23:3 イスラエルの神は語り イスラエルの岩はわたしに告げられる。少し飛ばして、 23:5 神と共にあってわたしの家は確かに立つ。神は永遠の契約をわたしに賜る すべてに整い、守られるべき契約を。わたしの救い、わたしの喜びを すべて神は芽生えさせてくださる。1000年後、このダビデの末に主イエスが誕生なさり、十字架と復活の出来事が起き、そしてペンテコステの日に聖霊が降り教会が誕生した。その歴史を私たちは聖書の証言によって知るのです。
それでは聖霊が働かれる場所や時間は、現代において教会では24時間週7日であり、その他の場所では旧約聖書と同じように、特定の時に特定の場所で特定の人にだけ働かれるのでありましょうか? 前半はその通りです。教会とは建物ではありません。もちろん会堂やその他の施設がどうでもよいと言っているのではありません。大切な役目を果たします。しかし、教会には主の名によって集い祈る者達が必ず必要です。 18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。 マタイ福音書18章20節です。  主の名によって集う時、祈りが生じ愛が支配します。建物が立派であっても集う者がいない、あるいは対立が教会を覆っている。この様な状態であれば、それを教会と呼ぶこと自体、主のみ名を汚します。教会は聖霊の導きに素直でなければならないのです。
では後半、教会の外での聖霊の働きはどうでしょう? もちろん風に喩えられる聖霊は自由に働かれます。問題は私たちの持つ感度です。教会の外において聖霊が働かれる素晴らしい業を私達が感じられるかどうかです。神のみ心に添った愛の働きをなさる方は大勢います。クリスチャンであろうがなかろうが大勢います。素晴らしいことです。私たちが、その働きに気づいたならば、神様に感謝するとともに、その働きの担い手に神様の愛の素晴らしさを伝えられたら良いと思います。なぜならば、恐らく神様から遠くない方だと思うからです。そもそも聖霊が教会内部にだけしか働かれないのであれば、伝道は出来ません。なぜなら、伝道は聖霊のなさる業に私たちが用いていただくものだからです。「エルサレムに留まりなさい」そして「かねて話した様に、父の約束を待ちなさい。」 このみ言葉を告げられた時の弟子たちは、大きな喜びに包まれていました。40日程の出来事を振り返って見ましょう。
十字架を前にして、オリーブ山で苦しみ悶え血の汗を流して祈る主。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」 その時弟子たちは眠り込んでいたのでした。12弟子の一人イスカリオテのユダの裏切りによって逮捕された主。一人大祭司の屋敷まで様子を見に行ったペトロは三度主を知らないと言い張り、他の弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまったのです。(マタイ26:56)捕らえられた主は、最高法院、ピラト、ヘロデ、ピラトとたらいまわしにされた上、十字架刑が宣告され鞭うたれ、重い十字架を背負ってゴルゴダの丘へと歩まれたのです。そして十字架における死と墓への埋葬。金曜日の夕暮れ近くの事でありました。あれよあれよと進行してしまう現実は戸惑いから悲しみと恐怖に変わって行きました。週の初めの朝早く、墓に駆けつける女たち。そこで見たものは空の墓でした。復活の朝の出来事です。底の見えない悲しみから喜びの頂点へ。エルサレムからエマオに向かう途上で復活の主にお会いした二人の弟子たちの証言は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」でありました。(ルカ24:13-35)それから40日に渡って、復活の主は500人以上の弟子達の所に現れ(Ⅰコリ15:6)聖書の教えを解き明かし、神の国について話されました。この40日間は弟子たちにとって全く夢を見るような素晴らしい40日間でした。底の見えない悲しみと恐怖の後に訪れた喜びの頂点。死に勝利された方と共に過ごす日々です。 そんな彼らが栄光の主に問うのはまったく自然なことでした。 使徒言行録1章6節 1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。「国を建て直してくださる時」、弟子たちは死に勝利された方が、この世の王としてローマ帝国を滅ぼし、イスラエルをあのダビデ王の時代の輝く国としてくださる。それは今なのですか? この様に問いました。かつて12弟子のヤコブとヨハネは主に願いました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(マルコ10:37)その弟子たちが復活の主に国を建て直してくださるのは、この時ですか と尋ねるのは極めて自然なことだったのです。
しかし、1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」「地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」主のご計画は弟子たちの期待と全く違うものでありました。「わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」この願いは「一人を右大臣に、一人を左大臣に取り上げて下さい」と言っているのですが、必ずしも権勢欲、すなわち人々に命令を下し、王の下で恵まれた仕事と生活をしたいと言ったものではないでありましょう。賢く力ある王の下で国のために尽くしたいと言う純粋な思いであったのでありましょう。
私たちは今、その後弟子たちがどのような証人に変えられて行ったのかを知っています。この使徒言行録は、十字架の出来事に際して、三度イエスを知らないと言ったペトロ、そして逃げ出してしまった弟子たち、さらには「月足らずで生まれたような私にも復活の主が現れてくださった。」この様に証言するパウロ。彼らが、「地の果てに至るまで、主の証人となり」 
そしてその結果「教会が各地に誕生し発展していく」姿を伝えるのです。1章9節から11節 1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」彼らは父なる神の許へと戻って行かれる主の栄光に包まれた姿を見ました。彼らの心は神への讃美と大きな喜びに満たされ、ある種の興奮状態、こころが燃えていたことでしょう。しかし、主の残された言葉、「エルサレムに留まりなさい」「かねて話した様に、父の約束を待ちなさい。」「地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」これらの意味を知ることはありませんでした。ただただ天を見つめていたのです。

私たちはみ使いの言葉、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」この言葉が主イエスが再び来られる日、終末の日の出来事であることを知りますが、弟子たちには何のことかさっぱりわかりませんでした。彼らは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来ました。恐らく賛美の歌を歌いながら、喜びに満たされていたに違いないのです。

本日は十字架の出来事の前後40日程に起きた出来事を追いました。私たちと弟子たちとの共通点は喜びに包まれてそれぞれの生活の場へと帰っていくことです。 相違点は、彼らが主の語られた「留まりなさい。」「待ちなさい。」「わたしの証人となる。」これらの言葉の意味を理解していなかったのに対して、私たちはその意味を知っていることです。 この10日後、弟子たちに聖霊が降り教会が誕生しました。その時、あの大祭司の庭から主イエスとの関係を否定して、逃げ出したペトロは大胆に主の福音を語る証人へと変ったのです。ユダを除く弟子たちもそうです。
私たちは、聖霊の働きを受けて洗礼へと導かれた私を、そして山形六日町教会を主は「わたしの証人となる。」ために用いて下さいます。今、「私たち聖霊による洗礼」を受けています。あるいは聖霊による洗礼へと招かれています。洗礼は私たちに救いを保証します。大いなる神の恵みです。今私たちは「信仰にとどまり」「恵みの時終末」を待つのです。そして私たちは受けた恵みの証人となるのです。
130年前山形六日町教会はアメリカの改革長老教会の伝統に生きる教会によって派遣された宣教師たちと、明治初期に宣教師から信仰を伝えられた日本人牧師たちによって教会創立へと導かれました。「地の果てに至るまで主イエスの証人となった」人たちの働きです。しかし、「地の果てに至るまで」証人となったのは宣教師たちだけではありません。120年誌によれば六日町教会はアメリカからの多くの献金で支えられました。支えてくれた彼らの多くはドイツからの貧しい移民だったそうです。その彼らが地球上のどこにあるかすら分からない山形六日町教会のために祈りそして献げたのです。この千歳幼稚園の誕生も、地の果ての子供たちに福音を伝えるためでありました。遠いアメリカの地にあって、祈り献げる彼らもまた主の証人として用いられたのです。
最後にイザヤ書40章29節以下をお読みします。 40:29 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。40:30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが40:31 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。聖霊は私たちに勇気と力と知恵とを与えて下さるのです。ご一緒に主のご命令に従って参りましょう。 祈ります。