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山形六日町教会

2017年5月21日

聖書:サムエル記下16章5~14節 ローマの信徒への手紙12章18~21節
説教シリーズ サムエルに聞く-14「非難を受ける時」波多野保夫牧師

説教シリーズ、サムエルに聞くでは今から3000年程前にイスラエルの王となりましたダビデの生涯を通して、私たちの人生において起こります、様々な出来事、危機的なことや誘惑や重大な決断を求められること、これは皆さんにもおありだと思いますが、それらにどのように対処したら良いのか、み言葉を聞いて来ました。我々が順に読んで来ましたが、シリーズ第11回の4月9日に「それはあなただ」と言う説教題で11章26節から12章25節までの聖書に聞きました。ダビデ王が犯した大きな罪は、神の言葉を伝える預言者ナタンによって指摘されます。この罪の結果、バト・シェバとの間の子供は取り去られましたが、彼の悔改めが真実なことを認められた神は、二人の間に息子ソロモンを賜ったのでありました。12回と13回は、読みとばしてきた聖書箇所に気づきを与えられたことから、少し前に戻って、ヨナタンとの友情と私たちの守るべき礼拝とはどのようなものでなければならないか、神様がどのような礼拝を求めておられるかを、5月13日の夕礼拝と翌14日の礼拝で聞きました。
本日はその14回目になります。説教題を「非難を受けた時」としました。人生の中には、称賛を受けることもあるでしょうが、反対に故なく非難を受けることも起こり得ます。多くの場合に誤解に基づいているのでしょうが、悪意を持った中傷を受ける場合もあるでしょう。いつの間にか自分だけが悪者にされて、他の人はサッサト逃げたしまった。起こり得ることです。あるいはこれは昔から言われていますが、嫁と姑の確執などというのもあるかも知れません。昔は嫁いびりと言われましたが、今は立場が逆転して姑いびりの時代になり、昔嫁をやり、今姑をやってる私はなんて損な役回りだろう、こんなぼやきも世間にはあるように聞きます。そのように様々な故なき非難にさらされた時にどのように対処するのか、ダビデの物語りを通して、聖書に聞いて参りたいと思います。しかし、先ほど司会の日野長老に読んでいただいたサムエル記下16章5節以下と12章25節、悔い改めたダビデ王とバト・シェバの間に生まれた子供、ソロモンを「主は愛された」との記述の間には、時間的な隔たりが大きいだけでなく、ダビデ王の周りに大きな変化が起こっています。聖書を追いながらその状況を見ることから始めましょう。
12章26節以降にはアンモン人という異教徒に勝利したことが述べられています。罪を犯したことでダビデを離れていた神の恵みが回復されたことを伝えます。サムエル記下13章からは一転して、ダビデ家の内紛。王位継承争いが描かれます。ダビデ王の長男アムノンは皇位継承順位のトップにいましたが、こともあろうに、異母兄弟アブサロムの妹タマル、ですから長兄アムノンの母親の異なる妹になりますが、その美貌の妹タマルを恋してしまいます。友人に入れ知恵された彼は仮病を装いタマルを見舞いに来させ、ついに彼女を襲ってしまいました。それだけではありません。アムノンはタマルを侮辱して追い出してしまったのです。それを知ったアブサロムは激しく怒りますがひそかに復讐の機会を狙うのでした。「13:21 ダビデ王は事の一部始終を聞き、激しく怒った。」ダビデ王は激しく怒るものの、王位を継ぐ長兄アムノンを責めることはしません。全くの甘やかしです。甘やかされて育った者がどのようになるのかは3000年の時を隔てても変わらないようです。事件から2年たってもダビデは王位継承者アムノンに甘い一方でアブサロムには冷淡です。アブサロムは羊の毛刈りを祝う祝典にダビデ王を招きますが行こうとしません。アブサロムはダビデ王の代わりに出席した兄アムノンを殺してしまいます。「アブサロムは、妹タマルが辱めを受けたあの日以来、これを決めていたのです。」このようにあります。この仕返しをしたアブサロムは父の怒りを避けて3年間逃亡生活を送りました。13:38 アブサロムはゲシュルに逃げ、三年間そこにいた。13:39 アムノンの死をあきらめた王の心は、アブサロムを求めていた。これは13章最後の部分です。14章ではアブサロムはダビデ王に赦されエルサレムに帰ることが許可されますが、ダビデは頑なに2年間に亘ってアブサロムに会うことを拒否します。しかし、14章の最後には 王はアブサロムを呼び寄せ、アブサロムは王の前に出て、ひれ伏して礼をした。王はアブサロムに口づけした。 とありますが、これは形式的なものであり、ダビデ王と王子アブロサムが心を通わせることはありませんでした。15章は「アブロサムの反逆」との小見出しが付けられています。出来事の背後を知るにはどうしても聖書箇所が長くなります。16章までもう少しです。辛抱してください。14:25 イスラエルの中でアブサロムほど、その美しさをたたえられた男はなかった。足の裏から頭のてっぺんまで、非のうちどころがなかった。このように語られるアブロサムは、人気取りの作戦に出ます。民衆の心をつかむ、と同時に、ダビデの人気を貶め王の地位を略奪しようとの計画です。15章5節6節 15:5 また、彼に近づいて礼をする者があれば、手を差し伸べて彼を抱き、口づけした。15:6 アブサロムは、王に裁定を求めてやって来るイスラエル人すべてにこのようにふるまい、イスラエルの人々の心を盗み取った。
ダビデ王の治世は政治が安定しイスラエル王国が発展した時期ですから、大きな罪を犯したにもかかわらずダビデの人気は高かったのですが、アブサロムは綿密な計画によって、人々の心をダビデから盗み取ったのです。長い準備期間を経てアブサロムは父ダビデに対して反旗を翻します。10節 15:10 アブサロムはイスラエルの全部族に密使を送り、角笛の音を合図に、「アブサロムがヘブロンで王となった」と言うように命じた。 のであります。13節14節 15:13 イスラエル人の心はアブサロムに移っているという知らせが、ダビデに届いた。15:14 ダビデは、自分と共にエルサレムにいる家臣全員に言った。「直ちに逃れよう。アブサロムを避けられなくなってはいけない。我々が急がなければ、アブサロムがすぐに我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう。」
ダビデのエルサレム脱出は急を要しました。この様な危機的状況において忠誠心が明確にされます。落ち目の時に苦しみの時になお私たちに寄り添って下さる方、それが主イエスであることが思い起こされます。さて、祭司職のレビ人たちは「神の箱」と共に彼に従って都を脱出しようとします。ダビデは祭司たちに「神の箱」と共にエルサレムに留まるように命じました。これは神の箱が自分のお守りとして偶像的になるのを避けるとともに、祭司たちに都の様子を知らせるよう依頼し、アブロサムの動向が知れるようにしたのです。ダビデは恵みを与え続けて下さるという神の約束を信頼するとともに、冷静に情報戦略を行っていたのです。

やっと本日の聖書箇所サムエル記下16章5節にたどり着きました。
16:5 ダビデ王がバフリムにさしかかると、そこからサウル家の一族の出で、ゲラの子、名をシムイという男が呪いながら出て来て、16:6 兵士、勇士が王の左右をすべて固めているにもかかわらず、ダビデ自身とダビデ王の家臣たち皆に石を投げつけた。16:7 シムイは呪ってこう言った。「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。16:8 サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ。」ダビデへの嫉妬心からその命を必要に狙ったあのサウル王の一族、シムイと言う男が、その息子アブロサムの謀反によって、命の危険を感じるダビデ王の逃げ惑う場面に現れて石を投げつけ、呪いの言葉を吐いたのです。
最初に私たちの長い人生には非難を受けることがあると申しましたが、その非難が自分が苦しい立場に置かれた時、弱さを感じる時になされるとしたら、これは最悪です。その時の私たちの反応はどの様なものになるのでしょうか。ダビデの部下アビシャイの反応です。9節16:9 ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「なぜあの死んだ犬に主君、王を呪わせておかれるのですか。行かせてください。首を切り落としてやります。」誰かが故なく不公平な非難を浴びせて来た時、職場でも学校でも地域でも、あるいは家族や教会でもあるかも知れません。そんな時に首を切り落とすかどうかはともかく、強く反発して相手をやっつけようとします。自己防衛反応とでも申しましょうか。
しかし、ダビデの反応は違いました。10節 16:10 王は言った。「ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう。」「やりたいようにやらせておけ」と言うのです。なぜならば、神がお命じになっている、神が許可を与えていらっしゃるのだから。なぜ。それが神の命令、あるいは神が許可なさっていると知ることが出来るのでしょうか?
一番目。私たちに向けられた批判にはそれに値するものが、例え僅かであっても存在するからです。相手の言うことをよく聞かなかったり、十分な感度を持って対応しなかったり、誤解したり、話し合いが不十分であったり。もちろん私たちはことがあった時自分を正当化しますから認めたくはないのですが、相手だけが悪いということはまずないのではないでしょうか。
二番目。批判を受けることは、私の心が本当に神様を向いているのかチェックする機会となります。私たちのこの世の出来事に対しての判断基準がどこにあるのかです。もっと言えば真のクリスチャンなのかが問われます。
この時のダビデは復讐を神の手に委ねました。12節 16:12 主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」
三番目。批判を受けることを通して神は私たちに赦し成長するチャンスを与えられます。お互いに赦し合う生活、赦し合うことのできる人生とは仕返しを放棄することです。私たちは主の祈りで祈ります。「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え。」 主は全てをご覧になっており、全てをご存知です。私たちを愛し導かれるのと同じように、私たちを批判し呪う者をも愛し導かれるのです。
それでは何故私たちに仕返しをお許しにならないのでしょうか?これは推測なのですが、私たちには仕返しをコントロールできないからではないかと思います。相手がつつけば押します。一回たたけば二回たたく。蹴とばせば殴り倒します。国家の間ではライフル、機関銃、戦車砲、バズーカ砲、ミサイル、大陸間弾道弾、通常兵器、化学兵器、最近ではサイバー攻撃などもあります。際限がありません。果ては核戦争でしょうか。悪意や敵意のエスカレートは悪魔の望むところです。悪魔はあなたの被害者意識や嫉妬心を刺激して憎しみに変えます。憎しみはやがて殺意に代わります。サウル王がこの典型でした。この連鎖を打ち破る方法。それは赦ししかないのです。赦しを与える人生、復讐を放棄して神に委ねる人生。そして敵対するものと和解する人生。素敵じゃあありませんか。
仕返しをしないで口を閉じるのです。口を閉じるのは悪口だけでなく愚痴を言わないためでもあります。13節 16:13 ダビデと一行は道を進んだ。シムイはダビデと平行して山腹を進み、呪っては石を投げ、塵を浴びせかけた。サウル王の家系に属するシムイのダビデに対する逆恨みは執拗に続きます。しかし、ダビデが復讐に出ることはありませんでした。サムエル記下17章では、追いかけて来る息子アブサロムの軍からダビデは辛くも逃げ延びます。18章でダビデはやっと軍勢を立て直すことが出来、そしてアブサロムの軍勢との戦いに勝利しました。19章でダビデはヨルダン川を渡って、エルサレムへの帰途につきます。この時ダビデは王としての権威を取り戻していたのですが、そこに現れたのが、あの呪いの言葉を執拗に浴びせかけたシムイです。19章19節以下です。ゲラの子シムイは、王がヨルダン川を渡ろうとするとき、王の前にひれ伏し、19:20 王に言った。「どうか、主君がわたしを有罪とお考えにならず、主君、王がエルサレムを出られた日にこの僕の犯した悪をお忘れください。心にお留めになりませんように。19:21 わたしは自分の犯した罪をよく存じています。ですから、本日ヨセフの家のだれよりも早く主君、王をお迎えしようと下って参りました。」19:22 ツェルヤの子アビシャイが答えた。「シムイが死なずに済むものでしょうか。主が油を注がれた方をののしったのです。」 このアビシャイは先ほど「行かせください。首を切り落としてやります。」と言った男です。 23節に戻ります。19:23 だがダビデは言った。「ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。お前たちは今日わたしに敵対するつもりか。今日、イスラエル人が死刑にされてよいものだろうか。今日わたしがイスラエルの王であることを、わたし自身が知らないと思うのか。」19:24 それからシムイに向かって、「お前を死刑にすることはない」と誓った。
司会の日野長老に読んでいただいた新約聖書ローマの信徒への手紙12章18節以下です。 12:18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。12:20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」12:21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。正に今日読んだ聖書箇所においてダビデ王のとった行動です。しかし、ここで私たちがしっかり意識すべき方は主イエス・キリストです。「赦し」と言う言葉を最も強く感じることが出来る。それは主イエスの歩まれた十字架への道なのです。私たちの罪のために全く罪を知らない神の独り子が十字架の上で肉を裂き血を流されて私たちの罪を負って下さったその出来事です。主イエスがゲッセマネの園で逮捕された時です。26:52 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。26:53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。究極の仕返し放棄です。では主がその極みを示してくださっているのに、なぜ私たちはダビデ王の話を聖書によってわざわざ聞くのでしょうか。
その一つの理由は、私たちに言い訳をさせないためです。「そんなこと言ったって、イエス様はしょせん神の独り子だろー。だから仕返しを神に委ねることが出来たのだ!」 私たちは正に言い訳の天才です。しかし、ダビデの物語はこの口をふさぎます。確かに私より才能がはるかに豊かなダビデですが、彼のように大胆に罪を犯すことは無いでしょう。そうです、罪人の彼でさえ仕返しを神に委ねたのだとすれば、私たちに言い訳の余地はありません。神はダビデと同じだけ私たちを愛し、私たちはダビデと同く罪を犯すのです。しかし、その彼が仕返しを放棄したのです。
今日のサムエル記の聖書箇所を最初に日野長老が読んでくださり、私が繰り返しました。お聞きになっている皆さんは、シムイが私であり、あなただとして聞いたでしょうか? 私たちはダビデではないのです。しかし、私たちシムイが批判し呪う相手、それはダビデ王ではなく神なのです。神を呪い神に石を投げつけるシムイ、それが私でありあなたなのです。神の恵みが足りないと不平不満をつぶやきます。主が罪を負って下さったことを知りながら再び罪を犯します。神のみ前において素直な者になりきれません。これが私たちの姿なのです。
以前、主の祈りのある一節に来ると声を潜める長老さんのお話をしました。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」 この部分です。謙虚な気持から自分に出来もしないことを声高に祈ることを恥じられたのでしょう。しかし、それではほかの部分、例えば一つ手前の「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」。日ごとの糧をどれだけの感謝を持っていただいているのかも問われなければなりません。他の祈りもそうです。だとしたら、主の祈りは私たちがそれにふさわしくあるから祈るのではなく、ただキリストの故に、神の愛を受け入れる者と変えられ神を賛美する、その祈りなのでありましょう。全ての部分をはっきりと唱和したいと思います。まさにシムイである私が今日の聖書箇所が示しているダビデに変えられる。これが、キリストに従う者、すなわちクリスチャンに与えられた特権です。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』 主の言葉に従いたいと思います。祈ります。