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山形六日町教会

2017年5月14日

聖書:サムエル記下6章12~23節 ヨハネによる福音書4章21~24節
説教シリーズ サムエルに聞く-13「礼拝とは」波多野保夫牧師

サムエルに聞く説教シリーズの第13回目です。このシリーズでは、ダビデ王の一生に起きた様々な出来事を通して、私たちの人生における様々な出来事にどの様に対処すればよいのか、み言葉を聞いてきました。羊飼いの少年が主に呼び出されて預言者サムエルに油を注がれました。これは将来彼をイスラエルの王にするのだという神様の御心の表れでありました。少年ダビデはペリシテの巨人ゴリアトと対決することになりましたが、羊をオオカミから守るために使う石投げ紐一つで巨人を打倒したのです。彼はサウル王に寵愛されましたが、あまりの才能の豊かさにやがてサウル王は嫉妬し、ついには命を付け狙うようになったのでありました。
4月9日の受難週礼拝で、バト・シェバとの情事を隠すため夫ウリヤを死に追いやったダビデは、十戒の4つの戒め、第6戒 殺してはならない。第7戒 姦淫してはならない。第9戒 偽証してはならない。第10戒 隣人の妻を欲してはならない。さらにこれに加えて第1戒「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」この第1戒を破ったのだ。このように申し上げたことを思い起こしていただきたいと思います。これは、ダビデがこの時、神を神とするのではなく、自分の欲望であり、破れを取り繕うための悪魔のささやきに従ったからなのでありました。この日の説教題は預言者ナタンが鋭くダビデ王の罪を指摘した際に発した言葉、「それはあなただ!」この言葉を採りました。神を神とせず自分の欲望に従ってしまう。この罪と私たちは無縁ではないのです。主のご受難、十字架の死によって私たちの罪を負っていただかなければならない必然性がここにあります。神を神とせず、神に従わない私たちの罪。その代償はまったく罪を犯すことのない方、主イエス・キリストの十字架の死以外にあり得なかったのです。「それはあなただ!」この指摘にはっとしたダビデは、自分の行いを深く悔いて神に立ち返るのでありました。そのダビデ王に預言者ナタンは告げました。「主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」 私たちが自分の犯した罪を悔い改める、それは主イエスを救い主と告白し、主イエスに従って歩みだすこと以外にありません。主のご受難の日に相応しい聖書箇所が与えられたとの思いでありました。
さて、この説教シリーズ「サムエルに聞く」は受難週の礼拝で、サムエル記下12章25節まで読み進めました。しかし、13回目に当たります昨晩の夕礼拝では、サムエル記下9章からみ言葉を聞きました。この説教は6月度の月報に収録する予定にしていますので、お読みいただきたいと思います。
そして本日はサムエル記下6章のみ言葉を聞きます。サムエル記は分厚い書ですから、箇所を選んで読み進めましたが、その豊かさをあらためて思うものだからです。実は6章の11節までは3月の初めに「サムエルに聞く」の8回目で読み「拒絶なさる神」との題で説教しました。ダビデは全イスラエルの王になり、新しくエルサレムに都に定めて政治も安定しました。「神の箱」を都に運び入れ、礼拝を整えようと思った時の事です。新しい車に「神の箱」を載せ麦打ち場にさしかかった時、牛がよろめき、それを支えようとしたウザはその場で死んでしまいました。聖なる聖なる聖なる神のいらっしゃる「神の箱」に人が手を触れることは赦されなかったのです。ダビデが良かれと思って行った「神の箱」を都に迎える計画は、その時御心にかないませんでした。正しい運び方は民数記4章で神が教えられています。箱の四隅に取り付けられている金の輪にアカシヤの棒を通して担ぐのです。
この出来事は、ダビデ王の時代には既に律法の定めに対する忠実さが曖昧になっていたことを示していますし、「箱」自体を拝むことは偶像礼拝ですからその警告も含まれています。箱が指し示す神の臨在を感謝して心から礼拝することを明らかにする。ウザの死はこの為に必要な出来事だったのでありましょう。
先日の総会で、私たちは講壇に十字架を掲げる計画を承認しましたが、十字架を礼拝してはいけません。十字架の指し示す主イエスの業、主イエスの愛の業を覚えて主を礼拝するのです。
さて、本日の聖書箇所6章12節以下は「礼拝」に関して多くのことを語っています。それから3か月後の出来事です。なんとしても「神の箱」をエルサレムに安置して礼拝ととのえたいとダビデ王は、エルサレムに迎え入れることにこだわります。やがて神の怒りが解けたと悟った彼は、ただちに「神の箱」を都へと運び入れます。今回は律法の定めた通りに運びます。さらに、13節6:13 主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。のです。ある聖書学者は6歩進むごとにいけにえを捧げたのだと言います。ダビデはそれほどにまで慎重に、今回は神の御心を問いながら事をすすめたというのです。オベド・エドムの家からエルサレムはさほど遠くなかったそうですが、それにしても6歩ごとではすごい数の雄牛が犠牲になったことになります。最初の6歩の時だけとしても、今では動物保護団体からクレームがつくに違いありません。レビ記1章2節以下に焼き尽くす献げものの献げ方が示されています。焼き尽くす献げものは、旧約聖書の時代、神に罪の赦しを請う際に献げられました。神の前に出るには犠牲が必要とされたのです。奉納者は無傷の雄の牛を屠り、皮をはぎ、体を裂くのです。なんとも残酷な殺し方だと、これもクレームものです。
昨晩の礼拝で、これが契約の原型であり破った者は裂かれても良いという象徴的行為だったと申しました。契約を破ったものは裂かれても良い。現代感覚からすれば厳し過ぎますが、まあ納得できます。しかし、「自分が契約を破ったのではなしに、相手が破ったにもかかわらず、引き裂かれたのだ。それが主イエスの十字架の出来事なのだ。」 このように申しました。犯した罪の故に本来、私が引き裂かれなければならないのに、私がその罪の重さに気づかない先から、主はご自身を十字架に献げて神の怒りを鎮め、私たちと神との正しい関係、すなわち私たちが神の愛の中を歩むしあわせな人生を回復できるようにしてくださったのです。
私たちの罪の根幹。それは私たち自身の願い、願望、あるいは希望を、父であり、御子であり、聖霊であられる神、その神以外の何か他のもの、名誉や評判、お金、自分だけの利益などに置いて、それらが心を支配するとしたら、それは罪なのです。さらに神様に与えられたそれぞれがなすべきこと、使命から逃れることもまた罪なのです。
さきほど、教会総会で、会堂正面の壁に十字架を掲げようと決めた話をしました。礼拝堂に十字架をはっきりと掲げるのは、カッコ良いとか教会らしいからとか言った理由ではあり得ません。み言葉を語る者も聞く者も同じように大きな緊張を持った礼拝、それだけに大きな恵みを感じる礼拝となるためです。そして礼拝が終われば、主ご自身がその体を裂かれた十字架を強く覚えて、山形の地に福音を述べ伝えるために、この場から派遣されるのです。私たちは130年の記念すべき時にその素晴らしい選択を総会で行ったのです。
6章14節15節 6:14 主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。6:15 ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。麻のエフォドとは祭司が礼拝の時に着た祭服です。ダビデは神の現臨を象徴する「神の箱」の前で力の限り踊りました。人々は喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして主の箱をエルサレムへと運んだのです。このあり様だけを見れば町をねり歩く神社の神輿に似ているかも知れません。しかし、内容を含めてもっと似ているもの、それは礼拝です。今日多くの日本の教会が慣れ親しんでいる礼拝形式は宣教師たちが伝えた1800年代後半のアメリカでのそれによっています。基本的に、静かにみ言葉に聞き祈り賛美し捧げます。
しかし初代教会の礼拝はもっと生命力に溢れていました。ペトロやパウロは声を張り上げて神の言葉をかたり、人々は声を張り上げてそれにこたえ信仰を告白し祈ったのです。現代においても手を挙げて賛美する教会もあります。私もそのような礼拝で手を挙げての賛美をしましたが、私たちの讃美が歌詞を追うために下を向きがちなのに比べ、手を挙げて神様に向かって心を開く感覚がとても新鮮でした。この説教の後、早速手を挙げて賛美をなさることはかまいませんが、無理にすることはありません。そちらに気をとられて肝心なものを見失ってはいけないからです。大切なのは大きな喜び、そして感謝を持って礼拝することです。ダビデがまさにそうだったのです。さらに彼はその喜びを全ての人と分かち合ったのです。ダビデは万軍の主の御名によって民を祝福し、6:19 兵士全員、イスラエルの群衆のすべてに、男にも女にも、輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与えた。民は皆、自分の家に帰って行った。神と自分の関係、そして自分と人々との関係。そこには全力を尽くして、神と人とを愛する姿があります。これが礼拝者の姿なのです。
しかし、一人この喜びの輪に加われない人がいました。6章20節 6:20 ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」ミカルはサウル王の宮殿で育ちました。その彼女には華麗な王の服を脱ぎエフォド一つの裸同然な姿になって、満身で神への感謝と喜びを表して踊る、そんなダビデ王の姿は耐えられないものだったのです。彼女が愛したのは勇ましくペリシテ人と戦うダビデだったのです。23節 6:23 サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた。厳しい言葉です。これは、ミカルが裸で踊るダビデの礼拝の仕方を非難したことへの罰なのでしょうか? もちろんダビデの心がミカルから離れたためにそれ以後、彼女を召すことは無かったのでありましょうが、これは裁きの出来事としてではなく、ある意味が込められたできごと、一種の譬えとして読み解くのが相応しいでしょう。それは、もし私たちが心を込めて礼拝することを、ミカルの様に人目や世間体を気にして避けることがあるならば、あるいは自分の経験してきた礼拝の仕方から外れることを拒否するならば、その時私たちの人生は実を結ぶものにはならないことを意味しています。ご自分の人生を犠牲にして神に捧げられた主イエス・キリスト。もし私たちが主に従わない道を選び、もし私たちが主の払われた犠牲を軽んじ、もし私たちが形式にとらわれて心からの礼拝を捧げないとすれば、その時私たちの人生は実を結ぶものにはならないことを意味しています。実際、主イエスはダビデの家系にお生まれになったのですが、それはこのミカルを通してではなく、最初にお話ししたあのバト・シェバ。ダビデと共に姦淫の罪を犯した彼女を通してでありました。ダビデは預言者ナタンによって「その男はあなただ」と厳しい神の裁きの言葉を告げられました。そして、それに続く辛い出来事を通してダビデとバト・シェバは悔い改めたのです。神に立ちかえったのです。 バト・シェバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付けた。主はその子を愛されたのであります。二人は罪を悔い改める者への神の愛と恵みを知る者であったのです。6:23 サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた。この出来事は以上の様に読むべきでありましょう。
一般に宗教において神々と人との隔たりは、善行を積むこと、あるいは過ちを努力によって克服することによって克服されるとします。しかし、キリスト教では神と私たちとの隔たりを解決する唯一の方法は、私たちが破れを認めることであり、神に立ち返ることです。その時、私たちは神の恵みを見出すことが出来ます。全力で神を礼拝し賛美するダビデを非難したミカルは、神の恵みを理解しませんでした。一方バト・シェバはダビデと共に自分の弱さ、自分の罪、自分の破れを認めたのです。
ヨハネ福音書4章23節以下は次の様に告げます。4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。これはサマリアの井戸端で出会った女への言葉です。彼女は、井戸に人が来ることがない真昼間を選んで水汲みに来ていることからも、罪の女とされています。主は、その彼女に「渇くことのない水」が与えられるのだと告げ、4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。この様におっしゃったのです。この場面で主が直接的に指摘されているのは、礼拝する場所についてです。サマリアの山で礼拝する、あるいはエルサレムの神殿で礼拝する。そんなことは問題ではないのだとおっしゃるのです。しかし、それと同様に立派な祭司の服を着て厳かに礼拝するのか、ダビデの様にエフォド一枚、ほとんど裸の状態で踊るのか、そこが問題ではないのです。
ここに私たちが守るべき礼拝の姿が示されています。霊と真理を持っての礼拝、心を開いて聖霊を迎え入れ永遠の真理、すなわち変わることのない神の愛に信頼する。そして罪を悔い改め、主に従って再びこの世へと派遣される。このような礼拝を神様は求められるのです。
しかし、ではそれは具体的にどのような礼拝なのでしょうか?ここで皆さんに考えていただきたい一つの出来事を紹介しましょう。あるご婦人の方、この方はロンドンでの生活が長かったのですが、帰国されて礼拝に出席されました。その方は礼拝中帽子をかぶっていらっしゃいました。礼拝が終わると一人の長老さんが女性の所にやって来て、「礼拝中帽子をかぶっているとはなにごとだ。礼拝は神様の前に出るのだから帽子をとれ。」言葉は正確ではないのですが、このような趣旨のことをおっしゃったそうです。その後どうなったかはさておき、注意の仕方なども含めて考えていただきたい問題です。みなさんテレビなので見たことがおありでしょうが、エリザベス女王がウエストミンスター寺院での礼拝に出席なさる際、帽子をとることはありません。ケネディー大統領の葬儀でジャクリーヌ婦人が黒い帽子に黒いベールで幼い子供たちの手を引いている写真は印象的でした。帽子を付けているのが正装です。使徒パウロが書きましたコリントの信徒への手紙11章を拾い読みしてみます。11:5 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。11:10 だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。11:13 自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。11:14 男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。11:16 この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。もちろん、パウロの手紙は2000年前のギリシャでの習慣とか風俗を前提にして書かれています。ですから、今の日本の習慣、少なくともその時の礼拝参加者多くの方の感覚からすれば、帽子をとることが自然です。いま、ここに帽子をかぶって礼拝している方がいたとすれば、そのことに気をとられて説教はうわの空になる事でしょうし、同じことが、ダビデのようにほとんど裸の人がこの礼拝に出席したら起こるでしょう。主にある兄弟姉妹の心をいたずらに波立たせることは礼拝の時に相応しくありません。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。 帽子の問題に限らず、具体的に私たちがどうするのか? それぞれが真剣に考え、また皆で真剣に考えなければなりません。しかし、それはまず「礼拝に参加する」ことから始まります。議論が先ではありません。真剣に礼拝を捧げることにおいて、その答えが与えられるのではないでしょうか。そして、そのために「新しく講壇に掲げられる十字架」が用いられるのであれば、キット主は喜んでくださるに違いないのです。祈りましょう。