HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2017年7月2日

山形六日町教会

2017年7月2日

聖書:コヘレトの言葉3章1~11節 ルカによる福音書12章54~59節
説教シリーズ ルカ福音書-70「時がある」波多野保夫牧師

気象庁の発表によりますと今年の夏は厳しい暑さが続くそうです。教会に着いたら麦茶を一杯飲むなど、熱中症対策をしっかり行っていただきたいと思います。ところで皆さんいかがでしょうか? 最近の天気予報がよく当たるといった感覚をお持ちではないでしょうか。気象庁のホームページに東京地方を例にした、前日夕方発表の明日予報での降水有無の的中率と最高気温の予報誤差の推移が発表されています。1990年と2015年、25年間で降水確率の的中率が82%から87%に向上し、最高気温の誤差が2.0度から1.4度に縮まっています。台風の進路予想の精度も確かに上がっています。1954年1155人の犠牲者を出した青函連絡船洞爺丸の事故当時は、各地の風向きや気圧変化から進路を予想するしかありませんでしたが、1964年に富士山山頂にレーダーが設置され、また1977年からは気象衛星ひまわりからの映像も利用できるようになりました。
確かに天気予報が私たちの生活に与える影響は大きく、これらの精度向上に多大の努力が払われた結果、生活上の安全や便利さが拡大してきているのは事実です。しかし、地震予測の困難さや集中豪雨の被害など、自然の猛威の前に人間の無力さを知らされることも多くあるのです。

ルカ福音書12章54,55節 12:54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。12:55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。今日と同様、2000年前も明日の天気を予測することは大きな関心事でした。アジア大陸の東側に横たわる日本の天候の複雑さに比べて、西の地中海と東の砂漠地帯に挟まれたパレスチナの地の気象は比較的単純だそうですが、2000年前のことです。地上近くの雲の動きや微妙な風の動きを感じ経験を積むことで明日の天気を予測したのでしょう。主イエスは彼らの天候の兆しを見分ける力を認めていらっしゃいます。
56節 12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」ここで、偽善者という強い言葉が用いられています。今の時を見分ける、あるいは今がどの様な時なのか、それを知らない・知ろうとしない者達への激しい非難です。気象衛星から雲の様子を見、スーパーコンピューターで全地球の大気の流れを細かく計算するのが現代です。2000年前と比較することすらほとんど意味を持ちません。それでは私たちの時を見分ける能力はどうでしょうか。今、私がどういった状況に置かれ、何が大切なのか、何が本質的なのか、今の時を見分けることを知っているのかが問われています。
実は本日の聖書箇所は5月28日の礼拝でご一緒にみ言葉を聞きました、ルカ福音書12章49節から53節以下と内容的につながっています。ここには「分裂をもたらす」という小見出しが付けられており、今日の聖書箇所には「時を見分ける」「訴える人と仲直りする」との小見出しがあります。主イエスがこの三つを同じ時に語られたのかどうかは、聖書学者の間に議論があるのですが、主イエスがガリラヤ地方で教えを述べられることに区切りをつけ、エルサレムへ向かわれる、その途上で弟子達や、群衆に向かって語られたのであります。避けることの出来ない十字架の出来事を意識されての教えなのです。

だいぶ日が経ちましたので12章49節以下を復習しましょう。ここで主は12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。この様な激しい言葉で語り始められました。私たちが持っています、「主イエスは神様の愛をその生涯を通して示された優しい方」といったイメージに合いません。51節には、「12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」この様にあります。戸惑いを覚えられた方も多かったと思います。主は私たちに決断を迫ります。「私に従って愛に満ちた素晴らしい人生を共に歩むのか、歩まないのか」と。ここには分裂をもたらすほどの激しさと厳しさがあります。
この2017年において主に従って生きる時、確かに戦いがあり、そして当然、諦め捨てなければならないことがあります。信仰の戦があります。しかし、そこにはまた諦めたことにも増して大きな喜びが与えられるのです。神のために捨てるものが地上の喜びであるとすれば、神が与えるものは天からの喜びです。56節 12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」偽善者よ、この厳しい呼びかけは、表面的なもの、あるいは儀礼的なものに囚われて、その本質に至らない人たちへの非難の言葉です。最も重要なこと。神の愛、自分のことを神様がどれほど愛し、恵みを与え、また忍耐してくださっているのかに鈍い時、人の至らなさや弱点に対してやたらに敏感になる。この様な者を主は偽善者と呼ばれるのです。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。マタイによる福音書 7章3節4節です。いかがでしょうか。他人に厳しく自分に甘い偽善者よ! 2000年前の主イエスの言葉は鋭く私に突き刺さるのです。皆さんはいかがでしょうか?自分に厳しく他人に優しい。この典型を私たちは知っています。そうです主イエスです。何しろ何も罪を犯されなかった方が、究極のやさしさ、私たちの罪を負って十字架にかかられたのです。
この主イエスはおっしゃいました。そして今日もおっしゃるのです。宗教上の外見主義、うわべを整えることへの熱心さ。この典型はファリサイ派であり、律法学者や長老たちです。しかし、自分を棚に上げて隣人を裁くことがあればそれは偽善者です。主は隣人は裁くものではなく愛するものだとおっしゃるのです。しかし、ここで間違えてはならないのは他人の過ちを指摘して裁くことと、注意して改善を促すことはまったく違うと言うことです。
ではその差はどこにあるのでしょうか。それは祈りを伴うかどうかです。同じ言葉が腹いせにもなれば、忠告にもなり得ます。愛を持っての忠告には必ずや祈りが伴うはずです。なぜならば忠告を受け入れてもらうためには、往々にして聖霊の助けを借りなければならない難しさが伴うからです。
56節 12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」今の時、これはどの様な時だとお考えでしょうか? それは各人各様でしょう。様々な試練の時と感じていらっしゃる方。喜びを強く感じていらっしゃる方。主にある平安を楽しんでいる方、悲しみ苦しみ悩みの時を送っている方。私たちの人生には喜びも苦しみもある、これは確かにそうです。

司会の細矢長老に読んでいただいた旧約聖書、コヘレトの言葉は3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。そして様々な時を並べた後に、3:9 人が労苦してみたところで何になろう。3:10 わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。3:11 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。この様に述べるのでありました。実は時あるいは時間とは何かと言われるとこれはなかなか大変です。アウグスティヌスという4世紀の偉大な神学者は、「それでは時間とは何であるか。だれもわたしに問わなければ、わたしは知っている。しかし、だれか問うものに説明しようと すると、わたしは知らないのである」この様に言っています。
キリスト教の世界観は天地創造からキリストが再び地上に来られる終末まで、一直線に時が流れる世界観です。全てを創られた神はその時間をも超越した方であり、時間を越えて私たちを愛してくださる方です。愛するが故に歴史の中に介入なさいます。この流れ全体を神の救済史、神様が救いを与えて下さる歴史と表現するのです。
なぜ神が歴史に介入なさることが即ち神の愛だと言い切れるのか? それは主イエス・キリストの出来事が歴史上の事実として起こったからです。神は神から離れること、すなわち罪の中で苦しむ私たちを救うため、独り子主イエス・キリストをこの世に送って下さいました。クリスマスの出来事です。成長され30歳になった主イエスは、ガリラヤ地方で教え、導き。癒されました。そして十字架の道をとられました。墓に葬られ3日目に蘇り500人以上に現れて神の御許へと帰られ、今神の右に座していらっしゃるのです。
教会は十字架の出来事を神が私たちを愛してくださっていることの象徴として大切に覚えます。その思いの表れとして、教会は塔の上に十字架を掲げ、そして私たちは今この礼拝堂に新たに十字架を掲げようとしています。何よりも神の愛、神のご支配の下に礼拝が有ることを明確に思い、感じるためです。
主の復活について一言触れておきましょう。ある神学者は「イエス・キリストの甦りは、十字架の出来事に対する神の決定という大いなる神の判決であり、その執行であり、その宣告である。」この様に述べました。主の十字架の出来事による我々の罪の赦しが、主の復活によって確かなものである、すなわち神の判決、神の最終決定であると示された。この様に述べるのです。私たちの十字架は空(から)の十字架です。そこに主の姿はありません。主は既に復活され今、神の御許におられることを承知しているからです。礼拝堂に十字架をはっきりと掲げての礼拝、その時を楽しみに待ちたいと思います。
コヘレトの言葉3章1節 3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 私たちは今どの様な時に居るのでしょうか。紀元前1000年頃の伝道者、コヘレトが3章2節以下に言うように私たちの人生には様々な時があるのです。これは既に洗礼を受け信仰告白をなさった方も、その備えの時を送っていらっしゃる方も同様です。3章11節 を口語訳聖書でお読みします。 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。この季節、本当にきれいな草花が咲き乱れています。イエス様の言葉  野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 正にこの言葉にピッタリです。神のなされることは皆その時にかなって美しいのです。だとしたらです。ルカ福音書12章56節にもどります。12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
花々が美しく咲き乱れるこの季節を知る私たちです。どうして今の時を見分けることを知らないのか。この主イエスの問い、「主イエスの福音を聞きそして神の愛を知りながらなぜ罪の内に留まるのか、隣人を愛さないのか、偽善者よ!」 私たちに悔い改めを迫るのです。
57節以下には「訴える人と仲直りする」との小見出しが付けられています。58節によりますと、この訴えは自分の方に分が無いようです。相手と早く仲直りをしろと言われています。しかし、これは、身の廻りのもめごと、あるいは裁判沙汰の解決方法の秘訣を述べられたのではありません。12章49節以下との関連で読めば、これが譬えであることが明らかになります。車で走っていると黒地に黄色や白い文字で「神の裁きは突然に来る キリスト」とか「死後の行先を考えよ 聖書」などと書かれた看板を見てドキッとします。聖書の語るところですからそれ自体は間違いではありません。しかし、それらは救いの言葉、福音の言葉と共に語られてこそ神様のみ心を伝える言葉になります。もっともたまにはドキッとすることも必要です。あの看板は私に対する神様の警告なのかと思います。
さて、ここで訴えられるのは私です。神の法廷へと向かう人生を過ごしています。罪状は「私の罪」。裁判の時、それは終末、主イエスが再びこの世に来られ悪を完全に滅ぼされる時です。個人的な終末も同じなのかもしれません。だとしたら、ここで裁判官の許へと共に歩む人、それは主イエス・キリストでしょう。主との和解を早くしなさい。確かにそこには戦いがあるのです。
49節以下は「分裂をもたらす」という小見出でした。確かに主に従う決断は様々な分裂をもたらすでしょう。自分の心の中の分裂もあります。現状にとどまるか一歩踏み出すか。主は問われるのです。「私に従って愛に満ちた素晴らしい人生を共に歩むのか、歩まないのか」
紀元前1000年頃の伝道者は。神のなされることは皆その時にかなって美しい。しかし、神のみこころを全てを知ることは出来ないと述べました。54節以下は「時を見分ける」でした。私たちに明らかに示されている神様のみこころ、それは私たちを愛してくださる、独り子を与えるほどに愛してい下さっていることです。今この時、主の十字架と復活の出来事が明かされているこの時、偽善者よ!と言われないためになすべきことは、他人の目の中のおが屑を指摘することではありません。自分の目の中の丸太すなわち罪深さを知って悔い改め、そして隣人を愛することです。その時、「訴える人と仲直りする」すなわち私たちがイエスを主と告白する時、神様は私たちの罪を赦してくださるのです。これがクリスチャンの人生です。神の愛のもとに自由な人生を過ごす。本当の幸せがここにあるのです。まだ洗礼に至っていない方、ぜひこの幸せな人生をご一緒したいと思います。既に洗礼を受けられた方、主の愛の下で隣人に仕えていきましょう。 祈ります。