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山形六日町教会

2017年6月4日

聖書:サムエル記下22章26~37節 使徒言行録2章1~8節
説教シリーズ サムエルに聞く-15「聖霊が降る」波多野保夫牧師

本日はペンテコステ、五旬節すなわち、主イエス・キリストが十字架にかかって下さった過ぎ越しの祭りから50日目に当たります。過ぎ越しの祭りは、出エジプトの出来事に際してユダヤの人々の解放を認めようとしないファラオの翻意を促すため、神はエジプト全土に災いをもたらされましたが、その際ユダヤ人の家を過ぎ越した、その出来事を通して神のご計画を賛美し恵みを思い起こす記念の日でありました。それから50日目のペンテコステの日は、モーセに導かれた一行がシナイ山に達した際に、十戒が与えられた日を記念する日であり、またこの頃は春小麦の収穫を終えた時期に当たりますので、収穫感謝祭の意味を持ち、神殿のあります聖なる都エルサレムは大勢の巡礼者で賑わっていました。
さて本日は、真っ赤な講壇布がかけられています。この色合いは典礼色と呼ばれ、教派によってその重んじ方やまた色合いは異なりますが、一般に主が十字架に架けられたご受難の日とペンテコステの日に赤が用いられるようです。教派によっては、ちょうど今年は500年目に当たりますが10月31日の宗教改革記念日に赤を用いるところもあります。いずれにしましても、燃え盛る火、あるいは主イエスの血の赤さは、我々に情熱や力や汚れを焼き尽くす聖さを思い起こさせますし、心を奮い立たせるものがあります。
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。この日、イスカリオテのユダの代わりに選ばれたマティアを含む12使徒と共に120人程が2階の部屋に集まっていました。彼らは安息日、すなわち土曜日にオリーブ山から戻り、一部屋に集まって祈り続けたのです。その時の彼らは不安でいっぱいでした。自分たちの指導者主イエス・キリストがローマへの反逆罪で十字架に架けられました。ローマの官憲やユダヤの宗教指導者、あるいは神殿警護官らは、当然イエスの弟子たちを狙っていました。主イエスはあの十字架の出来事の三日後、日曜日の朝復活なさり、それから40日間、500人以上の弟子たちに現れ、神の国について話されたのです。この時の弟子たちの喜びは如何ばかりのものだったでしょうか。彼らは復活された主イエスに直接お目にかかりました。
しかし、その主イエスは10日ほど前に天に帰られ今はもういらっしゃらないのです。その時に弟子たちに残された言葉が使徒言行録1章4節にあります。1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」「エルサレムを離れるな」「待て」「あなた方の上に聖霊が降る」「力を受ける」「地の果てに至るまで、私の証人となる」「エルサレムを離れるな」このご命令は先ほど申しました様に国家反逆罪で処刑された者の弟子にとって危険を伴うものでした。
「待て」ここには一体いつまで待てば良いのか述べられていません。待つことは私の苦手とすることの一つです。「もういくつ寝るとクリスマス」子供の頃この様に歌ったのですが、期限が分かっていれば耐えることは出来るかも知れません。しかしただただ「待つ」のはつらいのです。スーパーのレジでの行列。どの列が一番短いかを見比べます。次に待っている人のかごの中の品数に目をやります。さらにレジ係の人の手際よさも評価項目です。品物をチェックする人と会計の人が二人いればしめたものです。
話が横道にそれましたが、捉えられる恐怖にいつまで耐えなければならないのか、待たねばならないのか分かりません。「聖霊が降ると力を受ける。」確かに主は以前おっしゃいました。 6:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。ヨハネ福音書16章12,13節です。主が天に帰られて以降、弟子たちは待ち続けていました。それがいつとも知れずに逮捕される危険を感じながら待つのです。神殿に詣でることはもちろん、町に出ることもなく一室に籠って恐怖と戦いながらひたすら祈り、約束の言葉「聖霊が降ると力を受ける。」この言葉に望みを置いていたのです。2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。聖霊が降りました。教会の掲示板にありますペンテコステ礼拝の案内にはエル・グレコが描きました絵があります。多くの画家がこの印象的な場面を描いているのですが、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」この聖書の言葉を絵にするのに苦労しているようです。私は子供の頃この絵を見て、なにかわざとらしさを感じたものでありました。しかし、それはある意味でやむを得ないのです。神様の働かれる姿を言葉にしたり絵にしたりするのには限界があるからです。
私たちがその場面に居合わせてたとしてみましょう。ビュー、ドドドーン。激しい風が吹き込みます。おそらく私たちの体は激しく揺さぶられることでしょう。続いて炎です。炎あるいは火の放つ熱と光に対して様々な宗教が畏敬の念を表しますが、旧約聖書もそれを述べています。モーセは出エジプトのリーダーとして神に召しだされました。出エジプト記 3章2節 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。 聖なる神の顕現です。歴代誌下 30章8節 神に逆らい続ける南のユダ王国をヒゼキヤ王が改革した時の事です。 先祖のように強情になってはならない。主に服従し、とこしえに聖別された主の聖所に来て、あなたたちの神、主に仕えよ。そうすれば、主の怒りの炎もあなたたちから離れるであろう。詩編 18章9節 御怒りに煙は噴き上がり 御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。炎は神の怒りを表します。イザヤ書6章6節 神に呼び出されたイザヤは汚れた自分は神の言葉を伝えるにふさわしくないと主張しました。 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」 神の火には清める力があるのです。
さて、使徒言行録2章の記事は「待て」との主の言葉に恐怖と戦いながら必死に待ち続けていた弟子たちに聖霊が降った場面ですが、この出来事を以って教会が誕生した、ペンテコステの日は教会の誕生日だ、この様に言われます。そしてさらに言えば、「教会が誕生し最初の礼拝が守られた。」のです。聖霊が降り、ペトロは説教をしました。主の福音を説いたのです。さらに多くの人が洗礼を受けました。聖餐式を守り祈りの時を持ちました。2章42節までが伝えています。教会での最初の礼拝です。
だとしたら私たちの礼拝はどうでしょうか。聖霊の導きによって、私たちは今礼拝を捧げています。聖なる神の前に額ずき主の御業を賛美します。そしてアーメン、その通りですと言う言葉によって祈りを共にします。礼拝において私たちの罪が問われ明らかにされます。週報に礼拝の順序を整理して「悔い改め」、「罪の告白」と記されていますがここだけではありません。聖書によって罪が指摘されます。聖書の解き明かしであります説教によって罪が指摘され悔改めが求められるのです。私たちの悔い改め、それは十字架のイエスを主と告白し従っていくことだけです。説教はそのような私たちへの罪の赦しの宣言でもあります。
これから守ります聖餐は目に見える主の御言葉です。主イエス・キリストが十字架で示された愛を目で見るからです。罪赦された私たちは感謝して捧げ、それを受けていただくことを喜びます。私たち自身と共に主からいただいたものを捧げ、それを主に受け入れていただく喜びです。そして、祝福を受けた私たちはこの世へと派遣されます。主のご用のために働く喜びです。
これらすべては聖霊の働き無くしては空しいものです。聖霊の働き無くして大声で讃美歌を歌ったところで歌声は神に届きません。聖霊の働きがない説教を聞くよりテレビやDVDの方がマシでしょう。ペンテコステの出来事は主イエス・キリスト、すなわち私たちを愛するゆえに十字架の道をたどって下さった方を礼拝する、世界の歴史で初めての出来事だったのです。まだ洗礼を受けていない方、あなたはこの素晴らしい出来事、2000年の間多くの人に勇気と希望を与え続けて来た礼拝へと聖霊が招いて下さっているのです。主の愛を感じつつ歩む素晴らしい人生をご一緒に歩みたいと思います。
2章4節以下です。 2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。ことばの違う各地からやって来た巡礼者たちに語られる内容が分かったというのです。不思議なことです。「ユダヤ人はどこに住んでいても聖なる言葉ヘブル語の知識は持っていたのだとか、巡礼の旅をしてエルサレムに来ている彼らは日常語のアラム語はある程度分かったのだ。」「自分の故郷の言葉で」というのは、要するにしゃべっている「意味が通じた」と言っているのだ。この様に説明できるかも知れません。確かにありそうなことです。私はある経験をしたことがあります。たまたまアラビア語での礼拝に出た時です。牧師が説教で語るアラビア語はまったく分からないのです。しかし礼拝堂にはステンドグラスがありました。ステンドグラスはもともと文字の読めない民衆に聖書の語る主の出来事を伝える、そのために発達した物です。そのステンドグラスを見ながら説教の音を聞き、真剣に聞き入る人々の背中を見、祈りの後アーメンを共にする。心が温かく燃えるのを感じたのです。聖霊が働いて下さったのです。逆に言語明瞭意味不明、言葉ははっきりわかるがちっとも身に入らない、こんな時があるかも知れません。これは、語る説教者と聞く自分、双方にさらなる聖霊の働きを祈る必要がある時です。11節。2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」なぜ言葉が通じたのかがわかります。それは、神の偉大な業を語っている言葉だったからです。礼拝において、神の偉大な業を語るアラビア語は、確かに私に通じたのでありました。12節13節 2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。信仰を持たない、正確には信仰がまだ与えられていない人々の反応は「単なる酔っ払いさ」であり、その本当の素晴らしさが理解できなかったのです。
さて、本日の説教題の前に「説教シリーズ サムエルに聞く 15回」と記しました。ダビデの生涯を通して私たちの人生に起こる様々な出来事への対処方法を聖書から聞いてきました、このシリーズは今回で終了し、「使徒言行録」を読み進めて参ります。「使徒言行録」は「ルカ福音書」の続編ですので「ルカ福音書」を終えてからと考えましたが、主イエスの語られた福音の言葉と、福音を「受けた教会がどの様に発展していったのかを、並行してみ言葉に聞くことは教会創立130周年の時に相応しいものと思うようになりました。
ではなぜ今日「サムエルに聞く」なのか? それは「ペンテコステの日まで聖霊は働かなかったのですか?」との疑問に答えるためです。いかがでしょうか?
創世記1章1節2節 1:1 初めに、神は天地を創造された。1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。天地が創造される前から父・子・聖霊なる三位一体の神はいらっしゃいました。当然聖霊も働いていらっしゃいました。出エジプト記 17:11 モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。 砂漠の中でモーセ一行はマナで養われました。そんな時一行を襲って来たアマレク人との戦い。モーセが手を挙げている時だけ聖霊が働いてくださったのです。
私たちはダビデの一生において、時々に働かれる聖霊を見てきました。エッサイの息子たちの中で一番年少の羊飼い少年ダビデが選ばれ、ゴリアトを石投げ紐一つで倒し、サウル王の逆恨みからの危機をヨナタンとの友情、神を仲立ちとする友情で切り抜け、神の箱を都エルサレムに迎え入れ、犯した大きな罪、バト・シェバとの情事も心からの悔い改めに導かれ、後継者争いの中にあっても主を見失いませんでした。彼の一生は高貴な人格と高い能力によるのではありません。時々に働かれた聖霊によって、神に立ち返り、神に感謝し、神を崇めることが出来たからなのです。サムエル記下23章には「ダビデの最後の言葉」との小見出しがついています。お読みしますので聞いて下さい。23:2 主の霊はわたしのうちに語り 主の言葉はわたしの舌の上にある。23:3 イスラエルの神は語り イスラエルの岩はわたしに告げられる。神に従って人を治める者 神を畏れて治める者は23:4 太陽の輝き出る朝の光 雲もない朝の光 雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。23:5 神と共にあってわたしの家は確かに立つ。神は永遠の契約をわたしに賜る すべてに整い、守られるべき契約を。わたしの救い、わたしの喜びを すべて神は芽生えさせてくださる。
旧約聖書の時代、聖霊は特定の人に特定の時にだけ働きました。しかし、ペンテコステの日に聖霊は降ったのです。教会が誕生したのです。そして2000年後の地球の裏側で今私たちは礼拝を捧げているのです。この事実こそがペンテコステの出来事の全てを語っているのではないでしょうか。ペンテコステの出来事を描く画家は大変苦労をしたに違いないと申しました。なぜならば私たちにとって多くの奇跡と同じように、不思議なこと常識外の出来事だからです。しかし、それは神様にとっては奇跡でもなんでもありません。単に約束されたこと、私たちへの愛を示されただけなのです。ヨハネによる福音書14章25節以下です。14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」このことがペンテコステの日に起こりました。不安におびえていた弟子たちに聖霊が降り教会が誕生しました。大祭司の庭からコソコソと逃げ出したペトロは迫害の時にあっても主イエスの福音を述べ伝える強い者へと変えられました。他の者たちも力強く世界に福音を伝えました。聖霊は今日もこの山形六日町教会に、そして集う一人一人に働いて下さっているのです。 感謝して祈りましょう。