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山形六日町教会

2017年5月13日

聖書:サムエル記下9章1~13節 マタイによる福音書25章37~40節
説教シリーズ サムエルに聞く-12「主にある友」波多野保夫牧師

今宵もご一緒に主のみ言葉を聞いて参りたいと思います。 説教シリーズ「サムエルに聞く」の12回目になります。受難週の礼拝においてシリーズ11回目としてサムエル記下12章25節までを読み進めましたが、今日と明日の二回は一旦立ち止まり、読み飛ばしてきた箇所に戻ります。いずれも豊かな内容を持った聖書箇所です。
サムエル記下9章1節以下です。9:1 ダビデは言った。「サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのために、その者に忠実を尽くしたい。」9:2 サウル家に仕えていたツィバという名の者がダビデのもとに呼び出された。「お前がツィバか」と王が尋ねると、「僕でございます」と彼は答えた。9:3 王は言った。「サウル家には、もうだれも残っていないのか。いるなら、その者に神に誓った忠実を尽くしたいが。」「ヨナタンさまの御子息が一人おられます。両足の萎えた方でございます」とツィバは王に答えた。ペリシテの巨人ゴリアトを倒した後、ダビデはサウル王に仕えるようになりましたが、彼は竪琴の名手であり、一流の詩人であり歌い手であっただけでなく、一流の戦士であり、戦略家でありまた信仰深い若者でした。ダビデの優秀さを『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と人々が歌い踊ったのに対して、サウル王の嫉妬心は燃え上がり、やがて彼の命を執拗に狙うのでありました。そんなダビデを幾度となく救ったのが、サウル王の息子ヨナタンであり、ダビデとヨナタンは篤い友情で結ばれたのです。さらにダビデはヨナタンの子孫を慈しむと主に誓ったのでした。しかし、この時すでにサウル王と息子ヨナタンはペリシテ軍との戦いに敗れ戦死していました。その後、ダビデ王は北のイスラエル王国と南のユダ王国を統一し、都をエルサレムに定め、礼拝の対象である「契約の箱」を首都エルサレムに運び入れました。こうして国が安定した頃の出来事です。ダビデはいつも心にかかっていたことを言ったのです。「サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのために、その者に忠実を尽くしたい。」 そして愛するヨナタンの息子メフィボシェトのことを知ったのです。ダビデ王は今は落ちぶれているメフィボシェトを王宮へと呼び出しました。9章6節以下です。 9:6 サウルの子ヨナタンの子メフィボシェトは、ダビデの前に来るとひれ伏して礼をした。「メフィボシェトよ」とダビデが言うと、「僕です」と彼は答えた。9:7 「恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。祖父サウルの地所はすべて返す。あなたはいつもわたしの食卓で食事をするように」とダビデが言うと、9:8 メフィボシェトは礼をして言った。「僕など何者でありましょうか。死んだ犬も同然のわたしを顧みてくださるとは。」9:9 王は、サウルの従者であったツィバを呼んで言った。「サウルとその家の所有であったものはすべてお前の主人の子息に与えることにした。7節でダビデは「恐れることはない。」このように語り始めていますが、宮殿へと呼び出されたメフィボシェトは恐れおののいていたに違いありません。なぜならば、王家が変わった場合、前の王の家系を根絶やしにするのが当然とされていたからです。なぜならば、前の王家の者は必ずやその家系の再興を願い、隙があれば謀反を起こして、今の王を倒そうとするからです。貧しくひっそりと暮らしている自分がダビデ王に呼び出された、その出来事はメフィボシェトを恐怖に陥れるに十分だったのです。しかし、ダビデが告げたことは、サウル王の財産を全て返すだけではありません。メフィボシェトは王子の一人のように、ダビデの食卓で食事をした。9:13 メフィボシェトは王の食卓に連なるのが常のことであり、両足とも不自由なので、エルサレムに住んだ。 これもまた王家の安全を守る戦略上、大変にまずいことでした。当時の王の食卓は単なる食事の場ではありませんでした。そこには大臣や将軍なども集い、国家戦略を相談する作戦会議の場でもあったからです。国家の重要機密を前の王家の人間が知ることなどあってはいけないことだったのです。なぜこうまでしてダビデはヨナタンの息子メフィボシェトに慈しみを示したのでしょうか。
サウル王に追われるダビデをヨナタンが救った場面です。サムエル上20章14,15節をお読みしますので聞いて下さい。20:14 そのときわたしにまだ命があっても、死んでいても、あなたは主に誓ったようにわたしに慈しみを示し、20:15 また、主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときにも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに断たないでほしい。」20:16 ヨナタンはダビデの家と契約を結び、こう言った。「主がダビデの敵に報復してくださるように。」 ダビデはヨナタンの家を慈しむ誓いを神の前に立てていました。そしてその誓いを誠実に実行したのです。しかも前の王家の血縁の者を生かしておくだけではなしに、最高の待遇を与えるという当時では全く考えられないこと、いやそれは絶対に行ってはいけない方法によってだったのです。これはヘロデ大王が自分の兄弟、妻、息子や義理の母を次々殺害したのもこれに通じますし、現代においても近くの国で同様のことが行われているそうです。いつの世にあっても権力を維持することは大変なことなのです。
それではなぜ、ダビデがここまでヨナタンとの契約にこだわるのでしょうか。
実は「契約」とは2者の間の関係性によるものですが、2種類あり英語では別々の単語になっています。一つは商業的な約束です。コントラクトcontractと言う言葉です。もう一つは神との約束あるいは神を仲立ちとした人と人との約束です。カバナントcovenantと言います。商業的なお互いの関係と、信仰的な関係とでもいいましょうか。商業的な関係での関心事は自分の利益を最大にすること、あるいは自分が損をしないことです。一方、信仰的な関係における関心事は、相手にどれだけ満足してもらえるかにあります。前者が相手から得られるものが関心事であるのに対して、後者は相手に与えることが関心事になります。 ヨナタンとダビデはまさにカバナントcovenant、神を仲立ちとした契約を結んだのです。従ってダビデ王にとって、前の国王の血縁の者を全て殺してしまうという当時の常識に反して、メフィボシェトを大切にすることは極めて自然なことだったのです。しかし、それだけならばメフィボシェトに彼の祖父サウル王の財産を返すだけで十分すぎる行いです。しかし、ダビデは彼が王の食卓に加わり王の家族のように生活することを許しました。傍目には大変に危険な行動です。 王の孫として生まれ何不自由なく育ったメフィボシェト。5歳の時サウルとヨナタンの悲報を受けた乳母が抱いて逃げようとした際に動顚して落としてしまったことから両足が萎えていました。ロ・デバルという無名の地で、マキルという人物に保護されていたのです。そんな彼の人としての尊厳を回復する。ダビデはここまでの配慮をすることを当然と考えました。カバナント、神を仲立ちとした契約では相手に与えることを考えるのです。しかし、国王の身の安全はダビデ一人の問題ではありません、国家の安定のためにおろそかにしてはいけないのですが、ダビデはメフィボシェトを篤くもてなすことのリスクを気にかけませんでした。なぜなら神ご自身がダビデの王国を守って下さると確信していたからです。
毎週木曜日に持たれます「聖書に聞き、祈る会」では、昨年から月一回旧約聖書に用いられている大切な言葉を小友先生の文章で学んでいます。その第一回は「契約」でした。旧約聖書が書かれているヘブライ語では「契約」を「結ぶ」と言うのではなく「切る」これはカーラトと言う言葉ですが、契約を切るというのです。なぜこの様に表現するのか、小友先生は創世記15章で神がアブラハムに恵みを与える契約をされた際、「引き裂かれた動物の間を燃える松明が通り過ぎた」と書かれている出来事を捉えて、契約を結ぶとは「それを破った際には引き裂かれても良い。」それが契約を結ぶということだ。このように説明されています。サムエル記下7章11節以下には「ダビデ契約」と呼ばれる神の一方的な恵みの約束があります。7:16 あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。ダビデ王の1000年近く後の子孫としてこの世に誕生された方、それが主イエスでありました。そしてその主イエスは、契約を破ったのでも罪を犯したのでもないのに、ご自分の体を裂くことをもって、人間の犯した罪の償いをなさいました。ここに神の無償の愛が示されているのです。私たちはその出来事、主イエス・キリストの十字架の出来事を知っている者です。神が一方的に契約を守り、私たちへの愛を示されたその事実を知っているのです。しかし、ここで大きな悲劇があります。それは、私には神の愛に直接お答えすることが出来ないということです。罪から離れ再び罪を犯さない、このことが出来ないのです。ダビデ王も罪とは無縁ではありませんでした。部下であったウリアの妻バテシバを横取りした罪を聖書は正直に告げます。そのようなダビデは、ヨナタンとの契約、神様を仲立ちとしての約束に忠実でありました。傍目には多くの困難がある中で忠実でありました。彼はメフィボシェトに慈愛の心を十分に示したのです。
ルカによる福音書 10章25節以下に有名な「良きサマリア人」の譬えがあります。「何をすれば永遠の命を得られるのか」と問うた律法の専門家に譬えを話された後、追剥に襲われた人の隣人になったのは誰なのかと問われたのです。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 慈愛すなわち見返りを期待しない愛。自分の利益ではなく相手のためにする行為。ダビデ王が前の王家の血縁者を危険を顧みずに篤くもてなした愛。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 主は私たちに求められているのです。マタイによる福音書25章37節から40節です。25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
私たちの周りには多くの慈善団体があります。「人として当然のことだ」として、様々な活動をしています。赤十字やユニセフ、国境なき医師団など大きな団体もある一方、この山形六日町教会もその設立にかかわった山形いのちの電話には毎年ささげものをしています。CSもまた様々な所に献金しています。点字図書館の点訳奉仕や音訳ボランティアという大切な働きもあります。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 主の御言葉です。素晴らしい働きはクリスチャンに限りません。
今晩は、キリストの愛、慈愛を直接的に教会を通して表している団体をご紹介したいと思います。私たちが4年前にお世話になった教会はCompassion International と言う団体に強くかかわっていました。意訳をすれば、「主イエスの慈愛を世界の子供へ」とでもいいましょうか、発展途上国の貧しい子供たちに、現地の教会を通して主に教育資金を提供する団体です。なぜ教育資金かといいますと、「魚を送れば一日生きられる。網を送れば一年役立つ。教育を施せば生涯役立ち、国や社会の発展に寄与できる。」この様な考えによるのです。支援は毎月の学資支援。(現地の教会を通して支給されます)そして手紙による交流です。 これは教会の廊下に張られた、教会員たちが支援している子供たちの写真です。
ビデオを2本見ていただきました。元消防士の方が、8年の時を経て主に用いていただいた喜びを語るビデオと、もう一本は、教会の高校生たちが夏休みにアフリカのスワジランドに伝道旅行をして、現地の教会を修復したり、子供たちに愛を届けたりしました。そして「礼拝を一緒に守ることで生きて働かれる神をあらためて知った。」このように語っていました。アルファコースでニッキー牧師が、「いわゆる先進国でのクリスチャン減少は甚だしいが、世界的に見ればクリスチャンは増えている。」と述べていましたが、実感できるのではないかと思います。
本日の説教題を「主にある友」といたしました。もちろん友を愛する、その最高の表現は私たちに与えられている最も素晴らしいもの、主の福音を分かち合うことです。ご覧に入れたのは一つの例にすぎません。それぞれが主の御言葉に素直でありたいと思います。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』祈りましょう。