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山形六日町教会

2017年7月9日

聖書:ハガイ書2章19節 ルカによる福音書13章1~9節
説教シリーズ ルカ福音書-71「滅びと救い」波多野保夫牧師

先週の礼拝では、本日与えられました聖書箇所、13章1節以下に先立ちます、12章49節以下にあります3つの小見出しが付けられた箇所からみ言葉を聞きました。それぞれ「分裂をもたらす」「時を見分ける」「訴える人と仲直りする」とありました。すでに神の独り子が地上にやって来た、今がどの様な時かと問い、さらに人の至らなさを指摘するだけで神の愛を悟らない人々に対して「偽善者よ!」と激しい非難の言葉を浴びせられました。
そして必ずやってくる終末、これは主イエスが再び来られる裁きの時であり、全ての悪を滅ぼされる勝利の時・希望の時・喜びの時なのですが、その終末に向かって主イエスと共に歩む私たちに、神様との和解を勧める、いやもっと強く、神との和解を迫るのでありました。
では、神との和解とは具体的に何でしょうか。それはイエス・キリストを主と告白し、水と霊とによって洗礼を授けられることです。そして神の喜ばれる生活、神様の栄光をあらわす者へと変えられていくことです。これを聖化、聖なる者へと変わっていく、と呼びます。確かにここには戦いがあり、また捨てなければならないこともあります。
先週次のように申しました。『主は私たちに決断を迫ります。「私に従って愛に満ちた素晴らしい人生を共に歩むのか、それとも歩まないのか」と。ここには分裂をもたらすほどの激しさと厳しさがあります。この2017年において主に従って生きる時、確かに戦いがあり、そして当然、諦め捨てなければならないことがあります。信仰の戦があります。しかし、そこにはまた諦めたことにも増して大きな喜びが与えられるのです。神のために捨てるものが地上の喜びであるとすれば、神が与えるものは天からの喜びです。』

本日与えられました13章1節以下には「悔い改めなければ滅びる」このような小見出しがつけられています。13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。4節 13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。これらの出来事が具体的にどの様なものであったのか、残っている資料はこのルカ福音書の記述だけなので良く分かりません。ガリラヤ地方はイスラエルの首都エルサレムから100キロほど北にあるいわゆる田舎でした。主イエスもガリラヤ湖の周辺の町で育ち、エルサレムへと向かわれるまで、この地方で神の国を述べ伝え、人々に悔い改めて福音を信じる様に述べ伝えたのでありました。ガリラヤ人とありますがガリラヤ地方に住むユダヤ人の意味です。
ある日、彼らがエルサレム神殿にやって来て犠牲をささげ、礼拝をささげている時、ローマ総督ピラトがその犠牲の動物の血にガリラヤ人の血を混ぜた、すなわち虐殺事件が起きたというのです。歴史的な背景に触れてみましょう。ローマ総督ポンテオ・ピラトは主イエスの裁判において十字架に架けることを認めることになるのですが、彼の仕事は、その属州であるユダヤの反乱を防ぎ、税金を納めさせることにありました。ユダヤは他の属州と違って、唯一の神を礼拝し皇帝礼拝を拒否しますから、常に反乱の危険がありました。実際、主イエスの十字架と復活の出来事から40年程後に反乱が起き、西暦70年にエルサレムの町とそこに立つ神殿はローマ軍によって破壊されてしまいます。ポンテオ・ピラトはローマ皇帝からユダヤの総督に任命され、エルサレムに入場する際、皇帝像の付いた軍旗を持って行軍したことに象徴されるように、力で民衆を押さえつける政策をとりました。エルサレムの町に水が足りなくなり新たに水道を引く際に、神殿の金を用いたことから民衆の怒りをかいました。彼は強権的で残忍な統治を強めていきました。これらは、古代の歴史家ヨセフスの『ユダヤ戦記』これは西暦80年ごろに書かれたといわれており福音書が書かれた年代に重なるのですが、この他にもさまざまな書物が証言がしています。
「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」この出来事は、恐らくガリラヤ地方にローマ帝国に逆らう動きがあり、神殿にやって来た彼らをローマ総督ピラトが処刑したのでありましょう。「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」とありますが、こちらもどのような事故が起きたのか、全く分かりません。ピラトが神殿の金を奪って強行した水道建設工事での事故だったのかも知れません。いずれにしろ、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」出来事と「シロアムの塔が倒れて」十八人が死んだ出来事とを、エルサレムの人々は、彼らが死んだのは、「本人かその親が神に対して罪を犯したからに違いない。」このように考えたのでありました。
いわゆる因果応報です。多くの人に愛されているヨブ記が伝えています。「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」ヨブはサタンの策略によって大いなる苦しみにあいました。全ての財産や子供たちを失い、ひどい皮膚病に苦しむのです。そんな彼の言葉は私をハットさせます。1:21 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」1:22 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。さらにあまりの惨状に神を呪えとまで言う妻に答えるのでありました。2:10 ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。そのような彼をさらに苦しめるのは、訪ねて来た友人の言葉でした。ヨブ記4章6節以下です。4:6 神を畏れる生き方が/あなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことが/あなたの希望ではなかったのか。4:7 考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ/正しい人が絶たれたことがあるかどうか。まさに因果応報の主張です。悪いことをしたからバチが当たったと言うのです。ヨブの友人はますます彼を苦しめるだけで、そこに救いはありません。ヨブ記の最後で彼は神に出会い、創造主である全能の神の前に自分の驕りを悔い改めるに至るのですが、義人すなわち正しい人、少なくとも私たちの目から見て正しい人の人生にも悲しく辛い出来事が起きるのはなぜなのか?この疑問に神は直接的にこたえられることはありませんでした。
その回答は、神の独り子主イエス・キリストが人として地上に来られ、十字架の死によって私たちの罪を負い、そして復活された出来事まで待つ必要がありました。本当の苦しみを知る方、しかも勝利された方が共にいて下さるのです。
ヨブの苦しみへの回答は、神が私たちへの変わらない愛を明確にされた。その時を待つ必要があったのです。
根強くはびこる因果応報の考え。これに対して主は明確に否定なさいます。ルカ福音書13章3節と5節にあります、全く同じ言葉です。13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 2000年前にイスラエルで事件や事故にあって亡くなった人、その人と同じ様に2017年の私も、そしてあなたも罪人なのだ。神の前で罪人であることになんら違いはない。私が、あなたが、そして全人類が悔い改めなければ滅びるのだ。この様におっしゃるのです。罪と言いましたが、聖書の言う罪は日本の法律に反することとは違います。それは神の愛から離れることです。聖書は具体的な次の例を挙げています。姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。一方、神の愛の内を生きる幸せな生き方を語ります。5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。
いかがでしょうか、喜びと平安と安らぎに満ちた人生です。30歳になられバプテスマのヨハネから洗礼を受け荒れ野でサタンの誘惑に勝利された主イエスの第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」であったことを思い出してください。それ以来、一貫して悔い改め、すなわち罪を離れて神様の愛の内を歩むように求められています。だいぶ以前にご紹介しました。東日本大震災の後、横浜のある教会をドイツから来た一団が、一緒に祈らせてほしいと訪れました。招き入れると、彼らは「悪に満ちた日本をこの様な地震が襲ったのは神の裁きだ。悔改めを祈ろう。」この様に叫びました。完全な因果応報説です。あわてて追い出したそうです。先週、車で良く見かける黒地に黄色や白の文字で「神の裁きは突然に来る キリスト」とか「死後の行先を考えよ 聖書」などと書かれたキリスト看板の話をしました。確かに聖書の語るところであり、私への警告なのでしょうが、もっと福音と共に語られるべきだと申し上げました。
では、主イエスは福音とともに悔い改めを求めていらっしゃるのでしょうか? もちろん第一声が「悔い改めて福音を信じなさい。」なのですから一緒に語っていらっしゃるのですが、その中身が問われます。今日の聖書箇所13章6節以下です。「実のならないいちじくの木」のたとえ、とあります。7節 『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』これはたとえ話ですから、主人を神様、執り成しをしている園丁を主イエスととることも、主人を三位一体の神、執り成しをする園丁を教会、あるいはクリスチャンと読むことも可能でしょう。しかしイチジクの木、長い間たくさんの恵みをいただきながら実ることのないイチジクの木。これは直接的には当時のイスラエルの人々です。アブラハムの時代から多くの恵みをいただきながら、なお神に従うことをしないで罪に留まる人々、神の愛の中を歩もうとしない人々です。しかし、「長い間たくさんの恵みをいただきながら、なお神に従うことをしないで罪に留まる人々、神の愛の中を歩もうとしない人々」 この言葉に注目すれば、イチジクの木とは正に私であり、あなたなのです。聖書は罪人と呼びます。 神に逆らい続ける罪人、あの黒い看板の白や黄色の文字が指摘し、主イエスが悔い改めを求められる通りなのです。三年とは長い期間をあらわしますから、私たちは切り倒されて当然でしょう。それに抗議する正当性は持っていません。
しかし、その後があります。園丁の執り成しです。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』3年がそうであったように待って下さる1年は365日の事ではありません。 実のならない木、すなわち罪にドップリト浸かり神の愛を受け入れない木を切り倒す日はキリストが再び地上に来られて悪を滅ぼされる日、終末の日です。
実はこの終末、イエス様の時代、あるいはその後教会が発展していく時代において、比較的すぐに来るだろうと考えられていました。しかし、2017年現在、終末はまだ来ていません。「終末の遅れ」と言われます。聖書はこの様に告げます。3:8 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。 ペトロの手紙Ⅱ3章8節9節です。神様の裁きの日に、キリストを主と告白して従う者、具体的には洗礼を受けて教会に連なる者は救われます。実のなるイチジクの木です。
ではまだ洗礼を受けていらっしゃらない方。神様の愛の内を歩む最高に幸せな人生へと招かれています。もちろんその招きに答えるには時間がかかるでしょう。安心してください。ペトロは言います。 一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。神様の忍耐は我慢大会の我慢ではありません。13章の園丁の言葉です。今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません
罪の中に留まろうとする私たちに対して、木の周りを掘って、肥やしをやる、すなわちいろいろな恵みや機会を与えて実がなるように導いて下さるのです。 この神様の愛を聖書は福音と呼びます。主イエスが伝道を始められた時の第一声「悔い改めて福音を信じなさい。」これは正に真理の言葉です。なぜそう断言出来るのか。それは私たちが2000年前の十字架の出来事を聖書を通して知るからです。何も罪のない神の独り子が私たちの罪を代わりに負って下さった。これが十字架の出来事です。その結果、私たちは神との正しい関係、すなわちキリストに従って生きること、すなわち神様の愛の中を生きる素晴らしい人生が保証されているのです。神様に与えられたこの2017年の時をご一緒に主に従って歩んで参りましょう。祈りましょう。