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山形六日町教会

2017年5月28日

聖書:ダニエル書2章40~41節 ルカによる福音書12章49~53節
説教シリーズ ルカ福音書-69「分裂をもたらす」波多野保夫牧師

本日与えられましたルカによる福音書12章49節以下には、「分裂をもたらす」という小見出しが付けられていますが、私たちが持っています、「主イエスは神様の愛を生涯を通して示された優しい方」といったイメージに合いません。51節には、「12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」この様にあります。戸惑いを覚えられた方も多いのではないでしょうか。

毎年、待降節からクリスマスの礼拝にかけてよく読まれます旧約聖書イザヤ書9章5節には次のようにあります。9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。この聖書箇所は約700年後に救い主としてお生まれになった主イエスについて預言者イザヤが伝えた神様のメッセージです。預言者が主イエスを「平和の君」としているのに対して、ご自分では、「分裂をもたらすために来た。」とおっしゃっているのです。私たちの戸惑いはこのような所から来ています。
ルカ福音書12章49節以下を丁寧に読んで行きたいと思いますが、まず注意しておきたいことは、この説教シリーズで既に読んできました、ルカ福音書9章51節に「9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」このようにありました。イエス様一行はこの時、エルサレムに向かっているのですが、それはまさに十字架への道なのです。49節です。12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。「地上に火を投ずる」とずいぶん荒っぽいことをおっしゃっています。「火」は人間の生活に不可欠なものだからでしょう。聖書では様々な意味で使われています。旧約聖書エゼキエル書(1:4,5)では神の栄光の象徴ですし、申命記(4:24,36)では神聖さを表します。そしてゼカリヤ書(13:9)やイザヤ書(66:15–16)では神の裁きの象徴として語られています。
一方、目を新約聖書に移しますと、ヨハネ福音書で主イエスは裁きについて多くを語ってらっしゃいますが、その中の一つ、9章39節には 「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 このようにあります。従って49節の「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」は裁きについておっしゃっていると理解されます。当時のユダヤ人たちは、当然この世の悪を神が裁かれるのだと信じていました。
詩編には 35編 主よ、わたしの神よ/あなたの正しさによって裁いてください。 37編 あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。 48編 あなたの裁きのゆえに/シオンの山は喜び祝い/ユダのおとめらは喜び躍る。このように詩編には神の裁きを待ち望む歌があふれています。ダビデ王の時代には、虐げる者達に対して公平な裁きをしてくださる方への信頼を歌っているのですが、それから1000年近く後、主イエスの時代になると、ユダヤ人は「自分たちは選ばれた神の民であり、裁きに合うことは無く、裁かれるのはローマ人などの異邦人、すなわち唯一の神を認めない人たちだけだ。」と考えるようになっていました。しかし、主イエスが投じる火に例外はありません。
49節後半。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。その裁きが既に行われていればどんなにかよかっただろうに。なぜなら人が既に裁かれていたのなら、私は十字架の道を歩まなくて済むのだから。50節 12:50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。洗礼と訳されているギリシャ語は浸すとか浸(つ)かるという意味の言葉です。初代教会においては、私たちが通常行います頭に手で水を付ける滴礼と呼ばれる洗礼のやりかたとは違って、水の中につかる浸礼と言うやり方が一般的でした。使徒言行録(8:38)には使徒フィリポがエチオピアの宦官に洗礼を授けた場面が次の様に記されています。 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。水に浸けるのは一回死ぬ、すなわち罪の故にキリストと共に一回死に、罪が拭われて再び生きることの象徴です。ですからここでキリストが受けられる洗礼、それはバプテスマのヨハネから受けた洗礼ではなく、十字架における死を意味しています。その苦しみは十字架の上で死に至る苦しみや、それに先立つ総督ピラトの裁判の場からゴルゴダの丘への道を十字架を負って歩む苦しみだけではありません。やがてエルサレムに着けば避けることの出来ない自分の死を意識しながらも、その旅路はまた神に立ち返ることのない人間の現実を知り、少しも進まない弟子たちの信仰訓練の現実を知る時でありました。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 ここには主の悲しみがあるのです。
51節以下です。 12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 12:52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。 12:53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」真の神、主イエスが肉体をとって地上に来られた、それは裁きの火を伴っての誕生でした。それではこの火、すなわち裁きは何を焼き尽くすのでしょうか?もちろん私たちの罪を焼き尽くしますが、さらに古い習慣、すなわち怒りや頑なさや過ちに、私たちがどの様に対処するのか。あるいは神様から賜った能力やお金や健康や時間や交わり、そういったものをどう生かすのか。そして私たちが聖書を通して主が告げる神の愛を豊かに受ける素晴らしい人生を歩むのか、あるいは歩まないのか。それらの選択を迫るのです。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」その時、残念ながら私たちキリストに従う者にとって安全な中間地点というものは準備されていません。12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 主はこうおっしゃり、決断を迫ります。「私に従って愛に満ちた素晴らしい人生を共に歩むのか、歩まないのか」と。
私たちは日本基督教団の信仰告白を告白して洗礼を受けました。他教団出身の方には転入会の際に告白願っています。私たちが心を向けるべき唯一の方は聖書が指し示す三位一体の神の他にはありえません。当然そこには戦いがあります。信仰の戦いです。何かを諦める必要も生じるでしょう。しかし、そこにはまた諦めたことにも増して大きな喜びが与えられるのです。神のために捨てるものが地上の喜びであるとすれば、神が与えるものは天からの喜びです。
51節 12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。最初にお読みしたイザヤ書9章5節 9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。
主イエスがもたらしたもの、私にそしてあなたにもたらしたものは平和なのでしょうか? それとも分裂なのでしょうか?人と人との関係、あるいはその複数形として集団と集団との関係を考えましょう。人類がこの地上に現れて以来、多くの喧嘩や戦いがありました。近代では何万人もの犠牲者を出す戦争が発生しています。そしておそらくは、その戦いの数と同じくらいの和平がなされています。この意味で人間は和平の天才です。しかし、その様な和平を繰り返して来た人類の歴史の最先端に居る私たちですが、今の時代を平和だと感じるでしょうか?もっと身近な問題として、私たちの山形六日町教会の属します日本基督教団は1970年大阪万国博覧会への基督教館出展問題に端を発して以来、いわゆる「教会派」と「社会派」との激しい対立が続いて今日に至っています。「教会派」は礼拝を重視し福音の伝道を重んじて行動しますが、「社会派」はそれを教勢拡大主義だと批判し、社会における弱者、虐げられた者のために働く事こそが、主の示された愛の実践だと主張します。両者は分裂しているのです。昨年秋に開催された教団総会には境澤長老が東北教区選出議員として出席してくださいましたが、そこで費やされた3日間は決して前向きな時間ではありませんでした。以前のように暴力が支配する総会ではありませんが、一致団結して主イエスに仕えようとの機運には乏しい会議となっています。残念ですが教会の中にも確かに分裂は存在するのです。52節53節では家族の関係が例として挙げられます。日本では家族がそろって教会に通う家庭は多くはなく、そこには様々な信仰の戦いが存在しています。
司会の細矢長老に読んでいただいたダニエル書ですが、紀元前500年代にイスラエルの人々が経験したバビロン捕囚を背景にして終末について語ります。この場面はバビロニア帝国の王ネブカドネツァルにユダヤ人の若者ダニエルが、王の見た夢を神への祈りをもって解釈して報告している場面です。40節41節はバビロニアが滅んだ後にペルシャが起こり世界の覇者となっていくとの歴史上の出来事を告げていますが、その国は鉄の強さと共に焼き物のもろさを持っていると言うのです。強さともろさ、これは歴史上現れたすべての国にありました。それだけではありません。歴史上に名を残した全ての人がそうでした。初代教会の歩みにとって大きな働きを残した使徒パウロは、自分を罪人の頭と告白しますし、今年宗教改革500年を迎えますが命を懸けた戦いを強いられた、マルチン・ルターに次の様な言葉があります。「我々は生の真只中にあって、死に取り囲まれている。」「今日はすべきことがあまりにも多いから、一時間ほど余分に祈りの時間を取らなければならない。」いかがでしょうか、「今日はすべきことがあまりにも多いから、一時間ほど余分に祈りの時間を取らなければならない。」 弱さを抱えながらもルターの強さの源が祈りにあったことがわかります。
使徒パウロに戻れば、彼は自分に一つの刺が与えられていると述べています。コリントの信徒への手紙Ⅱ12章です。この刺が何であったのか。眼病だとか熱病あるいは癲癇など様々に言われますがはっきりしません。しかし、彼はその苦しみを「サタンから送られた使い」このように述べています。12章8節以下をお読みします。12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 パウロの祈りは聞かれませんでした。しかし、彼が与えられた刺、すなわちサタンの使いに負けたのかというと、そうではありません。彼はいつも喜んで主のために働くことが出来たのです。
ルカによる福音書に戻りましょう。12章51節です。12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。確かに私たちの周りに争いは絶えません。分裂だらけですが、その分裂は3種類に分けることが可能です。自分の利益、自分たちの利益、自国の利益を追求することから来る争い。「この世の争い」と呼びましょう。もう一つは主に従うことでは一致しても、その方法や道筋をめぐっての争いです。教団総会の話をしましたが、歴史上にはカトリック教会とプロテスタント教会の争いもありました。教会内部でも「クリスチャンの争い」はおきます。3番目は教会と社会との間で、「クリスチャンと未信者の間での争い」です。主が52節53節で言われているのは、2番目や3番目の場合でしょう。ここまで、51節で「分裂」とおっしゃったのを「争い」と言い換えてきました。わかりやすさの為ですが、完全に同じではありません。「分裂」とは一つではないことですから、いわゆる「争い」になっていなくても、心が通じあっていなければこれは分裂状態です。
私たちは主イエス・キリストによって本当の愛を知ります。それはご自分の命を犠牲にする愛です。そして、その主のご命令が「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」ことでした。主イエスが来られたことで「分裂が起きる」場合と「分裂していることが明らかになる」場合、この二つの場合が考えられます。「分裂が明らかになる」のは、私たちが主によって本当の愛の素晴らしさを知るほどに、隣人と本当の愛を持って交わっていなかったことが明らかになる、すなわち私たちの愛が利己的だと知るのです。相手が愛してくれる範囲で愛する。これでは、「敵を愛すること」は決して出来ません。主に従うことで「分裂が起きる」、こちらに関しては、私たちが主に従うのか従わないのか問われる時、中間的な安全地帯は無いのだと既に申し上げました。16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。マタイ福音書16章24節です 私たちが慣れ親しんだ古い習慣を捨てることを迫り、主に従って愛に満ちた素晴らしい人生を共に歩むのか、歩まないのか、どちらかです。この時に分裂は起こり得ます。しかしこれは栄光への分裂であり、恐れることはありません。共にいて助けて下さる主が、必ずやその分裂を乗り越える力を与えて下さるからです。
先ほどお読みしました旧約聖書ダニエル書は「終末」について述べていると申しました。旧約聖書の語る「終末」、すなわち神の国の到来は、救い主の誕生によって既に始まっています。先ほど争いを分類しました。「この世の争い」、「クリスチャンの争い」、そして「クリスチャンとこの世の争い」でした。これら全ての争い、分裂の完全な解決は私たちにとって「終わりの時」、すなわち主イエスが再び地上に来られる「終末の時」を待たなければなりません。この時に主が行われる裁きによって悪が滅ぼされ真の平和が実現します。これが主の約束です。預言者イザヤが伝えた通り一人のみどり子が与えられ、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。 すなわち復活の主が真の平和を地上にもたらしてくださるのは「終末の時」なのです。私たちがその時を希望の時として待つのは、神の国がこの地上に確立し、神の支配が行きわたるからです。
私たちクリスチャンはその時に神の国に迎え入れられることが約束されているので、どんなに困難な状況にあってもなお「希望」を持つことが出来るのです。ですから、先ほど指摘したような人間的な破れが教会においてあったとしても、なお聖霊は教会に強く働かれますから、私たちは教会を通して「神の国」の素晴らしさ、真実の神の愛を感じそして知ることが出来るのです。その上で、私たちは神の豊かな愛を伝えるためにこの世へと派遣されます。主イエスにこそ真の救いがあると伝えます。これが伝道です。隣人を愛することの究極は、それは「この世」へ、「友人」へ、そして「家族」へ福音を伝えることです。これは安全ではありません。分裂も起こり得ます。しかし、この分裂はまやかしの平和ではなく真の平和に、まやかしの救いではなく真の救いに至るためのものなのです。全ての人が主イエス・キリストに従う者へと変えられるためのものなのです。ですからこの分裂は克服可能です。なぜなら十字架において示された主イエスの愛は、変わることなく絶対的な力を持っているからです。主イエスにおける分裂は主イエスにおける一致へと導かれるに違いありません。聖霊が降り教会が誕生した記念の日、ペンテコステを一週間後にむかえます。私たち山形六日町教会は、主の福音の前進のために派遣され、用いたいただく幸せを共にしていきたいと思います。祈りましょう。